2025年10月29日、スペインからの報道により、NASAが星間天体3I/ATLASの検出後に惑星防衛プロトコルを発動したとする主張がソーシャルメディアで拡散した。Xユーザーによる投稿には、TV Azteca Lagunaが制作した動画が含まれ、葉巻型の天体が「知的な構造物」である可能性を示唆する内容だった。
しかし、NASAとBBC Sky at Night Magazineの科学的情報源は、3I/ATLASが’Oumuamuaと2I/Borisovに続く3番目の星間彗星であり、hyperbolic trajectory(双曲線軌道)上を移動する自然な氷の天体であることを確認している。Asteroid Terrestrial-impact Last Alert System(ATLAS)プログラムによって2025年7月に発見されたこの彗星は、地球に脅威を与えることはなく、10月30日の近日点通過時には太陽から約1.4天文単位の距離に達する。Planetary Defense Coordination Office(PDCO)からの公式発表はなく、緊急措置が取られた証拠は存在しない。
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3I/ATLAS Update: Spanish Report Claims NASA Triggered Defence Protocol After Detection
【編集部解説】
今回の騒動は、星間天体という稀少な科学的発見が、ソーシャルメディア上で誤情報として増幅される典型的なケースを示しています。3I/ATLASは2025年7月1日に正式に発見されましたが、観測データは6月14日まで遡ることができ、複数の天文台による綿密な追跡観測が行われてきました。この彗星は10月29日に近日点(太陽に最も近づく点)に到達し、約1.4天文単位の距離を保つため、地球からの直接観測は困難な状態が続いています。
NASAのPlanetary Defense Coordination Office(PDCO)は2016年に設立された組織で、地球近傍天体(NEO)の追跡と衝突リスクの評価を担当しています。しかし、その役割は「地球に有意な衝突の可能性がある自然天体を検出する」ことであり、星間天体の通過自体は本来の管轄外です。今回のような誤情報が拡散された背景には、PDCOの存在が一般に広く知られていないことと、「防衛プロトコル」という言葉が持つ劇的な響きが関係していると考えられます。
興味深いのは、ハーバード大学のAvi Loeb教授が3I/ATLASに関して「エイリアン技術の可能性」に言及している点です。同教授は2017年に発見された最初の星間天体’Oumuamuaについても同様の主張を展開しましたが、科学界の大半はこれを否定しています。このような一部の科学者による投機的な発言が、ソーシャルメディア上での誤情報の種となり、AI生成画像や偽のニュース報道と組み合わさることで、急速に拡散する状況が生まれました。
この事例から見えてくるのは、科学コミュニケーションにおける新たな課題です。arxivに投稿された論文では、星間天体の発見率が今後数ヶ月に1回のペースに増加することが予測されており、人工物の可能性がある天体が発見される確率も高まるとされています。同論文は、COVID-19や福島第一原発事故、小惑星アポフィスの事例における科学的不確実性の伝達失敗を分析し、AI時代における偽情報対策を含む包括的なコミュニケーション枠組みの必要性を指摘しています。
技術的な観点からは、今回の3I/ATLASの観測により、星間物質の組成分析が進展する可能性があります。彗星には水氷、二酸化炭素、シアン化物ガスなどが含まれることが確認されており、これらは他の恒星系における惑星形成のプロセスを理解する上で貴重なデータとなります。12月19日には地球に最接近するため、より詳細な分光観測が期待されています。
一方でリスクとしては、科学的根拠に基づかない情報が社会的パニックや誤った政策判断につながる可能性が挙げられます。特にAI生成コンテンツの普及により、視覚的に説得力のある偽情報が容易に作成できる現状では、科学機関による迅速かつ明確な情報発信の重要性が増しています。今後、星間天体の発見が頻繁になる時代において、透明性の高い観測データの公開と、一般市民が科学的プロセスを理解できる教育的取り組みが不可欠となるでしょう。
【用語解説】
3I/ATLAS
2025年7月に発見された3番目の星間天体(彗星)。ATLASプログラムによって検出され、hyperbolic trajectory(双曲線軌道)を描きながら太陽系を通過している。地球に脅威を与えることはない。
星間天体(Interstellar Object)
他の恒星系で形成され、太陽系外から飛来した天体の総称。これまでに’Oumuamua、2I/Borisov、3I/ATLASの3つが確認されており、今後発見頻度が増加すると予測されている。
ATLAS(Asteroid Terrestrial-impact Last Alert System)
地球に衝突する可能性のある小惑星や彗星を早期発見するための望遠鏡システム。ハワイとチリに設置され、全天を毎晩観測することで潜在的な脅威を検出する。
Planetary Defense Coordination Office(PDCO)
2016年にNASAが設立した惑星防衛調整局。地球近傍天体の追跡、衝突リスクの評価、緩和戦略の立案を担当する組織で、星間天体ではなく地球に衝突リスクのある天体を監視する。
hyperbolic trajectory(双曲線軌道)
