MITのロバート・ワインバーグ教授とポスドクのジンウェイ・チャンらの研究チームが、休眠状態のがん細胞が覚醒するメカニズムを解明した。
研究成果は2025年9月1日にProceedings of the National Academy of Sciences(PNAS)で発表された。チームはヒト乳がん細胞をマウスに注射し、蛍光タンパク質で細胞を追跡する実験を実施した。
化学療法薬ブレオマイシンによる肺炎症が休眠がん細胞を覚醒させ、大きながんコロニーの成長を引き起こすことを確認した。覚醒のメカニズムとして、M2マクロファージが上皮成長因子受容体(EGFR)リガンドを放出し、休眠がん細胞の受容体に結合することでシグナルカスケードが活性化される。
覚醒したがん細胞は「覚醒記憶」を保持し、継続的な炎症シグナルなしに増殖を続ける能力を獲得する。がん関連死亡の90パーセントは転移によるものである。
From: Inflammation jolts “sleeping” cancer cells awake, enabling them to multiply again
【編集部解説】
このMITの研究は、がん治療における最も困難な課題の一つに新たな光を当てています。転移性がんの恐ろしさは、治療後何年も経ってから突然再発することにあり、この現象を科学的に解明した点で画期的な成果といえるでしょう。
ワインバーグ教授らが明らかにしたメカニズムは、私たちが持つがん治療への常識を覆すものです。化学療法は本来がん細胞を攻撃する目的で使用されますが、ブレオマイシンのような薬剤が組織に炎症を引き起こし、結果として休眠していたがん細胞を覚醒させてしまうという皮肉な構図が浮かび上がりました。
特に注目すべきは「覚醒記憶」という概念です。一度目覚めたがん細胞は、継続的な炎症シグナルがなくても増殖を続ける能力を獲得します。これは、がん細胞が環境変化に適応する驚異的な能力を持つことを示しており、治療戦略の根本的な見直しが必要であることを意味しています。
この発見が臨床に与える影響は計り知れません。現在の化学療法プロトコルでは、手術後の再発防止を目的としてブレオマイシンが使用されることがありますが、この研究結果を踏まえると、治療方針の再検討が急務となるでしょう。
一方で、この研究はポジティブな側面も提供しています。M2マクロファージやEGFRシグナル経路といった覚醒メカニズムが特定されたことで、これらを標的とした新たな治療法開発の道筋が見えてきました。休眠がん細胞の覚醒を阻止する薬剤や、覚醒記憶をリセットする治療法の開発が期待されます。
長期的な視点では、この研究はがん治療のパラダイムシフトを促すものと考えられます。従来の「がん細胞を殺す」という発想から、「休眠状態を維持する」という新しいアプローチへの転換が進む可能性があり、慢性疾患としてのがん管理という概念の確立につながるかもしれません。
【用語解説】
転移(metastasis):がん細胞が最初に発生した臓器から血液やリンパの流れに乗って別の臓器に移動し、そこで増殖する現象。がん死亡の約90%が転移によるものとされている。
休眠がん細胞:転移先の組織で増殖を停止し、長期間にわたって検出困難な状態で潜伏しているがん細胞。免疫系から逃れるための生存戦略の一つ。
ブレオマイシン:抗がん剤の一種で、DNAを切断してがん細胞を破壊する作用を持つ。肺線維症などの副作用があることで知られている。
M2マクロファージ:免疫細胞の一種で、通常は組織修復や炎症の収束に関与するが、がんの進行を促進する場合もある「腫瘍関連マクロファージ」として機能することがある。
EGFR(上皮成長因子受容体):細胞表面に存在するタンパク質で、細胞の増殖や分化を制御するシグナルを受け取る受容体。多くのがんで異常に活性化されている。
腫瘍微小環境:がん細胞を取り囲む周辺組織や細胞、血管などの総称。がんの成長や転移に大きな影響を与える環境要因。
【参考リンク】
MIT(マサチューセッツ工科大学)(外部)
世界最高峰の理工系大学の一つ。ワインバーグ教授が所属し、がん研究の最前線を牽引している教育研究機関
ホワイトヘッド生物医学研究所(外部)
MITと提携する独立研究機関で、生物医学分野の基礎研究を行っている世界的に著名な研究所
Proceedings of the National Academy of Sciences (PNAS)(外部)
米国科学アカデミーが発行する権威ある学術誌で、自然科学分野の重要な研究成果を掲載
【編集部後記】
この研究が示す「覚醒記憶」という概念は、私たちが考える以上にがん細胞の適応力が高いことを物語っています。もしかすると、従来の「がんを完全に根絶する」という考え方から、「がんと共存しながら制御する」という新しいアプローチが必要な時代が来ているのかもしれません。
皆さんは、こうした発見が将来のがん治療にどのような変革をもたらすと思われますか?また、炎症とがんの関係について、日常生活で私たちが気をつけるべきことはあるのでしょうか?ぜひSNSで、この研究について感じたことや疑問を共有していただければと思います。