小玉新太郎は鰹節から一つの物質を取り出すことに成功しました。イノシン酸。師である池田菊苗が5年前に昆布から発見したグルタミン酸に続く、第二のうま味成分でした。
池田は1908年、昆布だしの主成分がグルタミン酸であることを突き止め、それを「うま味」と名付けました。甘味、酸味、塩味、苦味に続く、第五の味覚として。そして小玉の発見は、その理論をさらに前進させるものでした。
しかし、この二人の科学者は、まだ知りませんでした。彼らが発見した二つのうま味成分を組み合わせたとき、何が起こるのかを。
江戸の料理人が知っていたこと
昆布と鰹節の合わせ出汁。
江戸時代には既に、日本料理の基本として確立していた技法です。京都に運ばれた北海道の昆布と、土佐や薩摩、伊豆から届く鰹節。二つを一緒に煮出すと、どちらか一方だけでは得られない、深く豊かな味わいが生まれます。料理人たちはそれを知っていました。理由は分からなくても、経験が教えてくれたのです。
鰹節そのものも、長い試行錯誤の産物でした。江戸時代前期、紀州の漁師が木を使った燻乾法を考案し、固く長持ちする「荒節」が生まれました。土佐に伝わった技術はさらに進化します。輸送中にカビが生えてしまう問題を逆手に取り、良質なカビを意図的に付ける技術へと昇華させたのです。
伊豆田子では、約300年前に独自の「手火山式焙乾法」を確立しました。カビ付けと天日干しを何度も繰り返し、約半年かけて完成させる本枯節が誕生します。カビが鰹節の脂肪分を分解し、水分を吸い出し、うま味成分を増す。職人たちは顕微鏡も化学分析もない時代に、発酵という現象を制御する術を編み出していたのです。
7倍の理由
1955年。ヤマサ醤油の国中明が、うま味の相乗効果を科学的に証明しました。
グルタミン酸とイノシン酸を1:1の比率で組み合わせると、それぞれを単独で使った場合と比べて、うま味が7〜8倍に増幅されます。受容体レベルで何が起きているのかも、後に明らかになりました。イノシン酸が味蕾のうま味受容体に結合すると、グルタミン酸が安定して留まる構造が形成されます。分子が協働して、より強いシグナルを脳に送るのです。
小玉新太郎が鰹節からイノシン酸を発見してから、42年後のことでした。
日本だけではありません。西洋料理では香味野菜(グルタミン酸)と肉(イノシン酸)を煮込んでブイヨンを作ります。中国料理では長ネギや生姜と鶏肉を合わせて湯(タン)を取ります。世界中の料理人が、科学が名前をつけるずっと前から、この法則を知っていました。いや、「知っていた」というより、舌が感じ取っていたのです。
科学が名前をつける
池田菊苗は、グルタミン酸の発見について「学術上より見れば余の発明は頗る簡単なる事柄なりし」と謙遜しています。実際、グルタミン酸という物質自体は、既にドイツで発見されていました。池田の功績は、それが「うま味」という味覚をもたらす成分だと突き止めたこと。つまり、発明ではなく発見でした。
科学は、真実を「発明」するのではありません。既にそこにある真実に「名前」をつけるのです。
2025年の今、私たちはAIに膨大なデータを学習させ、最適解を導き出そうとしています。しかし江戸時代の料理人が昆布と鰹節を組み合わせたように、人間の経験知には、データが捉えきれない何かがあるのかもしれません。
11月24日は「いい(11)ふし(24)」の語呂合わせから「鰹節の日」です。
鹿児島と静岡で全国生産量の98%を占める鰹節産業。本枯節を作れる職人は減少を続けていますが、伝統製法は今も受け継がれています。約300年前に確立された伊豆田子節の製造店は、かつて40軒あったものの現在は4店。それでも、手火山式焙乾法で作られる本枯節は、今日も誰かの食卓を支えています。
職人の舌が知っていたことを、科学は後から説明しました。この順序は、私たちに何を問いかけるのでしょうか。
【Information】
参考リンク:
用語解説:
グルタミン酸:タンパク質を構成する20種類のアミノ酸の一つ。昆布、トマト、チーズなどに多く含まれる。1908年に池田菊苗が昆布から発見。
イノシン酸:核酸を構成する成分の一つ。鰹節、煮干し、肉類などに多く含まれる。1913年に小玉新太郎が鰹節から発見。
本枯節(ほんかれぶし):荒節の表面を削り、カビ付けと天日干しを4回以上繰り返して熟成させた鰹節。完成まで半年以上かかる。カビが脂肪分を分解し、うま味成分が増す。
うま味の相乗効果:アミノ酸系のうま味成分(グルタミン酸)と核酸系のうま味成分(イノシン酸、グアニル酸)を組み合わせると、うま味が7〜8倍に増幅される現象。1955年に国中明が科学的に証明。
























