哲学者「平尾昌宏」と対談:「科学技術を哲学する」「哲学者って何の役に立つの?」-イノベーションで人類はどう変わっていく?

[更新]2025年10月24日18:12

 - innovaTopia - (イノベトピア)

今回は哲学者の平尾昌宏先生に、「技術という言葉が歴史の中でどのように変遷し、私たちは技術の中でどう変容してきたのか」についてインタビューを行いました。

現在、AI、量子コンピュータ、バイオテクノロジーなど、様々な技術が目まぐるしく変化しています。私たちが市民としてその全容を把握することはもはや不可能な社会の中で、それでも選択を迫られています。

技術について私たちは歴史の中でどのように向き合ってきたのか。そして今、私たちはどのような歴史の中にいるのか。今回のインタビューでは、平尾昌宏先生が丁寧な議論を通じて、こうした問いへの補助線を引いてくださりました。

平尾昌宏(ひらお・まさひろ)
1965年、滋賀県生まれ。立命館大学大学院文学研究科博士課程満期退学
専門は哲学および倫理学(スピノザ)
立命館大学 非常勤講師のほか様々な大学にて教員をなさっています。
主な著書に『ふだんづかいの倫理学』(晶文社)などがあります。

実は学生時代に読んだことがあります。愛とか正義とかいろんなことを倫理学らしく枠組みを作って議論していく本です。よく塾講師のバイトで生徒さんにお勧めしていました。

野村「生活の中で哲学をする。一見遠そうなものを結び付ける『ふだんづかいの倫理学』は学生時代非常に多くの影響を受けました。平尾先生といつか話してみたいなと昔から思っていました。今日はよろしくお願いします」

平尾「よろしくお願いします」

技術と哲学——私たちが技術と呼ぶものはどうやって形作られたの?——言葉の意味と文化的価値観から

野村「哲学における技術の位置づけとして古代ギリシアでは技術は『テクネー』と呼ばれていたと思うのですが、今の言葉でいうところの『テクノロジー』とどのような差異があったのですかね。どのように今の技術観が形作られたとお考えですか?」

平尾「そうですね、私は必ずしも科学史、技術史の専門家ではないので大雑把な話になりますが、おそらく『現代の我々が技術と呼ぶものからしたら異質なもの』を彼らは技術(テクネー)と呼んでいたのかなとは思います。」

平尾「まず、基本的な枠組みを確認すると、技術っていうのは、つまりは手段ですよね。」

野村「そうですね。僕からしたら技術と工学という言葉が強く結びついていて、どうしても技術と呼ばれると工学のように社会に役立つものである必要を感じてしまいます。」

平尾「そうですね、僕たちは、技術は手段であり『何かに役に立つもの』と思っている。それを当然だと思い込んでいる。だけど、近代以前はそういうわけではなかったんです。技術から『術」』という部分を取り出すと、『すべ』と読みますね。例えば中国では養生術という体を健康にする術(すべ)があります。これは当然、技術の側面を持っているわけですが、それ以上のものでもありました。つまり、ただ、術を身に着けること自体が自分たちの人生を豊かにするという発想も近代以前ならあった気がします。つまり倫理的なものでもあったテクネー、それが、現代ではいわば純粋に手段化されていると言えばいいでしょうか。」

平尾「例えば、アリストテレスは『技術(テクネー)は知的な徳性(アレテー)の一種』だと言っています。つまり、それ自体が人間にとっての優れた特性であるとされて、それを身に着けること自体が善いことだと思われていた。それを手段にするという発想とは相対的に独立していました。」

野村なるほどです。確かに今の我々の技術観だと、何かを作る技術とか企業の持つ技術がそうですが、何か優れたものを表出する手段のような雰囲気がありますね。言葉だけをとってもあまりに違いますね。」

野村「どこで、『技術=それ自体が善い』という発想から、現代の発想に転化したと思いますか?」

平尾「そうですね。こういうときは便利なような便利じゃないような説明があって。その一つとして、西洋の考え方の習慣を作り出したキリスト教や科学の影響はあると思います。まず、古代以来の術(テクネー)と近代の技術(テクノロジー)の違いは、近代の技術にはその背景に科学があるということです。科学的なものの登場がざっと16,17世紀だとすると、それを土台として技術が浮上してくるのは18世紀から19世紀です。それにともなって個人的なもの、人の生き方(倫理)に関わるものだったテクネーが、客観化されると同時に、社会にとって有用なものとして認知される。これがいわゆる産業革命です。」

