UC Mercedのネストル・オビエド教授は、国立衛生研究所から200万ドル以上の資金を受け取り、5年間のプロジェクトを開始する。がん発症初期段階を制御する神経シグナルに関する研究である。このプロジェクトは、NIHの国立一般医学科学研究所(NIGMS)を通じて2030年まで資金提供される。
研究は、細胞再生プロセスががん発症を促進する可能性があるという生物学的逆説に焦点を当てている。人間のがんの約9割は上皮組織で始まる。オビエド教授の研究グループは、プラナリア(淡水ワーム)を実験対象とし、腫瘍抑制遺伝子PTENを破壊することで、12日以内にがんのような状態を引き起こすことができた。
驚くべきことに、プラナリアの神経シグナルに干渉したところ、がんのような症状が消え始めた。オビエド教授は、神経系の分子スイッチを調節することでがんを制御できる可能性があると述べている。この発見により、神経系とステムセル間の通信ががん制御に不可欠である可能性が示唆された。研究チームは、今後、哺乳動物がんモデルでの臨床テストを期待している。この研究は加齢関連疾患の治療にも応用される可能性がある。
【編集部解説】
このニュースが今、重要である理由は、がん研究における基本的なパラダイムシフトを示唆しているからです。これまで、がんは主に遺伝子の異常によって引き起こされ、細胞レベルで解決すべき問題とされてきました。しかし、オビエド教授の研究は、神経系という全身のネットワークシステムがその過程に深く関与していることを明らかにしています。これは、がん治療を考える上で、単一の細胞や遺伝子だけに焦点を当てるのではなく、身体全体の情報伝達システムを対象にすべきという新たな視点を提供するものです。
プラナリアという小さな生物がもたらす洞察は、決して限定的ではありません。この生物が選ばれた理由は、それが人間の細胞再生メカニズムの基本的な構造を保持しているからです。毎日、人間の体は数十億個の細胞を置き換えていますが、この同じプロセスが突然変異を引き起こす機会にもなっています。つまり、組織再生の頻度が高いほど、がん化のリスクも高いということです。上皮組織(皮膚や消化管の内膜)でがんが90%以上も発生する理由は、まさにこの高い置き換え頻度にあります。
注目すべきは、神経シグナルの干渉によってがん様症状が消えたという発見です。これは単なる症状の緩和ではなく、神経系がステムセルの行動を制御する際の「スイッチング機構」が存在することを示唆しています。オビエド教授が「神経系の分子スイッチを操作することでがんを制御できる」と述べた表現は、比喩ではなく、具体的な分子レベルでの操作可能性を指しています。
現在、研究チームはこのメカニズムをさらに詳しく解析する段階にあります。遺伝的、細胞的、ゲノム分析を組み合わせることで、ダメージを受けたステムセルがどのようにして生き残り増殖するのか、そして神経経路がそれをどのように制御するのかを理解しようとしています。この過程で、がん細胞を特異的に排除しながら正常な細胞を温存する方法が見つかれば、治療の精密性は飛躍的に向上します。
ポジティブな側面としては、このアプローチが複数の疾患に応用される可能性があることが挙げられます。オビエド教授は加齢関連疾患にも同様のメカニズムが関与している可能性を指摘しており、神経信号の調節によってこれらの状態も治療できる可能性があります。つまり、この研究は単なるがん治療の革新ではなく、神経系と細胞再生の関係を理解することで、多くの難治性疾患への新たなアプローチをもたらす可能性があるのです。
潜在的なリスクや課題も存在します。神経シグナルを操作することは、治癒効果をもたらす一方で、予期しない副作用を引き起こす可能性があります。神経系は身体全体に分布し、多くの機能を調整しているため、特定の神経シグナルを選択的に変調させることは技術的に極めて困難です。また、個体差や組織間での神経信号の多様性を考慮すると、一律の治療法の開発には長期的な検討が必要です。
規制の観点からは、このような革新的なアプローチが臨床応用される際には、従来の医学モデルに基づいた既存の規制枠組みだけでは対応しきれない可能性があります。新たな治療様式に適合した評価基準や安全性監視システムの構築が求められることになるでしょう。
この研究が長期的に意味するところは、がんという病気を「単なる細胞の暴走」から「身体全体のコミュニケーションネットワークの失調」として再定義することです。もし神経系がステムセルの行動を制御しうるなら、ストレスや加齢に伴う神経機能の変化が、がんリスクに影響を与えることも理に適っています。最終的には、予防医学の領域でも、神経系の健全性を保つことが、がん予防の重要な要素となる可能性があります。
【用語解説】
ステムセル(幹細胞)
体内の複数の細胞型へ分化する能力と、自己複製能を持つ細胞。組織の再生と修復を担う。プラナリアの場合、ネオブラストと呼ばれるステムセルが驚異的な再生能力を支える。
ネオブラスト
プラナリア(ウズムシ)に存在するステムセルの一種。体内のすべての細胞型へと分化が可能で、その生物の高い再生能力を可能にしている。
PTEN遺伝子
腫瘍抑制遺伝子の一つ。細胞の異常な増殖を抑制する働きを持つ。人間のがんにおいて最も頻繁に不活化・喪失する遺伝子の一つである。
二本鎖切断(DNA double-strand break)
DNAの両方の鎖が同時に切れる現象。最も危険なDNA損傷の形態であり、修復が不完全だとがん化につながりやすい。
神経シグナル(Neural signals)
神経系を通じて細胞間で送受信される化学的・電気的な情報伝達。この研究では、神経系がステムセルの動作を制御する方法として機能している。
上皮組織(Epithelial tissues)
体表面や体内臓器の内膜を覆う組織。皮膚や消化管、呼吸器などの内膜がこれに該当し、常時高速で細胞が置き換わるため、がん発症のリスクが高い。
プラナリア(Planarian flatworm)
淡水に生息する小さなウズムシ。半分に切られても完全に再生する能力で知られており、ステムセルと再生メカニズムの研究に用いられる強力なモデル生物である。
【参考リンク】
UC Merced(カリフォルニア大学マーセド校)(外部)
カリフォルニア大学システムの一校。ネストル・オビエド教授が所属する研究機関。
National Institutes of Health(国立衛生研究所、NIH)(外部)
米国保健福祉省の一部門。医学・生物学研究に多大な資金提供を行う機関。
National Institute of General Medical Sciences(NIGMS)(外部)
NIH傘下の研究所。基礎的な生物医学研究に資金を提供する機関。
Health Sciences Research Institute(健康科学研究所)(外部)
UC Merced内の研究機関。生命科学研究を統合的に推進する組織。
【参考記事】
Unraveling cancer’s neural connections: NIH-funded study investigates how stem cell regulation influences tissue renewal, cancer development(外部)
UC Mercedの研究チームが、神経シグナルがステムセルの制御とがん発症に与える影響を調査する内容。
Cancer cell growth linked to nervous system in UC Merced study(外部)
神経系がステムセルの行動制御に重要な役割を果たしていることを示す早期の研究。
Decoding Cancer’s Neural Links: NIH-Funded Research Explores Stem Cell Control in Tissue Renewal and Tumor Growth(外部)
本研究が神経系を通じたがん制御の新しい標的を提供することについて詳述した記事。
【編集部後記】
身体を支える神経ネットワークと細胞の運命が、思いのほか深くつながっているという発見から。それはストレスや加齢が病気に与える影響を考える上で、これまで見えていなかった新しい視点をもたらします。
私たちの日々の暮らしの中で、脳と身体がどのようにして対話しているのか。その問い掛けから、未来の医療がどう変わるのか、一緒に考えてみませんか。
























