マサチューセッツ工科大学(MIT)の研究チームは、mRNAワクチンの効力を向上させる新しい脂質ナノ粒子(LNP)を開発した。AMG1541と命名されたこのLNPは、環状アミノアルコール構造とエステル基を持つイオン化可能脂質を用いている。
マウスでのインフルエンザmRNAワクチンの前臨床試験において、AMG1541はFDA承認済みのSM-102脂質と同等の抗体価を誘導したが、必要な投与量は100分の1であった。この新しい粒子は、細胞内のエンドソームからの脱出能力が向上しており、より多くのmRNAが標的部位に到達する。
また、エステル結合により生分解性が高く、体内から迅速に除去されるため副作用の軽減が期待される。AMG1541は抗原提示細胞への送達効率が高く、リンパ節に優先的に蓄積することで免疫応答を増強する。
この研究は2025年11月7日にNature Nanotechnology誌に掲載された。研究資金はサノフィ、米国国立衛生研究所、Marble Center for Cancer Nanomedicineから提供され、主著者にはArnab Rudra、Akash Gupta、Kaelan Reedが名を連ねている。
【編集部解説】
この研究が注目される最大の理由は、mRNAワクチンの「エンドソームの壁」という根本的な課題を克服した点にあります。mRNAワクチンは細胞に取り込まれた後、エンドソームと呼ばれる膜で囲まれた区画に閉じ込められてしまいます。そこから脱出できなければ、せっかくのmRNAは細胞質に到達できず、タンパク質を作ることができません。従来の脂質ナノ粒子は、この脱出効率が低いため、大量投与で補う必要がありました。
AMG1541は環状アミノアルコール構造という特殊な分子設計により、エンドソームからの脱出能力を飛躍的に向上させています。さらに、エステル結合を組み込むことで生分解性を高め、役目を終えた粒子が速やかに体内から排出される仕組みも備えています。この「使い捨て設計」は、ナノ粒子の蓄積による炎症反応を抑え、副作用リスクを低減する可能性があります。
投与量を100分の1に削減できるという数字は、単なるコスト削減以上の意味を持ちます。mRNAワクチンの製造コストの大部分は原材料費であり、特に途上国での普及を阻む大きな障壁となっていました。この技術が実用化されれば、同じ製造設備で100倍の人数に接種可能となり、パンデミック対応の速度と規模が劇的に変わります。
もう一つの重要なポイントは、抗原提示細胞(APC)への送達効率の向上です。APCは免疫応答の司令塔であり、ここにmRNAを効率よく届けることで、より強固で持続的な免疫記憶が形成されます。AMG1541はリンパ節に優先的に集積する性質も持っており、免疫細胞が集まる「戦略拠点」でワクチンが作用する仕組みになっています。
インフルエンザワクチンへの応用は、この技術の実用性を示す好例です。従来の卵培養ベースのワクチンは製造に約1年かかるため、流行株の予測が外れると効果が大幅に低下します。mRNAワクチンなら流行株が確定してから数週間で製造開始でき、AMG1541の低用量化により原材料調達の制約も減らせます。毎年変異するインフルエンザに対して、より正確で迅速な対応が可能になるでしょう。
ただし、マウスでの前臨床試験の結果が人間でも再現されるかは別問題です。種差による薬物動態の違い、免疫系の複雑さ、長期的な安全性など、臨床試験で検証すべき要素は山積みです。特に生分解性を高めた分子設計が、人体でどのような代謝経路をたどるのか、詳細な研究が必要となります。
この技術はインフルエンザだけでなく、COVID-19、HIV、さらにはがん治療用のmRNA医薬品にも応用可能とされています。ワクチン開発における「プラットフォーム技術」として確立すれば、次のパンデミックへの備えとしても機能するでしょう。Nature Nanotechnology誌への掲載は、査読を経た科学的信頼性の証でもあります。
【用語解説】
脂質ナノ粒子(LNP)
mRNAを細胞内に届けるための微小なカプセル。脂質(油性の分子)で構成され、直径は約100ナノメートル。mRNAは単体では不安定で細胞膜を通過できないため、LNPで包むことで保護し、細胞内への送達を可能にする。COVID-19ワクチンにも使用されている。
エンドソーム
細胞が外部から物質を取り込む際に形成される、膜で囲まれた袋状の構造。LNPはまずエンドソーム内に取り込まれるが、そこから脱出して細胞質に到達しなければmRNAは機能しない。エンドソームからの脱出効率がmRNAワクチンの効果を左右する重要な要素である。
抗原提示細胞(APC)
免疫系において中心的な役割を果たす細胞群。病原体由来の抗原を取り込み、その情報をT細胞などの免疫細胞に提示することで、免疫応答を開始させる。樹状細胞、マクロファージ、B細胞などが含まれる。
イオン化可能脂質
pH(酸性度)によって電荷が変化する脂質。中性環境では電荷を持たず、酸性環境では正電荷を帯びる性質を持つ。この特性により、エンドソーム内の酸性環境でエンドソーム膜を不安定化させ、mRNAの脱出を助ける。
SM-102
FDA(米国食品医薬品局)が承認したイオン化可能脂質で、モデルナ社のCOVID-19ワクチン(スパイクバックス)に使用されている。現在のmRNAワクチン技術の標準的な脂質成分の一つである。
Nature Nanotechnology
ナノテクノロジー分野における世界最高峰の学術誌の一つ。2022年のインパクトファクターは38.3と非常に高く、査読プロセスが厳格なことで知られる。ネイチャー・パブリッシング・グループが発行している。
【参考リンク】
MIT Koch Institute for Integrative Cancer Research(外部)
MITの癌研究機関で生物学者とエンジニアが協働する学際的研究センター。本研究の主導機関として50以上の研究室を擁する。
Nature Nanotechnology(外部)
ネイチャー・パブリッシング・グループが発行する月刊査読誌。本研究論文が2025年11月7日に掲載された。
【参考記事】
Novel LNP Delivers Influenza mRNA Vaccine at 100-Fold Lower Dose(外部)
バイオテクノロジー専門メディアGENによる技術解説。環状アミノアルコール構造の機能とリンパ節への蓄積を分析。
【編集部後記】
ワクチンの投与量が100分の1になるという数字を目にしたとき、皆さんはどんなことを想像されましたか?単なるコスト削減だけでなく、副作用の軽減や、次のパンデミックが起きたときにより多くの人へ迅速にワクチンが届けられる可能性にもつながります。
mRNAワクチンは「設計図を書き換える」ように柔軟な技術ですが、その効率を左右するのは実は「運び屋」である脂質ナノ粒子の性能でした。今回の研究は、その運び屋の改良によって医療アクセスの格差を縮められるかもしれない、という希望を感じさせてくれます。皆さんはどのような未来を想像されるでしょうか。

