野村「ニュートンの運動方程式は17世紀ぐらいで、ここら辺から決定的に近代の形が決まった雰囲気がありますよね。科学って客観的でなくてはならないですし、この時代は特に科学の力が強かった時代ですよね。客観的な科学の登場で、人間(=主観)についての技術つまり、さっき話した養生術のようなものがそぎ落とさた。という具合でしょうか?」

平尾「例えばジャッキー・チェンなんかのカンフー映画の基本の筋立ては象徴ですね。主人公の師匠が老いてしまってから、その師匠の流派を立て直すというパターンがあるのですが、ここでは技術が先立ってますね。その技術を伝承すること自体に意味があるというわけです。これは学校でテクノロジーを学ぶというのとは明らかに違っています。武術は身体性があるから個人的なものがたくさんあって、本人の中に身につきますね。技術は技術だけど、それで何かを作るとか為すとかではないし、習得するのに非常に時間がかかる。修行が必要です。しかし、科学というものがバック・グラウンドにあると体系的に学べる。するとそれは、もう個人的なものではないのです。昔は『師匠を見て学べ』という言葉がありましたが、工学を学ぶ学生にこんなことをしたら学校の意味をなさないですよね。つまり、技術とその背景にある知識のありようがそもそも違うのだと思います。」

野村なるほどです。確かに工学部の講義で『見て学べ!』なんて言われたらそれはカリキュラムとして中々難しそうですね。こう見ても客観的な論理体系である科学が技術の在り方を変えたというのは納得がいきます。キリスト教はここにどのように関わってくるのですか?」

平尾「専門家に言わせれば色々ありますが、おおざっぱに言ってキリスト教の特徴として肉体や自然の抹消、それらに対する嫌悪感があります。キリスト教ではむしろ精神や内面を重視する傾向がありますね。例えば『自然も生きている』と古代ギリシア人は考えますが、キリスト教ヨーロッパでは『精神としての人』に対して『自然=モノ』として認識します。

野村「そうですね。一神教の世界観では自然は神が作ったもので、キリスト教においては特に人間中心的というか信仰といった内面が重視されるきらいはありますね

平尾「そうするとモノであれば、『それを操作できる(してよい)』という考え方になると思うんです。ガリレイやデカルトの様な近代科学の開祖が重要視したのは数学でしたね。つまり数学を通して物を見ると計算ができる=『操作できる』となっていると思います。

野村「なるほどです。そうなると、国ごとに特徴がありそうですね。日本では仏教思想の『修業して悟りに至る』という発想があると思うのですが、技術に対する考え方も国ごとで変わったりするのでしょうか。」

平尾おそらく、かなり異なると思います。僕も興味あるのですが、実は日本のことがよくわからないんですよね。例えば日本の場合はアニミズムがベースにあるなどと俗説的に語られていますが、そうだとすると自然を客体化する近代のテクノロジーと相性が悪いはず。ところが実際には我々はそれを自分たちの生活に取り込んで、科学とここまでうまく付き合っているように見える。」

野村「確かにそうですね……明治維新後に急速な近代化を日本が行ったというのは影響としてあるのですかね?そう聞くとかなり特殊な例なのかなとか思います。」

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学問の在り方——大学の日本と海外の違いから——

平尾「よく言われることですが。日本の大学って変わっているんですよね。例えば、今私たちのいる大学の学部にはいろんな分野があるけれども、そういうものはヨーロッパの大学には長い間なくて、例えば経済学は新しくて、工学部とかは大学とは別に、工学校で学ぶものでした。」

野村「確かに、ドイツのバウハウスは大学じゃないですし、言われてみればそうですね。」

平尾「例えばアメリカでもMITは『University』じゃなくて『Institute』じゃないですか。要するにかなり高度な専門知識の中にある学校って意味で、日本は大学の中に学問も工学も全部入れちゃったわけです。大学の働き自体が日本と海外では違う気がします、例えば東大が典型的ですが官僚養成のためにある雰囲気がありますね。」

野村「日本の旧帝大は試験も苛烈ですし、そう聞くと少しグランゼコールみたいな雰囲気を感じますね。」

平尾「そもそも日本に大学は研究をしている機関という認識があるのかなとは思いますね。」

野村「『University』って言葉が日本に入ってくるときに『高校の上』ぐらいの意味だと捉えたり、言葉がどのように入ってきたのかに関係しているのですかね。海外だと大学をどのようにとらえているのですか?」

