国立衛生研究所(NIH)は2025年9月25日、動物実験の標準化された代替手法を開発する8700万ドルのプロジェクトを発表した。
メリーランド州のフレデリック国立がん研究所内に標準化オルガノイドモデリングセンターを設置し、人間の臓器の構造と機能を模倣する実験室培養3D組織モデルを開発、テスト、全国展開する。資金提供期間は3年間で、成功すれば民間産業または別の政府機関への移管を計画している。
NIH長官ジェイ・バタチャリヤと保健長官ロバート・F・ケネディ・ジュニアが支持し、プログラム調整担当代行ディレクターのニコール・クラインストロイアーが監督する。同センターは肝臓、肺、心臓、腸のモデルを研究し、スタンフォード大学、ジョンズ・ホプキンス大学、メリーランド大学などと連携する。食品医薬品局(FDA)と協力し、新薬申請に使用可能な前臨床試験基準を満たすモデル開発を目指す。
From: NIH’s $87 million nonanimal testing project – POLITICO
【編集部解説】
このプロジェクトの背景には、科学界が長年抱えてきた「再現性の危機」という深刻な問題があります。NIH長官のジェイ・バタチャリヤ氏は、研究結果が他の研究者によって再現できないという問題を解決するため、標準化されたモデルの開発を重視しています。
実際、2013年から2020年に実施された大規模な再現性プロジェクトでは、53本の影響力の高いがん研究論文から193の実験を再現しようとしましたが、実際に再現できたのはわずか50実験(23論文分)にとどまりました。再現できた実験のうち、46%のみが複数の評価基準を満たす結果となっています。
オルガノイドとは、幹細胞から培養した3D組織モデルで、人間の臓器の構造と機能を模倣します。従来の2D細胞培養や動物実験と異なり、人体の複雑性をより正確に再現できるため、創薬における効果と毒性の評価精度が大幅に向上します。
注目すべきは、FDAが2025年に発表した動物実験削減への取り組みとの連携です。FDAは単クローン抗体から段階的に動物実験を削減し、AIベースの計算モデルやオルガノイドなどの新しいアプローチ手法(NAMs)への移行を推進しています。
しかし、課題も存在します。オルガノイドは栄養拡散の限界から成長に上限があり、一定サイズを超えると壊死が発生します。また、研究機関によってモデルが大きく異なるため、標準化が不可欠です。まさにこの標準化こそが、今回のプロジェクトの核心といえます。
3年間で肝臓、肺、心臓、腸のモデルを完全に特性評価し、全国の研究者が注文できる「既製品」として展開する計画は画期的です。これにより、研究者は複雑な生物学を習得せずとも、信頼性の高い人体関連モデルで実験を開始できるようになります。
倫理的側面も重要です。動物実験の削減は、研究開発コストと最終的な薬価の低減にもつながります。ケネディ保健長官の支持も、この技術の政治的な推進力を示しています。
ただし、神経学など動物モデルに依存する分野の研究者からの反発も予想されます。プロジェクトリーダーは「動物モデルを排除するのではなく補完する」と強調していますが、長期的には研究手法の大きなパラダイムシフトが起こる可能性があります。
【用語解説】
オルガノイド
幹細胞から培養された小型の3D組織モデルで、人間の臓器の構造と機能を模倣する。従来の2D細胞培養よりも生体内の複雑性を再現でき、創薬における毒性評価や疾患モデリングに活用される。
NAMs(New Approach Methodologies / 新アプローチ手法)
従来の動物実験に代わる新しい試験方法の総称である。AIベースの計算モデル、オルガノイド、臓器チップなど、人体への影響をより正確に予測できる手法が含まれる。
再現性の危機
科学研究において、他の研究者が同じ実験を行っても同じ結果が得られないという問題である。2013-2020年のプロジェクトでは、53のがん研究論文から193実験の再現を試みたが、実際に再現できたのは50実験のみで、そのうち46%が評価基準を満たした。
FFRDC(Federally Funded Research and Development Center)
連邦政府が資金提供し、民間企業が運営する研究開発センターである。公的資金と民間の運営効率を組み合わせたモデルで、ローレンス・リバモア国立研究所などが該当する。
前臨床試験
新薬が人間に投与される前に行われる安全性と有効性の評価段階である。従来は動物実験が主流だったが、オルガノイドなどの代替手法への移行が進んでいる。
【参考リンク】
Frederick National Laboratory for Cancer Research(外部)
メリーランド州に位置する米国唯一の生物医学研究専門の国立研究所。NIH国立がん研究所の支援を受け、がん、HIV/AIDS、感染症の研究を実施
FDA – New Approach Methods (NAMs)(外部)
FDAによる動物実験代替手法に関する公式情報ページ。規制当局が認める新しいテスト手法の開発と実装について解説
FDA – Implementing Alternative Methods(外部)
FDAの新代替手法プログラムに関する公式ページ。動物実験の置き換え、削減、改善を推進し、規制承認に向けたガイドラインを提供
NIH – Enhancing Reproducibility through Rigor and Transparency(外部)
NIHによる研究の再現性向上に関する公式ポリシーページ。厳密性と透明性を通じて科学研究の質を高める取り組みを説明
【参考記事】
NIH establishes nation’s first dedicated organoid development center(外部)
NIHの公式プレスリリース。標準化オルガノイドモデリングセンターの設立、8700万ドルの3年間契約、AI・ロボティクス活用による標準化プロトコル確立計画を詳述
Challenges for assessing replicability in preclinical cancer biology(外部)
2013-2020年の再現性プロジェクト報告。53のがん研究論文から193実験の再現を試みたが、実際に再現できたのは50実験のみ。詳細情報不足が主な障壁
Dozens of major cancer studies can’t be replicated(外部)
再現プロジェクトの詳細分析。実施できた50実験のうち効果量は元の研究より平均85%低下。5つの評価基準のうち46%のみが基準の過半数を満たした
2025 Trends: Organoids(外部)
オルガノイド技術の現状と課題を解説。栄養拡散の限界による成長上限、標準化の必要性、研究者が既製品として使用できる可能性について言及
FDA Announces Plan to Phase Out Animal Testing Requirement(外部)
FDAが単クローン抗体などの医薬品開発における動物実験要件を段階的に廃止する計画を発表。NAMs活用、AI計算モデル、オルガノイド等への移行を推進
Fostering Replicability in Preclinical Research(外部)
前臨床研究における再現性危機を解説。標準化の過度な実施、研究デザインの欠陥、環境的不一致などが創薬プロセス全体の信頼性を損なっていると指摘
NIH, FDA plan to reduce animal testing draws mixed reactions(外部)
NIHとFDAによる動物実験削減計画に対する科学界の賛否両論を報告。標準化の重要性と神経学など動物モデル依存分野からの懸念について分析
【編集部後記】
動物実験の代替技術は倫理的な側面だけでなく、種間差による創薬の失敗を減らし、開発成功率を高める可能性を秘めています。ただ、標準化が進む一方で、オルガノイドにも栄養拡散の限界や複雑な神経系の再現困難など課題は残ります。
この技術がどこまで動物実験を代替できるのか、あるいは補完的な役割にとどまるのか。みなさんはどのように考えますか?イノベーションと倫理、科学の信頼性が交差するこの分野の展開を、一緒に見守っていきたいと思います。