2025年、XR(拡張現実)とAI(人工知能)の融合は、現場で実際に成果を出し始めています。重要なのは技術的な可能性ではなく、それが実務にどう役立つかです。
製造業の安全教育、医療現場での診断支援、企業研修の効率化——XRとAIは「未来の技術」から「今日使える道具」へと変わりつつあります。本稿では、実際の導入事例を通じて、この技術融合が現場にもたらす変化を検証します。
製造業——安全教育と技能伝承の革新
VRが変える労災防止教育
製造現場での安全教育は長年、座学とマニュアルに依存してきました。しかし知識として知っていることと、実際に危険を認識することの間には大きな隔たりがあります。
VRによる労災事故の追体験は、この問題に直接的な解決策を提供します。作業員はVRゴーグルを装着し、過去に発生した事故を被害者の視点で体験します。落下物の接近、機械への巻き込まれ——臨場感のある体験は、安全規則の重要性を身体レベルで理解させます。
VR安全教育導入後、作業員のヘルメット着用率が向上し、危険予知活動の質も明確に改善しました。教育担当者は「頭で理解するのと、体験するのでは全く違う」と語っています。
技能伝承のデジタル化
KLM航空では、エンジンショップアプリを使用して技術者がエンジンの3Dモデル上に修理指示を重ねて表示し、実機を使わずに訓練を実施しています。これにより、航空機をオフラインにするコストを削減しながら、訓練の質を向上させました。
重要なのは、AIが熟練技術者の作業パターンを分析し、最適な手順を可視化できる点です。10年かけて習得していた技能の一部を、数週間のXR訓練で伝達できる可能性があります。
ただし課題もあります。暗黙知をすべてデジタル化できるわけではなく、経験に基づく「判断力」は依然として人間固有のスキルとして残ります。XRは技能伝承を加速するツールであって、完全な代替手段ではありません。
医療——診断精度の向上と手術支援
手術室での空間コンピューティング
UC San Diego Healthは、手術室でApple Vision Proを使用する全米初の臨床試験を実施しています。外科医はデバイスを装着したまま、患者の医療画像、バイタルサイン、手術カメラビューをリアルタイムで視界に表示しながら手術を行います。

従来は、外科医が手術中に複数のモニターを見る必要がありましたが、Vision Proはすべての情報を視界内に統合します。これにより、外科医はより人間工学的な姿勢を保ちながら、必要な情報に即座にアクセスできます。
初期結果では、情報へのアクセス時間が短縮され、外科医の身体的負担も軽減されたということです。ただし、現段階では通常のモニターも併用しており、完全な移行には時間がかかる見込みです。
患者教育と行動変容
富士通と帝京大学の共同研究では、XRと生成AIを活用して健康診断受診者が自身の体内状態を理解し、生活習慣の改善を促す取り組みを行っています。
具体的には、受診者がXRで自分の内臓を3D表示で確認し、AIヘルスケアサポーターのアバターから生活習慣改善のアドバイスを受けます。「肝機能の数値が悪い」という抽象的な情報ではなく、視覚的に自分の状態を理解できることで、行動変容への動機付けが強まります。
生活習慣病は自覚症状がないため、個人が自発的に改善行動を取ることが難しい状況です。XRとAIの組み合わせは、この課題に対する新しいアプローチを提供しています。
コミュニケーション支援の可能性
CognixionはApple Vision ProとEEGヘッドセットを組み合わせ、ALS、脊髄損傷、脳卒中による言語障害を持つ患者の脳活動を読み取ってコミュニケーションを可能にする研究を進めています。
この技術は2026年までの臨床試験中ですが、成功すれば、従来コミュニケーションが困難だった患者が意思表示できるようになります。医療現場だけでなく、介護や在宅ケアでの応用も期待されています。
企業研修と教育——個別最適化された学習
研修コストの削減と効果向上
Purdue大学は、Apple Vision Proを活用した空間コンピューティングハブを2025年秋に開設予定で、半導体・製薬製造などの分野における訓練に活用します。
企業研修におけるXR活用の利点は明確です。第一に、高額な実機や危険な環境を用意せずに実践的な訓練ができます。第二に、AIが個々の習熟度を分析し、最適な学習プログラムを提供できます。
AIを活用したXR学習環境は、生徒一人ひとりの学習進度や理解度に合わせてコンテンツを適応させます。これにより、集合研修では難しかった個別最適化が実現します。
実務での課題
ただし、導入には課題もあります。まず初期投資です。Samsung Galaxy XRは$1,799.99と、一人あたりの導入コストは依然として高い状況です。中小企業が全従業員に配布するのは現実的ではありません。

また、XRコンテンツの制作には専門知識が必要です。従来は3D設計の速度がボトルネックでしたが、AIによるテキストプロンプトからの空間生成機能により、制作時間は大幅に短縮されつつあります。
企業のHR部門が自社で研修コンテンツを作成できるようになれば、導入障壁は下がるでしょう。
技術的進化——実用化を支える基盤技術
ニューラルインターフェースの実用化
Metaが開発する筋電位(EMG)技術は、手首の神経筋信号を読み取り、微細なジェスチャーでデバイスを制御します。この技術の実務的価値は、手がふさがっている状況での操作を可能にする点です。