平尾「そうですね。都市の文化と密接にかかわっている気がします。大学はそれ自体が一つの都市や世界であり、これは世間と隔絶されているイメージが海外ではあるような気がします。そうしたところで学術研究を行う。悪く言えば象牙の塔です。でも工学は別で、これは社会の中の仕組みの一部として取り入れやすい。近代の科学が具体的に色々な技術を生み出して、社会に影響を与え、産業革命が起こる。そうすると、個人的な関心から生まれていた学術的な研究が社会的な意味を認識せざるを得なくなります。そうするとそれまでとは違って『科学が社会化される』というプロセスが生まれますね。今の世の中で個人的に研究してる科学なんてありえないですもんね。科研費をとってみんなで研究しています。そしてその成果は社会に還元する。そうなるとかつての象牙の塔でいられなくなります。日本は近代化の当初からこうした学術の社会化、工学化を目指してやっていましたが、ヨーロッパでは手段化されない学問の伝統がありました。ところが、今は日本だけじゃなくて世界的に、社会と密接にコミットした工学重視の考えが主流になっている気がします。」

野村「昔はディレッタントが個人的な興味で研究をしていましたが、今の科学者はみんな科研費の申請や他にも競争的資金をとるために社会を意識せざるを得ないところは確かにありますね。」

野村「少し話は変わりますが、最近できた大学はサークル部屋がなくて少し窮屈と僕は思いますね。技術が手段になって目的を帯びたという話に呼応するのですが、目的のない空間が減っているなと思うんですよね。東京で地べたに座って話すわけにはいかないのでスタバに入らないといけない。突然寝そべったら通行の邪魔だから基本的にどこであっても怒られる。つまり私たちが空間を定義しなくなって、合意の元、自分たちで空間を定義する機会が少なくなったと最近感じています。」

平尾「それは僕もわかります。僕が通っていた大学では、専攻ごとに研究室があって、そこでは学年を超えたつながりがあったり読書会をやったり遊んだりできました。そういう余白の部分の、つまり、制度的に決まっていない空間がないとこのようなことが生まれないなあ…と思ったりします。」

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技術の善し悪しは今の僕たちには判断できない?——遺伝子技術とAI

野村「平尾さんは技術発展の発展とその利益、不利益についてどのようにお考えですか?」

平尾「そうですね。近年は技術に関する哲学的考察も盛んで、多様な見方がありますが、一つ大事なのは、人間が技術を生み出すと同時に、逆に技術の方が人間を変容させるという点かなと思います。古代と現代では、技術のあり方も違っているけど、人間の在り方そのものも違ってきた気がしますね。例えば、時計がある時代とない時代では生活の作りが違うと思うんですよね。正確に時を刻むことができると、生活が規制されたり変容しますね。ただ、それは生活様式や内面のことで、現代のテクノロジーはゲノム編集やAIもそうなのですが、人間を具体的に変容させる技術が非常に増えている。人間の在り方を変えることが多くなって、必ずしも余白が取り戻せればいいというわけではなく、あまり楽観的なことも言ってられなくなりました。僕たちが直面しているのは人間がその基本的な条件まで含めて実際に変容するという事態です。これの善し悪しはもはや判断できなくて、その判断する僕たちそのものが変容している。そのような状況だと思います。」

野村「変容した後の善し悪しは判断できない可能性がありますね。善し悪しを判断する僕たちそのものが変わってしまったら客観的な評価を下せないですね。」

野村「少し思い出したのですが、最近仕事以外でもAIを使うのですが、AIにちょっと過激な質問をすると『これは不道徳です』と返答されることがあるんですよ。これってつまりAIが道徳を決めているということでこれから先の将来私たちはAIが内在化した道徳を学ばされる時代になったりするのですかね?」

平尾「どこに着地させるかというのは難しいですね。現在起こっている変化は未曽有のものですが、似たものがないわけではないです。例えば、法律も一種のテクノロジーとして考えることができます。古代なら徳を身に着けて一端の人間になるという発想でしたが、正直言ってその人が徳があるかないかなんて、外側からは判断できないわけです。徳もないのに見かけとか振る舞いだけ立派っていうこともありうる(笑)。だったら、思い切って割り切っちゃって、見かけ、振る舞いの方をコントロールすればいいわけで、そのために法律を作ります。こうして外側から規制する法律ができると人間は判断をしやすくなりますね。コントロールやマネジメント、ガバナンス(統治)もしやすくなる。こうして法が人間のあり方そのものを変えていく。これはさっきの話と同じで、我々が作った法律自体が、逆に私たちに自律的に働きかけるという構図になっていますね。」

