韓国政府は学校向けAI教科書の開発に1兆2000億ウォン(約8.5億ドル)を費やしたが、わずか4か月で国家プログラムが撤回された。
出版社は約5.7億ドルをかけてオンラインデジタルテキストを開発し、使用が義務化が予定されていたが、テキストの不正確さ、プライバシーへの懸念、教職員と生徒の作業負担増加などの問題により、任意扱いとなった。
AI教科書を使用する学校数はその間に半減した。国会議員Kang Kyung-sookは2025年1月、従来の印刷教科書が開発18か月、審査9か月、準備6か月かかるのに対し、AI教科書は開発12か月、審査3か月、準備3か月と急がれたことを指摘した。失敗の原因には問題の政治化と政権交代も挙げられている。
マサチューセッツ工科大学の研究は、教育現場でのAI使用が長期的に脳活動を低下させる可能性を示唆している。
From: South Korea scraps AI textbook programme
【編集部解説】
韓国のAI教科書プログラムが、わずか4か月という驚くべき速さで事実上の撤回に追い込まれました。約8.5億ドルという巨額の政府投資と、出版社側の約5.7億ドルの開発費を費やしながら、です。
このプログラムは前大統領Yoon Suk Yeolの目玉政策として、学習の個別最適化、教師の負担軽減、教育格差の是正を掲げて2025年3月に開始されました。数学、英語、コンピュータサイエンスの3科目で展開され、生徒一人ひとりの学習速度に合わせてAIが内容を調整する仕組みでした。
しかし現実は理想とは程遠いものでした。生徒たちは技術的な問題で授業が遅れ、自分のレベルに合った学習が提供されないと訴えました。教師たちは教科書の品質の低さと、生徒の学習進捗を監視する負担の増加に不満を漏らしました。保護者からはプライバシーへの懸念やスクリーンタイムの増加が指摘されました。
問題の根本には、開発期間の短さがあります。従来の印刷教科書が開発18か月、審査9か月、準備6か月の計33か月を要するのに対し、AI教科書はわずか18か月(開発12か月、審査3か月、準備3か月)で市場投入されました。子どもを対象とする教材としては、検証が不十分だったと言わざるを得ません。
さらに政治的な混乱が追い打ちをかけました。Yoon大統領が2024年12月に戒厳令を敷こうとして弾劾され、2025年4月に正式に解任されました。新たに選出されたLee Jae Myung大統領はAI教科書政策の撤回を公約に掲げており、8月には議員がAI教科書の正式な地位を取り消し、「補助教材」へと格下げしました。
結果として、第1学期に37%だった採用率は第2学期には19%へと半減。使用校数も当初の約4,000校から2,095校へと激減しました。教科書開発企業は政府を相手取り、憲法訴訟と損害賠償請求を準備していると報じられています。
教育へのテクノロジー導入は決して新しい試みではありません。元記事でも触れられているように、南アフリカのハウテン州では2000年代初頭、学校にコンピュータラボとインターネット接続を整備するOnline Schools Projectが開始されましたが、2013年に10億ランド(約5700万ドル)の費用をかけて中止されました。マレーシアでは2011年に開始された1BestariNetプロジェクトが、数十億リンギット(10億リンギットは約2.3億ドル)を投じながら2019年に8年で終了しています。インターネット速度の問題や仮想学習環境の複雑さが原因でした。
しかし韓国のケースは、その失敗の速さと規模において際立っています。わずか4か月という短期間での撤回は、プログラムの設計段階から実装、運用まで、あらゆる面で問題があったことを示唆しています。
特に注目すべきは、AI技術そのものの教育への適性という根本的な疑問です。MITメディアラボが2025年6月に発表した研究(査読前)によると、54人の学生を対象にした実験で、ChatGPTを使ってエッセイを書いたグループは、検索エンジンを使ったグループや何も使わなかったグループと比べて、最も低い脳活動を示しました。さらに記憶保持が弱く、自分が書いた内容への所有感も低かったのです。

この効果は長期的に継続し、AIの使用を止めた後も脳活動が鈍いままだったことが報告されています。発達途上の子どもの脳への影響については、さらに慎重な検証が必要だという警鐘を鳴らしています。
今回の失敗から学ぶべき教訓は明確です。
第一に、新技術を教育に導入する際には、十分なパイロットテストと段階的な展開が不可欠だということ。
第二に、教師や保護者、そして何より生徒自身の声に耳を傾ける必要があるということ。
第三に、効率性や個別最適化といった理想だけでなく、実際の教育現場での実用性や子どもの発達への影響を慎重に評価しなければならないということです。
