2019年に火災被害を受けたノートルダム大聖堂では、事前に実施されていた3Dスキャンとフォトグラメトリ技術により、AIを活用した修復作業が進められている。
フランス国立科学研究センターのLivio De Lucaが率いるチームは、数十万枚の写真データと14,000以上の注釈を用いてデジタルツインを構築し、ディープラーニングによる劣化現象の自動認識モデルを開発した。2024年11月には、バチカンがIconemとMicrosoftと提携し、400,000枚以上の画像からサン・ピエトロ大聖堂のデジタルツインを作成した。
Supersideはニューラルラディアンスフィールドと敵対的生成ネットワークを用いてアンコールワットやローマのフォーラムを3D再構築し、Nerdigitalは拡張現実と仮想現実技術で古代ローマの仮想ツアーを開発した。ノーステキサス大学のZoe Abbie Teelは、技術的陳腐化やバイアス、プライバシーといった倫理的課題を指摘している。
From: Creating Digital Replicas of History with AI
【編集部解説】
人類は常に記憶との戦いを続けてきました。時間の経過とともに劣化する建造物、失われゆく文化遺産をどう未来に伝えるか。この普遍的な課題に対して、AI技術が革新的な解決策を提示しています。
2019年のノートルダム大聖堂火災は、文化遺産の脆弱性を世界に突きつけました。しかし皮肉にも、この悲劇はデジタル保存技術の重要性を証明する契機となりました。火災前の2015年、美術史家Andrew Tallonが作成したレーザースキャンデータは、修復作業の基盤として機能しています。現在、フランス国立科学研究センターのチームは、このデータをAIで発展させ、数十万枚の写真から14,000以上の注釈を持つデジタルツインを構築しました。
ここで注目すべきは、単なる3D化ではなく、AIがもたらす「時間軸の記録」という概念です。ディープラーニングは建造物の経年変化を追跡し、劣化現象を自動認識するモデルを生成します。つまり、建造物の「現在」だけでなく「未来の変化」まで予測可能になるのです。
2024年11月にバチカンとMicrosoftが発表したサン・ピエトロ大聖堂のデジタルツインは、この技術の到達点を示しています。400,000枚以上の高解像度画像から構築されたこのモデルは、通常は立ち入れないドーム頂部のモザイクまで、ミリメートル単位の精度で再現しています。2025年の聖年(Jubilee Year)には3,000万人以上の巡礼者が訪れると予想される中、デジタルツインは物理的な訪問が困難な人々にもアクセスを提供します。
技術的な核心は、複数のAI手法の融合にあります。フォトグラメトリは複数の写真から3Dモデルを生成し、ニューラルラディアンスフィールド(NeRF)は少ない画像からでも高精度な3D再構築を実現します。2024年の研究によれば、NeRFは従来のフォトグラメトリと比較して、データ量が限られた状況や低解像度の画像でも優れた完全性と質感表現を保持できることが確認されています。
さらに、敵対的生成ネットワーク(GAN)は、侵食や破壊で失われた部分を歴史的文脈に基づいて復元します。アンコールワット寺院群やローマのフォーラムの復元プロジェクトでは、GANが構造的崩壊や侵食で失われた詳細を埋め、自然言語処理(NLP)が断片化された碑文から古代言語を再構築しています。
古代ローマの仮想ツアーを開発したNerdigitalの事例は、さらに一歩進んでいます。AIアルゴリズムは選択された時代に応じて環境を動的に更新し、コロッセオの建設中、全盛期、中世の住居として再利用された時期まで、異なる歴史的段階を体験できるようにしています。Nvidia OmniverseやUnreal Engine 5といったAI駆動のレンダリングツールが、フォトリアリスティックなテクスチャと照明を生成し、行動AIが固有のルーチンと対話を持つローマ市民のキャラクターを作成します。