野村「そうなると法律自体が倫理に変容してしまうわけですね。突然立場が逆転しているというか……」

平尾「大学の授業で、『なぜこれはいけないのか』というと『法律違反だからだ』なんて意見が学生から返ってくることがあります。それはむしろ元々は逆だったと思うんですよ。」

野村「確かにそうですね…」

平尾「それと同様に、我々が生みだしたものが、逆に我々を規制するっていうことは大いにあり得ると思います。それがまた我々の変容を促す。」

野村「変容という話ですが、AIによって人間の知性がどのように今後の社会の中で変容すると思いますか?例えば江戸時代は字が綺麗な人が賢い人であるとされていましたが、現代では違います。AIの登場によってそこらへんも変わったりするのでしょうか?」

平尾「まず社会の変容については、AIの開発に関連して、昔シンギュラリティなんて言葉が流行った時に盛んに議論されましたね。人間の仕事が奪われるとか、やがてなくなる職業だとか、さまざまな面で生活がスマート化されるという楽観論から、スーパーインテリジェンスによって我々が支配されるディストピアが生まれるとか。その議論の決着も付かない間に生成AIが登場し、あっという間に普及した。だから、「昔」と言っても実際にはほんの数年前のことで……。つまり、AIに関する議論は、その進歩があまりに速くて専門家にもまったく見当が付かなくなっているのが現状だと思います。」

平尾「一方、人間を変容させる技術の類型として、ゲノム編集がありますが、これはかつての人間の変容、例えば美しい文字の書き方、立ち居振る舞いといった我々が身につけることによる変容とは違って、我々のあり方の条件そのものの変容です。ただ、昔はゲノム編集やクローン技術のような人間の条件を根本的に変容させる技術について、先に国際的に規制してしまいましたね。」

野村「そうですね。何かが起こる前に、先に新しい倫理が国際的に実装された感がありますね。」

平尾「あの時は、先に『染色体に手を付けないでおこう』と決めて、最初に大きな網をかけちゃったんです。ただAIについてはそれが読めないんですよね。知性という問題を私たち人類はよく理解していないので、先にどのような網をかけるべきなのかわからないという問題があります。」

野村「確かに、ゲノム編集技術は『種を変えてはいけない』という網をかけられたのにAIは網をかけられない、つまりどう変容するのかとかわからないですね。フィジカルじゃなくてインテリジェンスの問題なのでもっとほかの学問が発達しないと何とも言えないというのはありそうです。

平尾「ゲノム情報を見ればチンパンジーと人間の違いは分かりますが、知性の正体を私たちですらわかっていない。一つの希望として、AIのような新しい知性が生まれることで知性の正体が明らかになるかもしれないですね。ひょっとするとものすごい世界の変容があるのではないかと少しワクワクするところもありますが、世界が望ましくない方向に変えられてしまうのではという危惧もありますね。

野村「知性と向き合う時代が来たと感じますね。私たちは一体何を以てそれを知性と呼ぶのですかね。」

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哲学者ってどういう風に「役に立っている」の?——企業内哲学者や社内研修から

野村「最近NTTやメルカリが人文学の研究施設を作っていますね。企業内哲学者、っていうんでしょうか。ビジネスの世界でも哲学が注目されて学術が活用されている気がしますが、一方で、『これは何の役に立つの?』という疑問もあります。僕も大学院にいるとき親戚との集まりで『この学問は何の役に立つの?』と聞かれた思い出があります。僕は理学系だったのでそんなものでしたが、哲学はもう少し風当たりが強かったりしましたか?」

平尾「そうですね。何回も言われますね。ついこの前の同窓会の時に言われましたよ僕も(笑)。」

野村「やっぱりそういう反応をされますよね。僕は哲学は何にも役に立ってないようでいて一番根底の部分で、むしろ何にでも関わっているような気がします。平尾先生は哲学はどのような仕方で『役に立っている』と感じていますか?」

