マイクロソフトは2025年11月9日、Inbrainとの提携を発表した。これはマイクロソフトにとって初の脳インプラント分野での提携である。
目標はパーキンソン病、てんかん、精神疾患、記憶障害などの神経疾患患者向けの新しい治療法を創出することだ。InbrainはマイクロソフトのエージェンティックAIとクラウド技術を脳コンピューターインターフェースに適用し、リアルタイムで脳の状態に基づいた治療を提供する。
InbrainのCEO兼共同創業者Carolina Aguilarによれば、このシステムは体のオペレーティングシステムのように機能するという。InbrainのBCIはグラフェン製のストラップ状デバイスで、炭素原子の単層から作られている。
現在英国で臨床試験中で、2026年の米国展開を目指している。マイクロソフトのClare Barclayはこの提携をAIの次のフロンティアと位置づけた。
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An OS for the Body? Microsoft Inks First Brain Implant Partnership
【編集部解説】
マイクロソフトによる初の脳インプラント分野への参入は、ビッグテックが医療の未来を左右する新たな時代の到来を告げています。これまでAppleやNvidiaが周辺技術で参入してきましたが、マイクロソフトは今回、スペイン・バルセロナ拠点のInbrainと戦略的提携を結び、クラウドインフラとAI技術を直接的に医療デバイスへ統合する道を選びました。
この提携の核心は「エージェンティックAI」の活用にあります。エージェンティックAIとは、人間の指示を待たずに自律的にデータを分析し、判断し、行動するAIシステムを指します。従来のAIが「質問に答える」だけだったのに対し、エージェンティックAIは「状況を監視し、問題を予測し、解決策を実行する」ことができます。医療分野では、患者の脳波をリアルタイムで読み取り、神経状態の変化を予測し、最適なタイミングで最適な刺激を自動的に届けることが可能になります。
Inbrainの技術的独自性は、グラフェンという素材にあります。グラフェンは炭素原子が一層だけ並んだシート状の物質で、人間の髪の毛よりもはるかに薄い構造です。鋼鉄の200倍の強度を持ちながら柔軟で、生体適合性が高く、優れた電気伝導性を備えています。従来の金属電極では避けられなかったファラデー反応による信号劣化も、グラフェンでは最小限に抑えられます。
競合他社との違いも明確です。Neuralinkは脳組織に直接挿入する糸状の電極を採用し、単一ニューロンレベルの高解像度を目指しています。一方Synchronは血管を通じて運動皮質へアクセスするステント型デバイスで、開頭手術を回避する低侵襲性を特徴とします。Inbrainはその中間に位置し、脳表面に広く配置されるストラップ型デバイスで、信号品質、安全性、手術の複雑さのバランスを追求しています。
「体のオペレーティングシステム」という比喩は、この技術の革新性を象徴しています。現在のパーキンソン病治療では、薬物療法や手動調整が中心で、症状の変動に即座に対応することは困難です。しかしエージェンティックAIを搭載したBCIは、振戦や歩行困難、さらには発作や気分状態までを継続的に監視し、ソフトウェアアップデートのように追加手術なしで治療を最適化できる可能性があります。
世界には約1,000万人のパーキンソン病患者、5,000万人のてんかん患者が存在します。現在の治療法では症状が日中で変動しても、薬や手動デバイス調整では追いつけません。クローズドループ神経調節は既存技術でも一定の成果を上げており、例えばNeuroPaceの応答型神経刺激装置は、てんかん患者の発作を長期的に50%以上減少させました。AIがさらに加われば、検出精度の向上、個別化された刺激タイミング、副作用の低減が期待できます。
しかし、課題も山積しています。エージェンティックAIが自律的に治療判断を下すことは、安全性と規制の観点から未踏の領域です。IEC 62304やISO 14971といった医療ソフトウェア基準への適合、サイバーセキュリティ対策、透明性の確保が必要です。神経データは極めて機微な個人情報であり、Inbrainは患者データの所有権は患者にあり、マイクロソフトは患者識別可能なデータへアクセスしないと明言していますが、クラウド上での処理には厳格な医療コンプライアンス環境が求められます。
また、エネルギー消費も現実的な制約です。高精度な記録とオンボード推論は大量の電力を消費するため、超効率的なエッジチップと選択的なクラウドストリーミングのバランスが設計の鍵となります。
Inbrainは英国で臨床試験を実施中で、2026年の米国展開を目指しています。またMayo Clinicとの提携やFDAブレークスルーデバイス指定の取得など、実用化に向けた布石は着実に打たれています。
この提携が象徴するのは、医療デバイス業界の構造変化です。デバイスメーカーが安全で耐久性のあるインターフェースに集中する一方、テック大手がAIモデル、セキュリティ、コンプライアンス、クラウド規模のデータ管理を担う分業モデルが形成されつつあります。勝者は、シリコンから信号パイプライン、臨床ダッシュボード、新しい神経治療のための開発者ツールまで、エンドツーエンドの体験を形成する企業となるでしょう。
人類史的な視座で見れば、これは脳と機械の境界を再定義する試みです。活版印刷が知識の民主化をもたらし、蒸気機関が産業革命を引き起こしたように、神経技術は人間の認知能力と身体機能の拡張という新たなフロンティアを開く可能性を秘めています。私たちは今、後世が振り返る歴史的転換点の只中にいるのかもしれません。
