ウォータールー大学のアヒム・ケンプフとエイナール・ガバソフは2025年、Quantum Science and Technology誌で量子コンピュータの計算速度の上限に関する研究成果を発表した。彼らは、計算問題の複雑さが必要とされる量子もつれの複雑さに対応し、問題ごとに異なる速度上限が定まることを示した。研究はアディアバティック型量子コンピュータを対象とするが、この知見は回路型量子コンピュータにも適用可能である。
from:What is a quantum computer’s speed limit? Entanglement can provide an answer
元論文DOI: 10.1088/2058-9565/ae0364
【編集部解説】
量子コンピュータの究極の計算速度、いわゆる「スピードリミット」というテーマは、古典計算機がもつ計算限界の量子版といえます。近年、量子もつれの複雑さが計算問題の複雑性と密接に対応し、量子計算の進行速度を根本的に規定するという理論が注目されています。今回のKempf氏らによる研究は、その具体的な測定方法や実用的な指標を提示した点に新規性があります。
現実的な時間で計算できるかどうかは、現代の数理科学における最重要課題の一つです。P≠NP問題は「理論上は解けるが、現実的な時間では解けない」問題群の存在を示唆しますが、本研究が明らかにした“量子スピードリミット”は、量子計算に対する同様の境界条件を与えます。量子もつれの生成や操作の物理的困難さが、問題によっては計算速度の絶対的な限界になる可能性があることがポイントです。
なぜ限界がわかることが重要かというと、例えば蒸気機関の効率の理論上限を示したカルノーサイクルのように、その分野の技術発展に具体的指標を与えられるからです。高速度不変の法則(光速度の制限)と同様、設計や戦略策定の大前提を成します。もしこの限界を超えることができないと知ることで、逆に最適化手法やハードウェア開発で無駄な試行錯誤を減らせます。
ニュースの意義としては、量子計算機の経済的・実用的価値をより現実的に見積もることが可能になる点にあります。どんなに高性能なハードウェアでも、計算問題のもつれ生成が難しければ「まだら模様の地形を一気に踏破する」ことは物理的に不可能という整理ができます。逆に、もつれが比較的単純に構築できる問題であれば、理論的に最大の速度で計算資源を投下できるわけです。今後は、具体的なアルゴリズムや応用分野ごとに「どれだけのもつれが必要になるか」という“計算資源地図”を描く研究が進むことが期待されます。
この方向性は、量子暗号、最適化、複雑化学シミュレーションなど既存の“夢”領域で実効的なブレークスルーや限界点を見極める上で重要な視座を与えるものです。社会的には量子計算機の過度な期待と冷静な現実評価のバランスをとる材料にもなります。技術進化の先端を走る読者層にとっては、自身のビジネスや研究投資戦略を設計する上での基礎情報となるでしょう。
【用語解説】
- 量子コンピュータ
量子力学の原理を利用して従来のコンピュータでは難しい計算を実行できる計算機。 - 量子もつれ
複数の量子状態が互いに強く関連付けられており、一方を測定するともう一方の状態が瞬時に決まる現象。 - NP困難問題
多項式時間で解くことが難しい複雑な数学的問題の分類の一つ。 - P≠NP問題
計算複雑性理論で中心的な未解決問題。全ての答えの検証が容易な問題(NP)が解決も容易な問題(P)と一致するかどうかを問う。 - カルノーサイクル
熱機関でエネルギー変換の理論上限効率を示す理論モデル。
【参考リンク】
D-Wave Systems
https://www.dwavesys.com/
カナダに本社を置くアディアバティック型量子コンピュータのパイオニア企業で、多様な業界向けに量子技術を提供している。
Quantinuum
https://www.quantinuum.com/
HoneywellとCambridge Quantumの合併により誕生した量子技術専業企業。