天体が太陽の重力圏を脱出する軌道。離心率が1以上の開いた軌道で、星間天体がこの軌道を描く場合、太陽系外から来て再び外へ去ることを意味する。
近日点(perihelion)
天体が太陽に最も近づく軌道上の点。3I/ATLASは2025年10月30日に近日点を通過し、太陽から約1.4天文単位の距離に達した。
地球近傍天体(NEO:Near-Earth Object)
地球の軌道から約1.3天文単位以内を通過する小惑星や彗星の総称。PDCOはこれらの天体を継続的に監視し、衝突リスクを評価している。
‘Oumuamua(オウムアムア)
2017年に発見された史上初の星間天体。ハワイ語で「最初の使者」を意味する。その細長い形状と異常な加速が議論を呼び、一部の科学者がエイリアン技術の可能性を指摘した。
2I/Borisov(ボリソフ彗星)
2019年にウクライナのアマチュア天文家ゲンナジー・ボリソフが発見した2番目の星間天体。典型的な彗星の特徴を示し、星間天体が自然物であることを裏付けた。
天文単位(AU:Astronomical Unit)
地球と太陽の平均距離を1とする長さの単位で、約1億4960万キロメートル。太陽系内の距離を表す際に使用される標準的な単位である。
【参考リンク】
NASA – Comet 3I/ATLAS(外部)
NASAによる3I/ATLASの公式情報ページ。発見の経緯、軌道データ、観測結果、科学的意義などを詳細に記載。
NASA Planetary Defense Coordination Office(外部)
PDCOの公式サイト。地球近傍天体の追跡プログラム、DARTミッション、最新の観測データを公開。
Sky at Night Magazine – 3I/ATLAS水検出の重大な突破口(外部)
3I/ATLASからの水蒸気検出に関する最新科学報告。Neil Gehrels Swift天文台による観測結果を詳述。
【参考記事】
You won’t see interstellar comet 3I/ATLAS zoom closest to the sun on Oct 30, but these spacecraft will(外部)
Space.comによる3I/ATLASの近日点通過に関する記事。2025年10月30日の最接近時に観測を行う宇宙望遠鏡(Hubble、Webb、SOHO等)の詳細と、地球からの直接観測が困難な理由を解説。
Everything we know about 3I/ATLAS: The mysterious object speeding through our solar system(外部)
Euronewsによる3I/ATLASの包括的解説記事。発見から現在までの観測データ、軌道特性、過去の星間天体との比較、科学的意義を詳述。ソーシャルメディア上の誤情報についても言及。
3I/ATLAS Live Updates: Comet’s Location from Earth and Space, What Scientists Are Watching(外部)
Newsweekによるライブ更新記事。3I/ATLASの現在位置、観測スケジュール、科学者のコメント、12月19日の地球最接近に関する情報を提供。リアルタイムでの観測状況が更新されている。
Unmasking the myths around 3I/ATLAS – visibility, anomalies and the truth behind the hype(外部)
Gulf Newsによる誤情報検証記事。3I/ATLASに関する都市伝説やエイリアン説を科学的根拠に基づいて否定。ソーシャルメディアでの誤情報拡散のメカニズムと、科学コミュニケーションの課題を分析。
Harvard Scientist Reacts To New Observations Of Comet 3I/ATLAS, Fuels Alien Speculation(外部)
NDTVによるAvi Loeb教授のコメントを報じた記事。ハーバード大学の天体物理学者による「エイリアン技術の可能性」発言と、科学界の反応、主流派天文学者との見解の相違を詳述。
The Adaptive Communication Framework (ACF) for Interstellar Object Discoveries(外部)
arxivに投稿された学術論文。星間天体発見時の科学コミュニケーション戦略を提案。過去の科学的不確実性伝達の失敗事例を分析し、AI時代における偽情報対策を含む包括的枠組みを提示。
3I/ATLAS could help protect Earth from dangerous asteroids. Here’s how(外部)
Space.comによる惑星防衛への応用可能性を論じた記事。3I/ATLASの観測データが小惑星検出アルゴリズムの改善に貢献する可能性と、将来の惑星防衛システムへの科学的知見の活用方法を解説。
【編集部後記】
星間天体が数ヶ月に1回発見される時代が近づく中、推測と憶測の境界線はどこに引くべきでしょうか。
3I/ATLASの組成に含まれるニッケル蒸気や有機分子は、他の恒星系の惑星形成を解明する手がかりとなる一方、「葉巻型の母船」なのではないかという視覚的イメージは瞬時に世界中を駆け巡りました。今回の騒動で興味深いのは、Loeb教授のような著名な科学者の投機的発言が、AI生成画像と組み合わさることで、科学報道と偽情報の区別を困難にしている点です。12月の地球最接近時、私たちはどのような姿勢でこの天体を見守るべきなのでしょうか。
























