キングス・カレッジ・ロンドンの研究者たちは、髪の毛に含まれるケラチンというタンパク質を使用して歯のエナメル質を再生する技術を開発した。
研究チームは羊毛からケラチンを抽出し、人工唾液に配置して実験を行った。ケラチンは唾液中のミネラルと結合して歯のエナメル質のような結晶構造を形成し、虫歯を埋めて保護機能を提供することが判明した。この技術は歯の強度と硬さ(剛性)を天然のエナメル質に近いレベルまで回復させる可能性がある。
研究の筆頭著者であるシェリフ・エルシャルカウィは、バイオテクノロジーによって体自身の材料を使用した生物学的機能の回復が可能になったと述べた。製品は日常用の歯磨き粉またはマニキュアのような臨床用ジェルとして2〜3年以内に市場投入される予定である。
2019年の世界疾病負担調査によると、未治療の齲蝕は約20億人に影響を与えており、歯の腐食は世界で最も一般的な病気の可能性がある。この研究は廃棄物から医療資源を生み出す循環型経済への転換も促進する。
From: Something in Your Hair Could Make The Ultimate Toothpaste
【編集部解説】
この研究が注目される背景には、歯科治療における根本的な課題があります。歯のエナメル質は人体で最も硬い物質でありながら、骨とは異なり一度失われると再生しない特殊な組織です。従来のフッ素は確かにエナメル質の侵食を遅らせることはできますが、失われた部分を回復させることはできませんでした。
今回のキングス・カレッジ・ロンドンの研究チームが開発したケラチンベースの技術は、この不可逆性を覆す可能性を秘めています。ケラチンが人工唾液中でミネラルと結合して結晶構造を形成する過程は、まさに自然なエナメル質の形成プロセスを模倣したものなのです。
注目すべき点は、この技術が従来の歯科治療における環境負荷の軽減にも寄与することです。現在使用される樹脂系充填材料の多くは石油由来のプラスチックで作られており、毒性や生体適合性の問題が指摘されてきました。一方、ケラチンは生体適合性が高く、羊毛や髪の毛といった生物廃棄物から持続可能に調達できるため、サーキュラーエコノミーの実現にも貢献します。
技術的な観点から見ると、研究チームが実現した「階層構造」が重要な鍵となっています。異なる種類のケラチンタンパク質を組み合わせることで、マトリョーシカ人形のような入れ子構造を作り出し、強度と耐久性を格段に向上させました。
ただし、実用化に向けてはいくつかの課題も存在します。さらなる開発と適切な業界パートナーシップが必要で、臨床試験を重ねる必要があります。また、日常使用の歯磨き粉として展開する場合、ケラチンの濃度調整やフレーバー付与などの技術的課題も残されています。
興味深いのは、この技術が予防医学と治療医学の境界を曖昧にする点です。従来の歯磨き粉が予防に特化していたのに対し、ケラチン歯磨き粉は使用しながら既存の微細な損傷を修復する機能を持ちます。これにより、歯科医院での治療頻度を大幅に減らせる可能性があります。
2〜3年という実用化目標は医療技術としては異例の短期間ですが、これはケラチンが既に化粧品や医療分野で使用実績があることも影響しているでしょう。規制当局の承認プロセスも、全く新しい化学物質と比べて迅速に進む可能性があります。
【用語解説】
ケラチン
タンパク質の一種で、哺乳類の毛髪、爪、皮膚、羊毛などに含まれる。アルファケラチンとベータケラチンに分類され、構造的強度を提供する。
象牙質
エナメル質の内側にある歯の組織。エナメル質より軟らかく、薄黄色を呈する。象牙質が露出すると知覚過敏の原因となる。
階層構造
異なるサイズや性質の構造が入れ子状に組み合わさった構造。ケラチン技術では複数のタンパク質を組み合わせて強度を向上させる。
【参考リンク】
キングス・カレッジ・ロンドン(外部)
1829年に設立されたイギリスの名門大学。医学・歯学分野で世界トップクラスの研究機関として知られ、今回の研究を主導している。
【参考動画】
【参考記事】
キングス・カレッジ・ロンドン研究発表ページ(外部)
髪の毛由来歯磨き粉研究の公式発表ページ。研究詳細、実験結果、研究者コメントなどを掲載している。
Toothpaste made from hair could help repair teeth(外部)
BBC報道。ケラチンが唾液中のミネラルと相互作用して天然エナメル質を模倣する保護層を形成し、早期の虫歯進行を止める可能性があると報告。
【編集部後記】
私たちの身の回りには、まだまだ活用されていない「資源」が数多く眠っているのかもしれません。美容室で切り落とされた髪の毛、毛織物工場から出る羊毛の端材、こうした生物廃棄物が実は高価値な医療材料になるという発想の転換に、皆さんはどう感じられますか?
今回のケラチン歯磨き粉の研究は、単なる新技術の開発ではなく、私たちがこれまで「廃棄物」だと思っていたものから、健康を守る製品を生み出すサーキュラーエコノミーの可能性を示しています。このような「廃棄物から価値を生み出す」アイデアは、歯科医療以外の分野でも応用できそうでしょうか?皆さんの日常生活の中で、同じような発想で活用できるものがあるか、ぜひ考えてみてください。