2020年8月28日。その日、一頭の豚がテクノロジー史の新たなページを開いた。イーロン・マスク氏率いるNeuralink社が、脳にチップを埋め込まれた豚「ガートルード」の神経活動をリアルタイムでスクリーンに映し出したのだ。
あれから5年。SFの世界の出来事だった「思考のインターフェース」は、今や世界中の企業、そして国家が覇権を争う巨大な技術潮流となった。
あの日を起点に、人類と脳の関係はどう変わり、未来はどこへ向かうのか。Neuralinkの現在地、世界のライバルたち、そして我が国・日本の挑戦を織り交ぜながら、その全貌を解き明かす。
第一章:ガートルードが灯した「希望」という名の信号
5年前のデモンストレーションは、今見ても鮮烈だ。ガートルードが鼻で藁をつつくと、それに呼応して彼女の脳内のニューロンが発火し、ワイヤレスで送信された信号が音と映像に変換されていく。それは、完全埋め込み・ワイヤレスのインプラントが生体の公開デモで“製品級”の完成度を見せた、BCIの転調点だった。
マスク氏が語ったビジョンは、まず医療への応用だった。脊髄損傷による麻痺、視覚や聴覚の喪失。脳からの指令が身体に届かないのなら、その指令を直接読み取り、機械を動かせばいい。失われた感覚は、カメラやマイクからの情報を直接、脳に書き込めばいい。

そのビジョンは着実に現実となりつつある。2024年初頭、Neuralinkはついに最初のヒト被験者へのチップ埋め込みに成功。その人物が思考だけでチェスをプレイする映像は、ガートルードの衝撃を凌駕するリアリティをもって世界に配信された。かつての「実演」は、今や「実用」のフェーズへと移行し始めているのだ。
第二章:覇権を争う世界のプレイヤーたち
Neuralinkが華々しい注目を集める一方で、水面下では熾烈な開発競争が繰り広げられている。特に、より安全で身体への負担が少ないアプローチを目指す企業が、規制当局の承認プロセスでは先行している。
Synchron(シンクロン)はその筆頭だ。開頭手術を必要とせず、首の血管からカテーテルでデバイスを脳血管に留置する彼らの「ステントロード」技術は、すでに複数の患者への臨床試験が進んでいる。Neuralinkが脳に直接「刺す」アプローチなら、Synchronは血管から「寄り添う」アプローチだ。
古参のBlackrock Neurotech(ブラックロック・ニューロテック)は、20年以上にわたる研究用の人体への応用実績を武器に、在宅で利用可能なシステムの承認を目指す。さらに、Neuralinkの元共同創業者が設立したPrecision Neuroscience(プレシジョン・ニューロサイエンス)は、脳の表面にフィルム状の電極を「貼り付ける」低侵襲な手法で、安全性を重視する医療現場からの支持を集めている。
国家レベルでの競争も激化している。中国は国家戦略としてBCI開発に巨額の投資を行い、清華大学などの研究機関から生まれたスタートアップが次々と臨床試験成功の報を発信している。その開発スピードは、米国にとって無視できない脅威となりつつある。
一方、欧州は「ヒューマン・ブレイン・プロジェクト」に代表されるように、個別の製品開発競争よりも、脳そのものを理解するための基礎研究と、倫理的・社会的課題(ELSI)への議論を重視するアプローチを続けている。
第三章:課題先進国・日本の「静かなる革命」
では、我が国・日本の現在地はどうだろうか。
日本のBCI戦略は、派手な発表こそ少ないが、世界が直面する未来の課題を先取りする、極めて重要なミッションを担っている。そのキーワードは「医療・福祉」と「超高齢社会への適応」だ。
国家プロジェクト「Brain/MINDS」がマーモセットの脳地図作成を通じて脳機能の根源的な理解を目指す一方で、大阪大学や国際電気通信基礎技術研究所(ATR)、理化学研究所といったトップランナーたちは、より実用的な応用研究で世界をリードしている。
彼らの研究の多くは、頭皮の上から脳波を測る「非侵襲型」や、脳を傷つけない「低侵襲型」が中心だ。これは、脳卒中後のリハビリテーション、ALS患者のコミュニケーション支援、介護現場での身体的負担の軽減など、具体的な社会課題の解決を最優先に据えているからに他ならない。
日産自動車が研究する、ドライバーの脳波から運転操作を予測する「Brain-to-Vehicle」技術のように、産業応用も視野に入る。日本のアプローチは、人間性を拡張する「サイボーグ」への道ではなく、テクノロジーで人間の尊厳と生活の質を支えるという、静かだが必要不可欠な革命と言えるだろう。
最終章:私たちは「人間」の何を拡張するのか
Neuralinkの登場から5年。BCI技術は、もはや単なる医療技術の枠を超え、社会のあり方、そして「人間とは何か」という根源的な問いを私たちに突きつけている。
失われた機能を取り戻す「治療」と、健常な能力を向上させる「拡張」の境界はどこにあるのか。思考や記憶がデータ化される社会で、プライバシーはどう守られるのか。経済力によって「思考能力」に格差が生まれる未来を、私たちは許容できるのか。
ガートルードの脳から発せられた小さな電気信号は、今や人類全体の未来を左右する大きなうねりとなった。その光と影の両面を直視し、技術と倫理のバランスをどう取っていくのか。未来への扉を開ける鍵は、シリコンバレーの天才たちだけでなく、社会に生きる私たち一人ひとりの手の中にある。
【Information】
Neuralink(外部)
イーロン・マスク氏が率いる米国のニューロテクノロジー企業。脳に直接電極を埋め込む侵襲型BCI「Telepathy」などを開発し、医療応用から人類の能力拡張までを視野に入れています。
Synchron(外部)
開頭手術を必要としない血管内留置型BCI「ステントロード」を開発する米国企業。規制当局の承認プロセスにおいてNeuralinkをリードしており、より低侵襲なアプローチで注目されています。
Blackrock Neurotech(外部)
BCI分野で20年近い研究実績を持つ米国のパイオニア企業。「ユタアレイ」と呼ばれる電極は、世界中の研究機関で利用され、麻痺患者がロボットアームを操作するなどの成果を上げています。
Brain/MINDS(革新的技術による脳機能ネットワークの全容解明プロジェクト)(外部)
日本の脳科学研究を牽引する国家プロジェクト。マーモセット(小型のサル)の脳の神経回路を完全に解明することを目指し、将来の高度なBCI開発や精神・神経疾患の克服に不可欠な基礎知識の構築を進めています。