製造現場で工具を持ちながら、医療現場で患者を診察しながら、建設現場で安全帯を装着しながら——両手を使えない状況でもXRデバイスを操作できることは、作業効率を大きく向上させます。
Wearable DevicesのMudra Linkは、EMGで重量推定機能を実装しており、ロボティクス、医療、XRへの応用が期待されています。将来的には、作業者が持ち上げようとする物体の重量をリアルタイムで推定し、腰痛予防に役立てることも可能になるかもしれません。
エッジAIによるレイテンシー削減
2025年、デバイス自体が高度なAI処理を実行するエッジAI技術が進化しています。クラウドへのデータ伝送遅延、帯域幅コスト、接続安定性の問題を解決します。
XRデバイスにおいて、空間認識や物体検出をクラウドに依存すると、レイテンシーが発生して使用感が悪化します。エッジAIにより、デバイス単体で処理を完結できれば、実用性は格段に向上します。
特に製造現場や建設現場など、ネットワーク環境が不安定な場所でも安定して使用できることは、導入の重要な条件となります。
プラットフォームの選択肢
GoogleのAndroid XRは、オープンプラットフォームとしてサードパーティメーカーにライセンス供与する戦略を取っています。これにより、企業は複数のハードウェアベンダーから選択でき、既存のAndroidアプリ資産も活用できます。
一方、Appleは垂直統合型のエコシステムを構築しています。M5搭載の新型Vision Proは2025年後半に量産開始予定で、Apple IntelligenceとSpatial Computingの統合がセールスポイントです。
企業がどのプラットフォームを選ぶかは、既存のIT環境、予算、必要な機能によって異なります。重要なのは、プラットフォーム選択が長期的な投資となることを理解した上で判断することです。
導入における課題と対策
コストと投資回収
XR導入の最大の障壁はコストです。ハードウェアだけでなく、コンテンツ制作、従業員教育、システム統合にも費用がかかります。
投資回収を明確にするためには、具体的なKPIを設定する必要があります。製造業なら労災件数の削減、医療なら手術時間の短縮、研修なら習熟時間の短縮——測定可能な指標で効果を検証すべきです。
プライバシーとセキュリティ
XRデバイスに内蔵されたカメラとマイクはプライバシー上の懸念を生みます。特に企業環境では、従業員の監視ツールとして悪用される可能性があります。
導入に際しては、明確なプライバシーポリシーを策定し、データの収集範囲、保存期間、利用目的を従業員に説明する必要があります。信頼関係なしに、XR技術の効果的な活用はできません。
従業員の受容性
技術導入の成否は、最終的に使用する従業員の受容性にかかっています。特に年配の従業員や、新技術に抵抗感を持つ人々への配慮が必要です。
段階的な導入、十分な教育期間の確保、フィードバックの収集——これらのプロセスを経ることで、組織全体での受容性を高められます。
今後の展望
2027年に向けた技術成熟
MetaのOrion ARグラスは2027年に後継機種の一般向け発売を予定しており、価格を現代のスマートフォン並に抑えることを目指しています。価格が下がれば、中小企業での導入も現実的になります。
2030年までにXR技術はアメリカで約230万の雇用を支援すると推定されています。これは単なる予測ではなく、製造業、医療、教育、エンターテインメントなど、幅広い産業での実装が進んでいることを反映しています。
業界標準の確立
現在、XR業界は標準化の途上にあります。各社が独自のプラットフォームを展開している状況では、企業が複数のシステムを管理しなければならず、運用コストが増大します。
業界標準の確立により、異なるメーカーのデバイス間での互換性が確保されれば、企業はより柔軟にシステムを構築できます。OpenXRなどのオープン規格の普及が鍵となります。
AIの進化とXRの関係
AIは「生成式AI」から「代理式AI」へと進化しつつあり、単なるツールから能動的に行動するエージェントへと変化しています。
XRとAIエージェントの組み合わせにより、現場作業者に対するリアルタイムサポートがさらに高度化します。「この手順で合っているか」「次に何をすべきか」——AIが文脈を理解して適切な指示を出せれば、作業効率は飛躍的に向上します。
実務への実装が始まっている
XRとAIの融合は、もはや実験段階ではありません。製造業での安全教育、医療現場での手術支援、企業研修の効率化——実際の現場で成果を出し始めています。
重要なのは、技術そのものではなく、それが解決する課題です。労災を減らしたい、診断精度を上げたい、研修コストを削減したい——明確な課題があって初めて、XRとAIは価値を発揮します。
導入にはコスト、プライバシー、従業員の受容性といった課題がありますが、段階的なアプローチと明確なKPI設定により、これらは管理可能です。
2027年に向けて技術はさらに成熟し、価格も下がります。今から実証実験を始め、ノウハウを蓄積している企業は、競争優位を築けるでしょう。
XR Kaigi 2025では、こうした実務的な知見が共有されることを期待したいと思います。技術の可能性ではなく、現場での実装——そこに焦点を当てた議論が、日本のXR産業の成長につながります。
























