今日、9月4日は山中伸弥教授の誕生日です。2012年にノーベル生理学・医学賞を受賞した彼について語る時、多くの人がiPS細胞の革新性に注目します。確かにそれは重要な発見でした。しかし今回は、その業績を振り返りながら、むしろ一人の人間としての山中伸弥という存在に焦点を当ててみたいと思います。科学者としての成果の向こうに見える、日本社会への責任感と、豊かな人生観について考えてみましょう。
町工場の息子から世界的研究者へ
山中伸弥教授は1962年、大阪府東大阪市で生まれました。父親はミシンの部品を作る町工場を経営していました。中学生のころ、父親から「継がんでええ。経営に向いていない」と言われ、学生時代に柔道で骨折した際によく世話になった整形外科医を目指すことになりました。
神戸大学医学部を卒業後、1987年から研修医として整形外科医の道を歩み始めました。しかし、ここで大きな挫折が待っていました。手術が下手で「ジャマナカ」と呼ばれるほど臨床医としての技術に悩まされました。このエピソードは後に山中教授自身がよく語るようになり、挫折が人生の転機となったことを示す象徴的な出来事となっています。
1993年に大阪市立大学大学院で博士課程を修了した後、アメリカのグラッドストーン研究所に留学します。ここで初めてES細胞の研究に触れることになり、後のiPS細胞開発の基盤となる知識と技術を身につけました。
iPS細胞─新たな医療の可能性を開いた発見
簡潔に、iPS細胞について。山中教授が2006年に発表したiPS細胞(人工多能性幹細胞)技術は、生命科学の大きな転換点でした。それまで再生医療の中心とされてきたES細胞(胚性幹細胞)は、様々な細胞に変化する能力を持っていました。しかし、胚を使用する必要があるという倫理的な問題と、患者の体に移植した際の拒絶反応という課題がありました。
山中教授の発見は、これらの問題を解決しました。皮膚などの普通の細胞に、4つの遺伝子(Oct3/4、Sox2、Klf4、c-Myc)を入れることで、ES細胞と同じような能力を持つ細胞を作ることができたのです。「山中4因子」と呼ばれるこの技術は、医療の未来を大きく変える可能性を示しました。
現在、この技術は実際の医療現場での応用が進んでいます。目の病気である加齢黄斑変性症の治療では臨床研究が行われており、パーキンソン病などの難病治療への応用研究も着実に進展しています。また、新薬開発の分野でも、患者由来のiPS細胞を使った効果的な薬の評価システムが作られており、より個人に合った医療の実現に向けて歩みを進めています。
コロナ禍で見せた社会への献身
山中教授の人柄が表れたのは、2020年からのコロナ禍での活動だったかもしれません。ウイルスの専門家ではない彼が、なぜあれほど積極的に情報発信を続けたのでしょうか。それは、科学者としての責任感と、日本社会への思いがあったからです。
彼は「山中伸弥による新型コロナウイルス情報発信」というウェブサイトを立ち上げ、複雑な科学的な情報を一般の人々に分かりやすく伝え続けました。政府の専門家会議での活動、テレビや新聞での解説、そして特に印象的だったのは研究費を集めるための募金活動でした。ノーベル賞受賞者という立場にありながら、自ら街頭に立ち、日本の研究環境の厳しさを訴えました。
この姿は多くの人の心に響きました。彼は優秀な研究者というだけでなく、日本の科学技術の未来を考える人物であることを示していました。研究費不足に悩む日本の現状を心配し、自分の知名度を使って社会に問題を訴えかける姿には、科学者としての責任感が表れていました。
「塞翁が馬」─人生の奥深さを語る言葉
山中教授が近畿大学の卒業式で語った言葉が心に残ります。自分の人生を振り返りながら、彼は「塞翁が馬」という古い中国の教えを引用したのです。
これは興味深い選択でした。世界的な成功を収めた人物が、なぜこの教えを選んだのでしょうか。それは彼の人生が、予想できない変化に満ちていたからだと思います。
「塞翁が馬」は、目先の良し悪しに振り回されず、長期的な視点で物事を見ることの大切さを教えています。これほど現代に必要な考え方はないかもしれません。SNSで情報が瞬時に広がり、短期的な結果ばかりが重視される今の時代だからこそ、この古典的な知恵は価値があります。
山中教授の人生は、この教えを体現しています。もし研修医として順調に進んでいたら、iPS細胞の発見はなかったでしょう。もし最初から研究がうまくいっていたら、あの粘り強い探究心は生まれなかったかもしれません。困難や挫折こそが、彼を真の発見者にしたのです。
科学者という役割の意味
山中教授を見ていると、科学者という職業の本当の意味が見えてきます。それは単に研究をする人ではなく、人類全体の未来に責任を持つ存在だということです。彼がコロナ禍で見せた社会への貢献は、まさにそれを表していました。
現代の技術は、人類の発展を大きく加速させる力を持っています。しかし同時に、その力を正しい方向に向けるためには、山中教授のような科学者の存在が欠かせません。技術の進歩と人間らしさのバランスを保ちながら、社会全体のことを考える視点。それこそが、真の科学者に求められることなのだと思います。
未来への思い
山中教授が私たちに教えてくれたのは、一つの成功にとらわれない生き方の大切さでした。iPS細胞という大きな成果を上げた後も、彼は新しいことに挑戦し続けています。老化の研究、若い研究者の育成、科学政策への提言。その姿勢には、「塞翁が馬」の精神が生きています。
私たちも、目の前の困難や成功に振り回されることなく、長い目で自分の進むべき道を考える必要があります。技術が急速に発展する現代だからこそ、山中教授が示してくれた「人間としての軸」を大切にする姿勢から学ぶことは多いはずです。
今日という日に、一人の優れた科学者の誕生を祝うとともに、彼が教えてくれた人生の知恵を心に留めておきたいと思います。成功も失敗も、すべては人生という大きな流れの一部です。そして大切なのは、その流れを通じて、どれだけ多くの人の幸せに貢献できるかということなのでしょう。
塞翁が馬。この言葉に込められた意味を、山中伸弥教授は自らの人生で示し続けています。
【編集部後記】
宮沢賢治はかつて「銀河鉄道の夜」の中でこう書きました。「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから。」
山中教授の人生を振り返るとき、この賢治の言葉が重なって見えます。研修医時代の挫折も、アメリカでの苦労も、すべてが正しい道を歩む中での出来事だったのでしょう。峠の上りも下りも、それぞれに意味があったと私は思います。
コロナ禍で街頭に立って募金を呼びかける姿、近畿大学で語った「塞翁が馬」の言葉。これらすべてが、人生の峠道を歩み続ける一人の人間の姿として、国と科学に奉仕する彼の姿に、私はカンパネルラの姿を重ねてしまいます。