平尾それについては、哲学科の先生と共通教養の科目を受け持っている先生で感覚が違うなとは思いますね。僕は共通教養で専攻でない学生を教えながら研究もしているので、両にらみで考えています。一方で穏健な先生方は社会の中での位置づけけを考えて『一種の潤滑油のように社会を回すときに何らかの働きをしている』と言う。つまり、分かりにくいかもしれないけど役に立っているんだ、と言いたいわけです。でも他方で別な先生たち、先鋭の人たちは『何か新しいものを生み出すかもしれないけど、やってる本人も見通しがない』とか、極端に言えば『別に役立たなくてもいい』とさえ言う。この両方の見方がある気がします。どちらに比重を置くかで言い分は変わって、そこのバランスで皆さん回答がまちまちなのだと思います。僕は両方あってもいいかなとは思います。」

野村「なるほど、ちなみになのですが、ものすごい具体的な例を挙げるとして、何かあったりするのですか?」

平尾「「哲学は役に立つか」っていうのは、外から哲学を見たときに出てくる疑問です。外から見ていると何をやっているのかすら分からないから、「何の役に立つの?」と聞きたくなる。だけど、哲学の中に入ってやっていると、「何のため」とかじゃなくて、それ自体が楽しいし色んなものが生まれてくるのが分かる。だから、内部に入ると見えるんだけど、それが外からは見えにくい。自分でもやってみないと分からないというところが大きいのが哲学です。だから、具体的にこういう点でと取り出すのが難しいとは思いますね。ただ今日の話題である技術やテクノロジーと対で考えるなら、技術は手段として何かの役に立つもの。そして何かに役立つということは、その何かのために特化するということです。それに対して哲学って汎用の技術かなと思います。何かに特化していないのです。だからどうしても抽象的な言い方になっちゃうんだけど、僕自身の実感で言えば、今自分のいる場所からは離れて考えることができるというのは哲学の良いところだと思います。別の視点から俯瞰して物事を見られる、別な角度から見られるとかですね。これは、言い方は抽象的に響くんだけど、実際、実感的にすごく生々しく哲学が役立っているという感覚が僕にはあります。

野村「確かに、考え方の習慣ですもんね哲学は。そう考えると哲学は考えること自体なので何でも使えるのかなというような気がしますね」

平尾こういうことを言うとあれだけど、哲学の外から見て、『こういう(哲学者みたいな)人は要らないんじゃないか』とかそういう不穏に見えるかもしれないことを人に考えさせること自体に意味があるような気がします。人々の常識をチクチクと刺してまわる。ソクラテスは自分のことを人々にとってのアブのようなものだと言いました。眠っている牛を刺して目覚めさせる、というわけです。もうちょっと遠慮がちに言えば、『こういうのもいる』ということを心の片隅に置いといてもらえるという、それだけでも哲学者の存在意義があるんじゃないんですかね?(笑)」

平尾「僕らの後輩にも企業内哲学者がちらほら出てきました。しかし、どう使われるのかって研究段階のようです。おそらく見る人が見れば『本当に役に立ってないよね』って在り方をしているんですよ。週一でミーティングをするだけで高い給料をもらって……っていう反応をした人もいたと思うんですよね、まだ未知数な気がします。

野村「なるほど、新しい試みなのでまだまだこれからなんでしょうね。ちなみに企業側は哲学者にどのようなことを期待していると思いますか?」

平尾「企業からしたらイノベーションの面での期待があると思います。新しいものを何個も作ってもらって1つ何か大当たりを引いてくれる、確率として低いけど面白いものが出てくるんじゃないかっていう期待感があるのだと思います。」

野村「哲学は確かに0から1を作る学問だと思います。イノベーションを起こしてもらいたい何か生み出してほしいけどまだ企業は活用方法がわからない、という状況なんですね。」

平尾「後は教育ですね。実際に企業内に哲学者を置いて何か影響をほかの人に与えるという在り方も考えられます。これはかなり少し新しい形です。今まで、そして今でも、主流は研修みたいな形で外部から人(哲学者その他)を呼んできて、話を聞かせてもらう、というものでしょう。ただその場合も、コンサルがコツ(つまり技術)を教えるといったものとは違って、特に最近の研修はもう少し長期的なスパンで考えるものが多くて、いろんな話題、場合によっては専門的な話を振られることや、身近な倫理や、小説の読みみたいなのも聞かれることもあります。何の役に立つか僕からしてもわからない研修もありますね。」