AI技術は確かに教育に革新をもたらす可能性を秘めています。しかしそれは、人間の教師を置き換えるものではなく、補完するものとして慎重に導入されるべきでしょう。韓国の経験は、テクノロジー先進国であっても、教育とAIの融合には多くの課題があることを世界に示しました。
【用語解説】
VLE(Virtual Learning Environment / 仮想学習環境)
オンライン上で学習活動を管理・実施するためのプラットフォーム。教師が授業資料を配布したり、課題を出したり、生徒の学習進捗を追跡したりできるクラウドベースのシステムである。マレーシアの1BestariNetプロジェクトで使用されたFrog VLEが代表例。
EEG(Electroencephalography / 脳波計測)
頭皮に電極を装着して脳の電気的活動を測定する技術。MITの研究では、学生がエッセイを書く際の認知的負荷や脳の活性度を測定するために使用された。アルファ波、ベータ波、シータ波、デルタ波などの脳波パターンを分析することで、脳の状態を評価できる。
hagwon(学院 / 韓国の塾)
韓国における私設の補習教育機関。韓国では学校の授業に加えて、多くの生徒がhagwonに通って追加の学習を行う文化が根付いており、高額な教育費が社会問題となっている。AI教科書プログラムは、このhagwon依存を減らすことも目的の一つだった。
Yoon Suk Yeol(尹錫悦)
2022年から2025年4月まで韓国大統領を務めた政治家。AI教科書プログラムを目玉政策として推進したが、2024年12月に戒厳令を敷こうとして弾劾され、2025年4月に正式に罷免された。
Lee Jae Myung(李在明)
2025年に韓国大統領に選出された政治家。選挙公約でAI教科書政策の撤回を掲げており、当選後に議員によってAI教科書の正式地位が取り消された。
【参考リンク】
Rest of World(外部)
新興市場におけるテクノロジーの影響を報じる非営利メディア。今回の元記事を掲載した。
MIT Media Lab(外部)
マサチューセッツ工科大学のメディアラボ。AIの教育利用と脳活動に関する研究を発表。
韓国教育部(Ministry of Education, Republic of Korea)(外部)
韓国の教育政策を統括する政府機関。AI教科書プログラムを推進した。
Your Brain on ChatGPT – MIT Media Lab(外部)
AIを使用したエッセイ執筆が脳活動に与える影響を研究したプロジェクトページ。
【参考記事】
AI-powered textbooks fail to make the grade in South Korea(外部)
韓国のAI教科書プログラムの詳細な経緯と現場の声を報じた記事。生徒、教師、開発企業へのインタビューを含む。
ChatGPT’s Impact On Our Brains According to an MIT Study(外部)
MITの研究について詳しく解説した記事。54人の学生を対象にした実験の詳細を報告している。
Brain activity lower when using AI chatbots: MIT research(外部)
AI使用による脳活動低下の技術的詳細を解説。LLMグループが全レベルで劣るパフォーマンスを示した。
South Korea’s $800M AI Textbook Project Ends in Failure(外部)
韓国の教育文化と投資規模を背景に、プログラムの失敗を分析した記事。
South Korea Axes $850M AI Textbook Program After 4 Months of Issues(外部)
プライバシー問題や概念の誤分類など、プログラムの具体的な問題点を詳述した記事。
What Is 1BestariNet & Frog VLE And Why It’s Being Investigated By MACC?(外部)
マレーシアの1BestariNetプロジェクトの詳細。8年間運営されたが2019年に終了した経緯を報告。
Education ministry went back on internet tender offer, claims YTL Communications(外部)
マレーシア1BestariNetプロジェクトの契約問題とYTL側の主張を詳細に報道した記事。
【編集部後記】
韓国のAI教科書プログラムの失敗は、私たちに重要な問いを投げかけています。効率や個別最適化という言葉に魅了される一方で、本当に大切なものを見失っていないでしょうか。MITの研究が示唆するように、AIに頼りすぎることで私たちの思考力や創造性が損なわれる可能性があります。子どもたちの教育現場だけでなく、私たち自身の日常業務でも同じことが起きているかもしれません。テクノロジーは道具であり、目的ではありません。韓国の経験から学び、AI時代における「本当の学び」とは何かを、みなさんと一緒に考えていきたいと思います。