【用語解説】
エージェンティックAI(Agentic AI)
人間の指示を待たずに自律的にデータを分析し、判断し、行動するAIシステム。従来のAIが単に質問に答えるだけだったのに対し、エージェンティックAIは状況を監視し、問題を予測し、解決策を実行する能力を持つ。医療分野では患者の状態をリアルタイムで監視し、治療を自動調整する。
脳コンピューターインターフェース(BCI: Brain-Computer Interface)
脳と外部デバイスを直接接続し、脳の電気信号を読み取って機器を制御したり、逆に脳へ刺激を与えたりする技術。麻痺患者のコミュニケーション支援や神経疾患の治療などに応用される。
グラフェン(Graphene)
炭素原子が六角形の格子状に一層だけ並んだシート状の物質。鋼鉄の200倍の強度を持ちながら柔軟で、優れた電気伝導性と生体適合性を備える。脳インプラントでは従来の金属電極よりも信号劣化が少なく、長期間安定して使用できる。
クローズドループ神経調節(Closed-Loop Neuromodulation)
脳の状態を継続的に監視し、その情報に基づいてリアルタイムで刺激を調整する治療方法。従来の「開ループ」型では刺激パターンが固定されていたが、クローズドループでは患者の状態変化に応じて自動的に最適化される。
FDAブレークスルーデバイス指定(FDA Breakthrough Device Designation)
米国食品医薬品局が、生命を脅かす疾患や重度の障害に対して既存治療より優れた可能性のある医療機器に与える指定。開発・審査プロセスが迅速化され、早期の実用化が期待できる。
Azure AI
マイクロソフトが提供するクラウドベースのAIプラットフォーム。大規模言語モデル、データ分析、機械学習ツールなどを統合し、医療分野では時系列データの解析や個別患者への適応学習などに活用される。
【参考リンク】
INBRAIN Neuroelectronics(外部)
グラフェンベースのBCI治療プラットフォームを開発するバルセロナ企業。パーキンソン病でFDAブレークスルー指定取得。
Microsoft Azure AI(外部)
マイクロソフトのクラウドAIサービス。医療向けに時系列LLMやデータ分析機能を提供。
Mayo Clinic(外部)
InbrainのBCI治療技術の臨床開発と商業化を加速させる世界有数の医療機関パートナー。
Neuralink(外部)
イーロン・マスク創業の脳インプラント企業。脳組織直接挿入型の糸状電極で高解像度信号取得を目指す。
Synchron(外部)
ゲイツ、ベゾス投資の脳インプラント企業。血管経由でデバイス挿入する低侵襲アプローチを採用。
Parkinson’s Foundation(外部)
パーキンソン病研究支援団体。世界で約1,000万人が同病と共生していると発表。
World Economic Forum – Technology Pioneers(外部)
Inbrainが2025年テクノロジーパイオニアに選出。過去にGoogleも受賞した革新企業認定プログラム。
【参考記事】
INBRAIN Neuroelectronics Announces Collaboration with Microsoft(外部)
提携公式発表。Azure AIとグラフェン技術を組み合わせリアルタイム精密神経学を実現する詳細を記載。
Microsoft and INBRAIN Partner to Advance AI-Driven BCI Therapeutics(外部)
患者データプライバシー保護の詳細説明。神経データは患者帰属でマイクロソフトは個人識別情報にアクセスしないと明記。
Inbrain Neuroelectronics in pact with Microsoft(外部)
インプラント厚10マイクロメートル、2023年FDAブレークスルー指定など技術詳細を報道。
Silicon Synapses: The Bold Frontier of Brain–Computer Integration(外部)
IEEE記事。グラフェン特性とBCI業界全体の動向、Neuralink、Synchron、Inbrainの技術比較分析。
New Brain-Computer Interface Uses Graphene(外部)
グラフェンが金属電極比200倍の電荷注入能力、ファラデー反応回避など技術的優位性を詳述。
What Is Agentic AI, and How Can It Be Used in Healthcare?(外部)
エージェンティックAIの医療応用解説。Gartner予測で2028年までに企業ソフトの33%採用見込み。
Brain-computer interfaces face a critical test(外部)
MIT Technology Review記事。現在約25のBCI臨床試験進行中、各社進捗状況を詳細報告。
【編集部後記】
脳とAIが直接つながる未来は、もはやSFではなく現実のタイムラインに入りつつあります。この技術が実用化されたとき、私たちは何を手に入れ、何を手放すことになるのでしょうか。
病気の治療という明確な目的から始まったこの技術が、やがて人間の能力拡張へと向かう可能性も否定できません。体のOSとして機能する神経インターフェースは、人間という存在の定義そのものを問い直すかもしれません。
この変化を私たちはどう受け止め、どのような未来を選択していくべきか。一緒に考えていきたいテーマです。
























