シーダーズ・サイナイの科学者たちは、ヒト幹細胞から作成した「若い」免疫細胞をマウスに投与し、脳の老化とアルツハイマー病の兆候を逆転させることに成功した。
この研究成果はAdvanced Science誌に掲載された。研究チームはヒト人工多能性幹細胞を使用して単核食細胞を生成し、老化マウスとアルツハイマー病モデルマウスに注入した。
治療を受けたマウスは記憶テストで未治療マウスより優れた成績を示し、学習と記憶に重要な海馬内の苔状細胞が増加した。また脳内の免疫細胞であるミクログリアの健康状態も改善された。
若い単核食細胞は脳に直接侵入せず、抗老化タンパク質の放出や血流からの老化促進因子の除去を通じて間接的に脳を保護している可能性がある。
本研究の責任著者(研究全体を監督)はクライブ・スヴェンセン博士、筆頭著者(論文執筆と実験を主導)はアレクサンドラ・モーザー博士です。
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Scientists reversed brain aging and memory loss in mice
【編集部解説】
この研究が画期的なのは、従来の「若い血液の輸血」という実用化の難しいアプローチから、製造可能な細胞治療へと転換した点にあります。人工多能性幹細胞(iPSC)を用いることで、理論上は無制限に「若い」免疫細胞を作り出せるため、個別化医療としての実用性が格段に高まりました。
注目すべきは、投与された単核食細胞が脳に直接侵入していないという点です。血液脳関門を通過せずに効果を発揮するため、安全性の観点から大きなアドバンテージとなります。細胞が血流中で抗老化タンパク質や細胞外小胞を放出するか、あるいは老化促進因子を除去することで、間接的に脳を保護していると考えられています。
海馬の苔状細胞の増加とミクログリアの健康状態の改善という2つの指標は、認知機能の維持において重要な意味を持ちます。特にミクログリアの長い枝状構造が保たれていたことは、脳の免疫システムが適切に機能し続けていることを示唆しています。
この技術の最大の可能性は、パーソナライズされた治療法として展開できる点でしょう。患者自身の細胞から作成できるため、拒絶反応のリスクを最小限に抑えられます。ただし、マウスモデルでの成功が人間にそのまま適用できるとは限りません。人間の脳は遥かに複雑であり、安全性と有効性を確認するための臨床試験には慎重なプロセスが必要です。
また、この研究は短期的な治療効果を示していますが、長期的な効果や繰り返し投与の影響については今後の研究課題となります。製造コストや品質管理の問題も、実用化に向けて解決すべき重要なポイントです。
【用語解説】
人工多能性幹細胞(iPSC)
成人の体細胞を胚性幹細胞のような状態に再プログラムした細胞である。2006年に京都大学の山中伸弥教授らがマウスで、2007年にヒトで作製に成功し、山中教授は2012年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。無限に増殖でき、体内のあらゆる細胞に分化できる能力を持つため、再生医療の分野で大きな期待が寄せられている。
単核食細胞(Mononuclear Phagocytes)
免疫システムの一部を構成する食作用を持つ細胞の総称である。単球やマクロファージなどが含まれ、体内を循環して有害物質を除去する役割を担う。骨髄の前駆細胞から分化し、組織の恒常性維持に重要な機能を果たす。
苔状細胞(Mossy Cells)
海馬の歯状回に存在する興奮性ニューロンである。学習と記憶の形成において重要な役割を担い、新しい環境の記憶形成を調節する機能を持つ。加齢やアルツハイマー病では、この細胞の数が減少することが知られている。
ミクログリア(Microglia)
中枢神経系に存在する特殊な免疫細胞である。脳全体の約5〜10%を占め、損傷した組織や病原体を検出・除去する役割を持つ。健康な状態では長く細い枝状の突起を持ち、脳の監視と保護機能を果たしている。
海馬(Hippocampus)
脳の側頭葉内側に位置する器官である。短期記憶から長期記憶への転換、空間記憶、学習において中心的な役割を果たす。アルツハイマー病では最も早期に影響を受ける領域の一つである。
血液脳関門(Blood-Brain Barrier)
脳の毛細血管を構成する内皮細胞が形成する防御システムである。血液中の有害物質や病原体が脳組織に侵入するのを防ぐ一方で、必要な栄養素や酸素は通過させる選択的な障壁として機能する。
【参考リンク】
Cedars-Sinai Medical Center(外部)
ロサンゼルスに拠点を置く非営利の学術医療センター。再生医療研究で世界的に評価されている。
Advanced Science(Wiley出版)(外部)
材料科学、医学、生命科学などを対象とする学際的科学誌。2022年のインパクトファクターは15.1である。
京都大学iPS細胞研究所(CiRA)(外部)
人工多能性幹細胞研究の世界的拠点。ノーベル賞受賞者の山中伸弥教授が所長を務める。
【参考記事】
‘Young’ Immune Cells Could Treat Alzheimer’s, Aging Symptoms(外部)
シーダーズ・サイナイ公式発表。人工多能性幹細胞から「若い」免疫細胞を作成し、個別化医療として無制限に利用可能であることを強調。
“Young” Immune Cells Reverse Signs of Alzheimer’s and Aging(外部)
Advanced Science誌掲載研究の詳細を報道。従来の若い血液輸血から製造可能な細胞治療へのシフトを解説。
Using Stem Cells to Create Immune Cells to Reverse Brain Aging and Memory(外部)
単核食細胞生成プロセスと、海馬の苔状細胞増加とミクログリアの健康状態改善が記憶力向上に寄与したメカニズムを詳述。
【編集部後記】
この研究が示すのは、老化が「避けられない運命」ではなく「制御できるかもしれないプロセス」へと変わりつつある可能性です。もし自分の細胞から作られた「若い」免疫細胞を定期的に投与することで、記憶力や認知機能を維持できるとしたら、みなさんはどう感じますか?
実用化までにはまだ時間がかかるかもしれませんが、この技術が切り開く未来について、一緒に考えてみませんか。幹細胞研究が私たちの暮らしをどう変えていくのか、これからも注目していきたいですね。