野村「なるほど、コツや問題解決する手法そのものじゃなくて、もっと抽象的な部分での教育の様な気がしますねそれは。」

平尾いろんな考え方のストックが哲学には腐るほどあるので、テクノロジーと哲学の違いはここだと思いますね。ピンポイントで哲学はこの目的はこのやり方というのが一義的に定まってない。だから、これをどう使うのかは学んだ人に任される気がします。だけど、そういう哲学の汎用性、広く言えばリベラルアーツの復権みたいなのが一つの流れになっているのは確かです。そういう意味では、おそらく長期的に見て『コンサルよりは哲学者』となるんじゃないかと思います。っていうか、私はそうなって欲しい(笑)。しかし、企業内哲学者の場合は、そういう外部から刺激を与えるというのではなくて、企業の内部にいて周りを刺激するというものになります。だとすると、だいぶあり方が違うでしょうね。」

野村「企業内哲学者って今のところそこまで多くないですね。僕はもっといろんな会社に、もっと言えばすべての会社に1人か2人いてもいいのかなと思いますね。抽象的な発想ができる人が一人いるだけで仕事の仕方が変わると思います。」

平尾「僕は企業での経験があまりないので、あくまで推測ですが、今までも企業内哲学者に類する人はいたと思うんですよね。組織を作るといろんな人が入ってきて、その中で役職やポストじゃなくて、こういう役割を自然に担っていた人がいたのかなとは思いますね。議論の枠組みを出してくれたりとか。

平尾「99は余計なことを言うんだけど、1つ凄いことを言ってくれる人とか、『仕事ができるかできないんだかわかんないんだけど、なぜかその人がいると仕事が回る』って人がいたりとかです。だから、僕は少し危惧してて、今まで可視化されてこなかったことに名目を着けて『企業内哲学者』というポストを与えるのが善いことなのかと思ったりもします。」

野村「確かに、明確にKPIとか決められちゃって、『やっぱり役に立たんな哲学者』ってなったらちょっと嫌ですよね」

これからどんな世界になる?この中で人間はどう生きる?

野村「そのうち、AIが科学や哲学の担い手になったりするのでしょうか?物理学でも学習物理学とかそういうのがでてきて、実際に多くの学者が機械学習を用いて既存の科学の問題を解決しています。学問もAIがやって、芸術も生成AIがやるってなったら人間にどのような文化が残るのでしょうか?

平尾「研究の補助にAIを使うことはもうかなり浸透しています。しかし、AIそのものが学術の担い手になるかどうかはまだこれから。完成度や精度って話ではまだまだなので人間側でも安心できますが、これから精度が上がったら我々に何が残るのかは難しいです。ただそうなると、目的と手段の系列を離れると思うんですよね。私自身がよく使う比喩としてはスポーツと音楽ですね。プロのスポーツ選手がいても歌手がいてもいいわけだけど、素人ながら自分たちがスポーツやったり音楽やったりといったことには相変わらず意味がありますね。カラオケがいまだに流行ってるのも自分が何かをするというのにポイントがあるのかなと思います。持っている力を行使する、客観的な基準じゃなくて自分が何かをする悦びは失われないのかなと思います。

野村「確かにそうですね。AIがいくら発展しても絵を描いたり音楽をして自分自身の心の中を表現する、という営みは残るのかもしれないですね。私の昔の生徒の話になるのですが、美大受験を考えている生徒に『どうして美術をやりたいの?』と聞いたら『自分のことを一番よく知れると思うから』と言われたことがあります。人間の自己実現や自分という内面のための文化的活動は残り続けるのかもしれないですね。」

野村「平尾先生は今後、色々な技術が発展して世界が変わりゆく中で、世界がどのようになったらうれしいですか?」

平尾「あんまり深い考えを持っていないので直前に自分が言ったことに引っ張られてしまいますが、生きている以上はその力を発揮できる世界だといいなとは思います。ただ現実はそこまで甘くなくて、一方で哲学やリベラルアーツの復権という流れがありつつ、逆に、それを外側から潰しにかかられる日も来ると思ってるんですよね。『何の役に立つの?』という殺し文句、脅し言葉はいつでも再登場を待っている。そういう意味ではあまり大きい望みが言えなくなる可能性もある。だけど、最低限というか、小さい望みという話でいうと、色んな人がそういう何か自分の力を発揮できる余白を確保できる世界ならいいなと思います。それが望みですね。

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野村貴之
大学院を修了してからも細々と研究をさせていただいております。理学が専攻ですが、哲学や西洋美術が好きです。日本量子コンピューティング協会にて量子エンジニア認定試験の解説記事の執筆とかしています。寄稿や出版のお問い合わせはinnovaTopiaのお問い合わせフォームからお願いします(大歓迎です)。

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