マサチューセッツ大学アマースト校の研究チームが、生物学的ニューロンと効率的に通信できる人工ニューロンを開発した。
この人工ニューロンは0.1ボルトで動作し、従来の人工ニューロンの約10分の1の電圧、電力消費を約100分の1に削減する。信号振幅、スパイキングエネルギー、時間的特徴、周波数応答の点で生物学的ニューロンのパラメータと一致している。
電気・コンピュータ工学准教授のJun Yaoによると、この技術はウェアラブル電子センシングデバイスの小型化に貢献する可能性がある。この人工ニューロンのメムリスタには、Geobacter sulfurreducensという細菌から採取したタンパク質ナノワイヤーが使用されている。研究チームはNature Communications誌に論文を発表した。
From: Cyborg dreams move closer to reality with low-power artificial neuron
【編集部解説】
この研究の最も革新的な点は、人工ニューロンの動作電圧を生体ニューロンと同じ0.1ボルトまで下げたことにあります。これまでの人工ニューロンは1ボルト以上の電圧が必要で、生体組織との直接的なインターフェースには電力消費や発熱の問題が避けられませんでした。今回の成果により、増幅回路を介さずに生体信号を直接処理できる可能性が開かれたのです。
鍵となるのはGeobacter sulfurreducensという細菌由来のタンパク質ナノワイヤーです。この生体材料は導電性を持ちながら、生体適合性も高いという特徴があります。Jun Yao准教授の研究チームは、このナノワイヤーをメムリスタ型デバイスに組み込むことで、イオンベースの生体信号と電子ベースの人工システムの橋渡しを実現しました。
医療応用の観点では、脳コンピュータインターフェース(BCI)の小型化と長時間動作が期待されます。従来のBCIは増幅回路が必要なため装置が大型化し、バッテリー消費も激しいという課題がありました。低電圧動作が可能になれば、より自然な形で神経系と電子機器を接続できるようになります。
またニューロモーフィックコンピューティングの分野でも注目されています。人間の脳は約20ワットで動作する一方、現代のAIシステムは数メガワットを消費します。生体に近い動作原理を持つ人工ニューロンは、この電力効率の差を埋める重要なステップとなるでしょう。
一方で生体材料を使用する技術には、安定性や量産性の課題が残されています。タンパク質ナノワイヤーの長期的な耐久性や、製造プロセスの標準化は今後の研究テーマとなります。また生体組織との直接接続には、安全性や倫理面での慎重な検証も必要です。
【用語解説】
メムリスタ
抵抗値を記憶できる電子素子で、メモリ(記憶)とレジスタ(抵抗)を組み合わせた造語である。電流の履歴に応じて抵抗値が変化し、電源を切っても状態を保持する特性を持つ。生体ニューロンのシナプス動作を模倣できるため、ニューロモーフィックコンピューティングの基礎技術として注目されている。
ニューロモーフィックコンピューティング
人間の脳の神経回路網(ニューラルネットワーク)の構造と動作原理を模倣したコンピューティング技術である。従来のフォン・ノイマン型アーキテクチャとは異なり、並列処理と低電力動作が特徴で、パターン認識や学習タスクに優れている。
バイオエレクトロニクス
生体組織や生体分子と電子デバイスを融合させた技術分野である。生体信号の検出、診断、治療などの医療応用や、生体材料を用いた次世代センサーやエネルギーデバイスの開発が進められている。
スパイキングニューラルネットワーク
生体ニューロンのスパイク(パルス状の電気信号)を模倣した情報処理方式である。信号のタイミングや頻度で情報を伝達するため、従来の人工ニューラルネットワークよりも時間情報を効率的に扱える。
タンパク質ナノワイヤー
特定の微生物が生成する導電性を持つタンパク質繊維である。ナノメートルスケールの直径を持ち、生体適合性と電気伝導性を兼ね備えている。Geobacter sulfurreducensなどの細菌が嫌気環境下で呼吸(電子伝達)を行う際に電子を移動させるために利用している。
ブレイン・コンピュータ・インターフェース(BCI)
脳の神経活動を直接コンピュータに入力する、または逆にコンピュータから脳に情報を送信する技術である。運動機能障害の補助や、コミュニケーション支援などの医療応用が期待されている。
【参考リンク】
University of Massachusetts Amherst(外部)
マサチューセッツ州立大学システムの旗艦校。工学部を中心に先端材料科学やバイオエレクトロニクス分野で活発な研究活動を展開している研究型総合大学。
Nature Communications(外部)
自然科学全般を扱うオープンアクセス学術誌で、査読付き論文を掲載。Nature誌の姉妹誌として高い信頼性を持つ国際的な科学ジャーナル。
Jun Yao Lab – UMass Amherst(外部)
Jun Yao准教授が率いる研究室の公式サイト。タンパク質ナノワイヤーを用いたバイオエレクトロニクスデバイスの研究成果や論文が掲載されている。
The Register(外部)
1994年創刊の英国のテクノロジーニュースサイト。IT業界やハードウェア、科学技術の最新動向を独自の視点と詳細な技術解説で報じている。
【参考記事】
UMass Engineers Create First Artificial Neurons That Could Directly Communicate with Living Cells(外部)
UMassアマースト大学の公式プレスリリース。研究チームが開発した人工ニューロンの技術的詳細や*Geobacter sulfurreducens*由来のタンパク質ナノワイヤーの活用方法を解説。
Constructing artificial neurons with functional parameters comprehensively matching biological values(外部)
研究チームがNature Communications誌に発表した原著論文。人工ニューロンが生物学的細胞と接続して細胞信号をリアルタイムで処理する実証実験の詳細を記載。
Self-sustained green neuromorphic interfaces(外部)
Jun Yao研究チームによる過去の関連研究論文。タンパク質ナノワイヤーを用いた自律駆動型ニューロモーフィックインターフェースの開発について記載されている。
【編集部後記】
生体ニューロンと同じ電圧で動作する人工ニューロンが実現したことで、脳とコンピュータの境界がまた一歩曖昧になってきました。この技術は私たちの未来にどんな変化をもたらすでしょうか。医療の現場で神経疾患の治療法が変わるかもしれませんし、義肢がより自然に動くようになるかもしれません。
あるいは、コンピュータが今よりもずっと少ない電力で動作するようになる可能性もあります。テクノロジーと生命の融合が進む時代、皆さんはどのような未来を期待されますか。また、どのような懸念を感じていらっしゃいますか。ぜひご意見をお聞かせください。