スイスEmpaの研究チームは、チューリッヒ大学、チューリッヒ動物病院、オランダのラドバウド大学と共同で、3Dプリンティング技術を使用した透明で生体適合性のある角膜インプラントを開発している。
角膜は500~600マイクロメートルの薄さの組織で、損傷すると視力喪失を引き起こす。現在、ドナー組織の不足により世界中で年間約10万件の角膜移植しか行われていない。研究チームはコラーゲンとヒアルロン酸で構成されたハイドロゲル製の自己接着性人工角膜を開発し、3D押出バイオプリンティングで各患者の目に合わせて形状と曲率をカスタマイズする。
インプラントには目からの幹細胞を播種でき、組織再生をサポートする。自己接着設計により外科的縫合が不要となり、術後合併症のリスクが軽減される。EmpaのBiointerfaces LabのMarkus Rottmarは、ドナー組織に依存しない角膜治療の変革の可能性を指摘している。
From: Swiss Scientists Use 3D Printing to Create Personalized Corneas
【編集部解説】
3Dバイオプリンティング技術が、再生医療の中でも最も待ち望まれていた分野の一つに到達しつつあります。角膜移植は世界で最も成功率の高い臓器移植とされていますが、ドナー不足という根本的な課題を抱えていました。JAMA Ophthalmologyが行った2016年の調査によると、角膜移植を必要としている患者は世界で1,270万人に上るとも言われており、年間約10万件という移植件数では需要の1%未満しか満たせていないのが現状です。
3Dプリント角膜の開発はこれまでにも行われてきましたが、今回のEmpaチームの研究で特に注目すべきは、単なる人工角膜の開発ではなく、「患者固有の眼球形状に合わせたカスタマイズ性」と「縫合を不要にする自己接着性」を両立させた点にあります。
今回のEmpaチームの研究で注目すべきは、単なる人工角膜の開発ではなく、患者固有の眼球形状に合わせたカスタマイズが可能という点にあります。3D押出バイオプリンティングという技術により、各患者の角膜曲率を正確に再現できるため、従来の一律規格品では難しかった高精度なフィット感が実現できます。
さらに革新的なのは、自己接着性という特性です。従来の角膜移植では縫合が必要で、これが術後の乱視や感染症の原因となっていました。縫合不要という設計は、手術時間の短縮だけでなく、患者の回復期間を大幅に短縮する可能性を秘めています。
幹細胞を播種できる構造も重要なポイントです。単なる人工物としての機能だけでなく、患者自身の組織再生を促進する「生きたインプラント」として機能する可能性があります。これは一時的な代替物ではなく、長期的に体内で機能し続ける恒久的な解決策を意味しています。
ただし、臨床応用までにはまだいくつかのハードルがあります。長期的な生体適合性の検証、免疫反応の管理、そして大量生産体制の確立などが課題として残されています。また、コスト面でも現段階では従来の移植と比較してどの程度の価格になるかは不透明です。
それでも、この技術が実用化されれば、ドナー待機という時間的制約から患者を解放し、より多くの人々に視力回復の機会を提供できるでしょう。精密医療の新たなベンチマークとして、今後の展開が注目されます。
【用語解説】
3D押出バイオプリンティング
生体適合性のある素材を細いノズルから押し出しながら、層を重ねて立体構造を造形する技術。細胞や生体材料を含むバイオインクを使用し、生きた組織や臓器の構造を再現できる。温度や圧力を精密に制御することで、細胞を損傷せずに複雑な形状を作り出せる点が特徴である。
ハイドロゲル
水分を大量に保持できるゲル状の高分子材料。生体組織に近い柔軟性と透明性を持ち、酸素や栄養素の透過性も高い。医療分野ではコンタクトレンズや創傷被覆材、ドラッグデリバリーシステムなどに広く使用されている。
ヒアルロン酸
体内に存在する天然の多糖類で、優れた保水性と生体適合性を持つ。眼球では硝子体や角膜に多く含まれ、組織の潤滑や保護の役割を果たす。医療用途では関節注射や美容医療、眼科手術の補助材料として使用される。
角膜移植(角膜移植術)
損傷または病変のある角膜をドナーの健康な角膜と置き換える外科手術。全層移植と部分移植があり、成功率は90%以上と臓器移植の中でも高い。ただし、ドナー不足が世界的な課題となっている。
幹細胞播種
人工的に作られた足場材料に幹細胞を植え付ける技術。幹細胞は様々な細胞に分化する能力を持つため、組織再生を促進する。この技術により、人工材料が単なる代替物ではなく、生きた組織として機能する可能性が生まれる。
【参考リンク】
Empa(スイス連邦材料試験研究所)(外部)
スイスの材料科学・技術研究機関。持続可能な開発、エネルギー、健康、環境保護の分野で応用研究を行う。
チューリッヒ大学(University of Zurich)(外部)
1833年設立のスイス最大の大学。医学部は欧州でもトップクラスの研究機関として再生医療分野で実績を持つ。
ラドバウド大学(Radboud University)(外部)
オランダのナイメーヘンに位置する総合大学。幹細胞研究と再生医療の分野で国際的な評価を得ている。
3Dnatives(外部)
3Dプリンティング技術に特化した国際的な専門メディア。産業用途から医療、建築まで幅広い分野の最新情報を発信。
【参考記事】
Corneal Blindness: A Global Health Challenge(外部)
WHO公式ファクトシート。世界の視覚障害の現状と角膜疾患の統計データ、ドナー不足の深刻性を指摘。
Developing a transparent artificial cornea for people with visual impairments
Download PDF Copy(外部)
角膜損傷に苦しむ人が何百万人もいることや、そのうち移植を受けられる人が10万人程度しかいない現実について報道。
Global Survey of Corneal Transplantation and Eye Banking(外部)
JAMA Ophthalmologyが2016年に行った、角膜移植が必要な患者や、ドナー登録数などの調査結果。
【編集部後記】
3Dプリンティングが、ついに「見える」という人間の根源的な能力を取り戻す技術にまで到達しました。ドナーを待ち続ける時間から解放され、一人ひとりの目の形に合わせた角膜が手に入る未来。
そこには、医療が「待つもの」から「創るもの」へと変わる大きな転換点が見えてきます。みなさんは、この技術が実用化されたとき、医療のどんな分野に次の革新が訪れると思いますか?角膜の次に3Dプリンティングで実現してほしい臓器や組織があれば、ぜひSNSで聞かせてください。