11月7日【今日は何の日?】世界最古の新聞『オックスフォード・ガゼット』創刊ーペストが生んだ新聞と、コーヒーが育てた公共性

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恐怖が情報を求めた日

1665年11月7日。ロンドンの街はペストの恐怖に包まれていました。この年だけで約7万人が命を落としたとされる「ロンドン大ペスト」の渦中です。チャールズ2世は宮廷とともに、ロンドンから約90キロ離れたオックスフォードへ避難していました。

廷臣たちは感染を恐れて、ロンドンで発行されている新聞を読むどころか、触ることすらためらっていました。情報の流通が遮断される危機。人々は何が起きているのか、いつ終わるのか、誰を信じればいいのか——そんな不安の中にいたのです。

この日、ヘンリー・マディマンという人物が、オックスフォードで一つの新聞を創刊しました。『オックスフォード・ガゼット』。これが、現存する世界最古の新聞の始まりです。しかし、この新聞が本当に革命的だったのは、その内容ではありません。それは13年前に誕生していた、ある「場所」と結びついたときに起きたのです。

印刷技術から新聞へ — 215年の空白

1450年頃、ヨハネス・グーテンベルクは活版印刷術を発明しました。金属活字、油性インク、印刷機——書物の大量生産が可能になり、1455年頃の『グーテンベルク聖書』は印刷革命の幕開けとなりました。

けれども、不思議なことがあります。印刷技術が生まれてから『オックスフォード・ガゼット』が創刊されるまで、215年もの時間が経過しているのです。この間、印刷技術は聖書、免罪符、書籍、パンフレットを生み出しましたが、定期的に発行される「新聞」は生まれませんでした。

技術はあったのに、なぜ新聞は生まれなかったのか?答えは単純です。技術だけでは革命は起きないからです。印刷機があっても、それを使って「何を」「誰のために」「どのように」伝えるかという社会システムと、それを受け取る「場」がなければ、新聞は存在する意味を持たないのです。

グーテンベルクの時代、情報は権力者や教会が独占するものでした。一般市民が日常的にニュースを読み、それについて議論するという発想自体が、まだ存在していませんでした。

官報として生まれた新聞

1665年11月7日、ヘンリー・マディマンが創刊した『オックスフォード・ガゼット』は、厳密には「官報」でした。王室や政府の伝達事項を中心とした内容です。当時の著名な日記作家サミュエル・ピープスは、自身の日記でこの新聞の創刊に言及しています。

ペストが終息し、1666年2月5日にチャールズ2世がロンドンに帰還すると、新聞も一緒に移転しました。第24号から『ロンドン・ガゼット』と改名され、それ以来360年間、今日まで発行が続いています。現在もイギリス政府の公式な政府公報として、法定通知などを掲載しているのです。

ここに、ある逆説があります。ジャーナリズムの起源が、「権力からの発信」だったという皮肉です。しかし『オックスフォード・ガゼット』は、官報的な内容に加えて「一般のニュース」も掲載していました。そして重要なのは、この新聞が購読契約者に郵送される形式だったことです。つまり、特定の読者が、自宅や職場で、あるいはある特別な「場所」で読むことを前提としていたのです。

その後、新聞は急速に発展します。1702年3月11日には、イギリス最初の日刊新聞『デイリー・クラント』が創刊され、トーリ系とホイッグ系の新聞が続々と誕生しました。新聞は「権力の道具」として生まれましたが、やがて「権力を批判する道具」へと変わっていったのです。その変化を可能にしたのが、印刷技術でも新聞でもない、もう一つの存在でした。

一銭で学べる大学

『オックスフォード・ガゼット』が創刊される13年前、1652年、ロンドンに最初のコーヒーハウスが開店しました。商人エドワーズのギリシア人召使いパスカ・ロゼが、ロンドン塔の西北、セント・マイケル小路に開いた店です。