こうした技術が文化遺産保存にもたらす意義は多層的です。第一に、アクセスの民主化があります。地理的・経済的制約によって実際の訪問が困難な人々も、世界中どこからでも文化遺産に触れることができます。第二に、保存作業の効率化です。AIは人間の目では検出できない微細な亀裂やモザイクの欠損を特定し、予防的保全を可能にします。第三に、教育的価値の向上です。通常は立ち入れない場所を探索し、時代を超えた変遷を視覚化することで、歴史理解が深まります。
しかし、課題も存在します。ノーステキサス大学のZoe Abbie Teelが指摘するように、技術的陳腐化は深刻な問題です。現在のデジタル形式が数十年後にも利用可能である保証はありません。また、AIにはバイアスやプライバシーの問題が内在しており、何を保存し何を優先するかという判断には倫理的配慮が必要です。
Teelは段階的なアプローチを推奨しています。まず小規模なメタデータ付与から始め、専門家がAIの動作に慣れ、可逆的な方法でその利点を経験することです。AIの決定を盲目的に信頼するのではなく、人間の専門知識とAIの分析能力を組み合わせることが重要です。
歴史的に見れば、活版印刷が知識の民主化をもたらし、蒸気機関が産業革命を加速させたように、AIによる文化遺産のデジタル化は人類の記憶保存に革命をもたらしています。ノートルダム大聖堂の火災から学んだ教訓は、「予防こそ最良の保存」ということです。デジタルツインは単なるバックアップではなく、時間を超えて文化遺産と対話する新しい方法なのです。
100年後、1000年後の人類が現代の文化遺産をどう体験するか。その答えの一部は、今日のAI技術が築いているデジタルアーカイブの中にあります。技術の進化と倫理的配慮のバランスを保ちながら、私たちは未来世代への責任を果たしていく必要があるでしょう。
【用語解説】
フォトグラメトリ(Photogrammetry)
複数の重複する写真から自動的に3Dモデルを作成する技術である。異なる角度から撮影された複数の画像を解析し、被写体の三次元形状を再構築する。文化遺産のデジタル保存において、物理的な接触なしに正確な記録を残せる利点がある。
ニューラルラディアンスフィールド(NeRF:Neural Radiance Fields)
AI技術を用いて少数の2D画像から3D空間を再構築する手法である。2024年の研究によれば、従来のフォトグラメトリと比較して、データ量が限られた状況でも優れた完全性と質感表現を保持できる。特に均質なテクスチャ、可変照明条件、反射面、細かいディテールの再現に優れている。
敵対的生成ネットワーク(GAN:Generative Adversarial Networks)
生成器と識別器の2つのニューラルネットワークが相互に競争することで、リアルなデータを生成する機械学習手法である。文化遺産復元では、損傷や侵食で失われた部分を歴史的文脈に基づいて推測し補完するために使用される。
デジタルツイン(Digital Twin)
物理的な物体や建造物の正確なデジタル複製である。単なる3Dモデルではなく、時間の経過とともに変化を追跡し、予測分析や保全計画に活用できる動的なシステムである。製造業で発展した概念が文化遺産保存に応用されている。
コンピュータビジョン(Computer Vision)
コンピュータに画像や動画を理解させるAI技術である。文化遺産保存では、膨大な写真データから特徴を抽出し、建造物の劣化や損傷を自動検出するために使用される。人間の目では検出できない微細な変化も識別可能である。
【参考リンク】
【参考記事】
【編集部後記】
ノートルダム大聖堂の火災映像を見たとき、多くの人が「取り返しのつかないものが失われるかもしれない」という不安を感じたのではないでしょうか。今回ご紹介したAI技術は、その不安に対する一つの答えを示しています。
私たちが今、当たり前のように見ている建造物や文化遺産が、100年後、1000年後にどんな形で残っているか。あるいは残っていないか。デジタルツインという技術は、時間を超えて記憶を継承する新しい可能性を開いています。
みなさんの身近にも、後世に残したい風景や建物があるかもしれません。AIによる文化遺産保存の取り組みは、決して遠い世界の話ではなく、私たちの記憶と未来をつなぐ物語なのです。この技術がどう発展し、私たちの生活にどう関わってくるのか、ぜひ一緒に見守っていきましょう。