このコーヒーハウスが、17世紀後半から18世紀前半のロンドンで爆発的に増加します。18世紀初頭には約3000軒ものコーヒーハウスがロンドン市内に存在していたと言われています。コーヒーハウスは「ペニー・ユニバーシティ(一銭で学べる大学)」と呼ばれました。入場料は1ペニー、コーヒーも1ペニーという安価な値段で、男性であれば誰でも入ることができ、自由に議論をかわすことのできた場所だったのです。

海軍省の高官だったサミュエル・ピープスは、ロンドンの王立証券取引所近くのお気に入りのコーヒーハウスに週3回以上、多い場合には1日に2回訪れていました。その日記によれば、約束した友人や同僚に会うため、または単に貿易や政治の話を聞くための情報収集の場だったのです。

そして、ここが決定的に重要な点です。新聞はコーヒーハウスに置かれ、回し読みされました。新聞・雑誌を発行するジャーナリストは、コーヒーハウスで情報を得ました。新聞が情報を提供し、コーヒーハウスが議論を生み、その議論が新聞の内容を形成する——この循環が生まれたのです。

ドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマス(1929-)は、この現象を「公共圏(Public Sphere)」と呼びました。身分を超えた参加、合理的な討議、権力からの独立——これらが揃ったとき、世論が形成されたのです。

『オックスフォード・ガゼット』は官報として生まれました。しかし、それがコーヒーハウスで読まれ、議論の材料になったとき、その性質は変わりました。官報は、市民の対話の一部となったのです。

技術(印刷)+ メディア(新聞)+ 場(コーヒーハウス)= 公共圏

この方程式が成立したとき、ジャーナリズムが真に誕生したのかもしれません。

360年後の今

2025年11月7日。私たちは『オックスフォード・ガゼット』創刊から、ちょうど360年後の世界に生きています。

現代の私たちは、17世紀のロンドン市民が想像もできなかったほどの情報アクセス手段を持っています。誰もが無料で、瞬時に、世界中の情報にアクセスし、自ら発信することができます。一見すると、私たちは史上最も「民主的」な情報環境にいるように見えます。

しかし、ハーバーマスは警告を発しています。19世紀以降、公共圏は「再封建化」していると。大企業や国家がイメージ戦略で公共性を操作し始め、市民もまた、消費者としての受動的な存在に変質していったというのです。

フェイクニュース、フィルターバブル、エコーチェンバー——現代の情報環境を象徴する言葉です。アルゴリズムは、私たちが「見たいもの」「信じたいもの」だけを表示します。17世紀のコーヒーハウスでは、トーリ派もホイッグ派も、同じテーブルで議論しました。しかし現代のSNSでは、自分と同じ意見を持つ人々だけが集まる「部屋」に分かれているかもしれません。

市民ジャーナリズムの台頭、ファクトチェック組織の活動、対話型プラットフォームの試み——技術そのものは中立です。問題は、私たちがそれをどう使うかなのです。

対話は、どこにあるのか

1665年11月7日、ペストという危機が『オックスフォード・ガゼット』を生みました。しかし本当の革命は、コーヒーハウスで起きていました。印刷技術があっても、新聞があっても、それだけでは公共性は生まれません。対話する「場」と、批判的に考える「市民」が必要だったのです。

360年前、1ペニーのコーヒーが公共性を育てました。今、私たちは無料でSNSにアクセスできます。けれども、公共性は、コーヒーハウスの中にあったのではありません。それは、そこに集った人々の「対話」の中にあったのです。

私たちが今日、作るべきは何でしょうか?新しいプラットフォームでしょうか、それとも新しい対話の文化でしょうか?

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Satsuki
テクノロジーと民主主義、自由、人権の交差点で記事を執筆しています。 データドリブンな分析が信条。具体的な数字と事実で、技術の影響を可視化します。 しかし、データだけでは語りません。技術開発者の倫理的ジレンマ、被害者の痛み、政策決定者の責任——それぞれの立場への想像力を持ちながら、常に「人間の尊厳」を軸に据えて執筆しています。 日々勉強中です。謙虚に学び続けながら、皆さんと一緒に、テクノロジーと人間の共進化の道を探っていきたいと思います。

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