ゲッティンゲンのドイツ霊長類センター(DPZ)で実施された研究により、脳コンピュータインターフェース(BCI)を通じた運動学習時の神経適応メカニズムが明らかになった。
研究チームはアカゲザルを対象に、前頭皮質と頭頂皮質から神経活動を記録しながら、純粋な思考で三次元空間のコンピュータカーソルを操作させる実験を行った。従来、前頭皮質は運動指令、頭頂皮質は感覚予測を担当すると考えられていたが、本研究は両領域が適応された運動指令を共同でエンコードすることを発見した。
脳は新しい神経接続の構築を必要とせず、既存の運動戦略を再利用することで新しい制御方法に適応する。
Enrico Ferreaと、DPZ感覚運動研究グループ責任者のAlexander Gailは、この発見が神経補綴装置の設計改善と麻痺患者のリハビリテーションプロトコル最適化に貢献すると指摘する。論文は2025年9月29日に公開された。
From: Mind-Driven Control: Harnessing Thought Power to Operate Prosthetic Limbs
【編集部解説】
思考で義手を操る——。かつてはSFの中だけの夢物語でしたが、BCI技術の進展により、この夢は着実に現実へと近づいています。今回のDPZの研究は、その実現に向けた基礎科学として重要な意味を持ちます。
この研究が明らかにしたのは、脳が新しい動作制御方法を学習する際の「適応メカニズム」です。従来、前頭皮質は運動指令を、頭頂皮質は感覚フィードバックを担当すると考えられてきました。しかし本研究は、両領域が協働して適応された運動指令をエンコードすることを発見しました。これは脳の機能分化に関する従来の理解を覆す知見です。
さらに注目すべきは、脳が新しい制御方法を習得する際、新たな神経回路を構築する必要がないという点です。脳は既存の運動戦略を「再利用」することで、効率的に新しいタスクに適応します。これは、BCIユーザーが従来考えられていたよりも短期間で装置を使いこなせる可能性を示唆しています。
実験では、アカゲザルに純粋な思考だけで三次元空間のカーソルを操作させました。研究チームは意図的にカーソルの動きにズレを生じさせることで、脳がどのようにエラーを修正し適応するかを観察しました。結果、脳は予測と実際の動きの不一致を検知し、運動指令を柔軟に調整することが明らかになりました。
この発見が重要なのは、より直感的な神経補綴装置の開発につながるからです。2025年8月には、UC Davisの研究チームが97%の精度で脳信号を音声に変換するBCIを発表し、80ミリ秒という驚異的な速度で思考を言葉に変換できるようになりました。シカゴ大学の研究では、触覚フィードバック付きの義手が開発され、ユーザーは物体の形状や動きを「感じる」ことができるようになっています。
しかし実用化への道のりはまだ長いのが現実です。これまでに世界中でBCIを長期間使用した人数はわずか100人未満。現在25以上の臨床試験が進行中ですが、これらの技術が広く利用可能になるには、さらなる安全性の検証と技術改良が必要です。
DPZの研究は、こうした応用技術の土台となる基礎科学です。脳がどのように運動を学習し適応するかを理解することで、より効果的なリハビリテーションプロトコルの開発や、ユーザーフレンドリーなBCIの設計が可能になります。麻痺やALSなどの神経運動障害を持つ患者にとって、失われた機能を取り戻す希望の光となるでしょう。
【用語解説】
脳コンピュータインターフェース(BCI)
脳の神経活動を記録し、その信号をコンピュータで解読して外部デバイスを制御する技術である。電極を脳に埋め込む侵襲型と、頭皮上から計測する非侵襲型がある。
神経補綴(neuroprosthetics)
病気や事故などで失った神経系の機能を回復させること。
前頭皮質
大脳の前方に位置する領域で、運動の計画や実行、意思決定などの高次脳機能を担う。本研究では特に運動前野(PMd)と一次運動野(M1)が調査対象となった。
頭頂皮質
大脳の頭頂部に位置し、感覚情報の統合や空間認識を担当する領域である。本研究では到達計画領域(PRR)が注目された。従来は感覚フィードバックの処理が主な役割と考えられていたが、本研究により運動指令の修正にも積極的に関与することが明らかになった。
神経可塑性
脳が経験や学習により構造や機能を変化させる能力である。本研究では、既存の神経ネットワークを保ちながら運動指令を再構成する柔軟性が示された。
アカゲザル
霊長類の一種で、神経科学研究において重要なモデル動物である。運動皮質の構造が人間と類似しているため、本研究の知見は臨床応用に転換しやすい。
運動学習
新しい運動スキルを獲得したり、既存のスキルを環境変化に適応させたりするプロセスである。エラーの検出と修正が中心的な役割を果たす。
【参考リンク】
German Primate Center (DPZ)(外部)
1977年設立のドイツ霊長類センター公式サイト。霊長類研究の国際的な拠点として、神経科学や感染症研究を推進している。
PLOS Biology(外部)
オープンアクセスの査読付き科学誌。生物学全般の高品質な研究を掲載し、本研究論文も2025年9月29日に公開された。
Sensorimotor Neuroscience and Neuroprosthetics Group(外部)
Alexander Gail教授が率いるゲッティンゲン大学の研究グループ。BCIや神経補綴装置の基礎研究を行っている。
【参考記事】
Towards prostheses controlled by the power of thought: Virtual tasks reveal how the brain recalibrates movements(外部)
DPZが発表した本研究のプレスリリース。Alexander Gail教授のコメントを含む研究概要が掲載されている。
German Researchers Identify Neural Adaptations in Primates Using Brain-Computer Interfaces for Virtual Movement Control(外部)
本研究を報じるGeneOnline Newsの記事。霊長類がBCIを使用する際の神経適応に焦点を当てている。
Brain-computer interface restores natural speech after paralysis(外部)
NIHが報じた音声合成BCIの研究。80ミリ秒で脳活動を音声に変換し、自然な会話を実現する技術を紹介。
Brain-computer interface study wins 2025 Top Ten Clinical Research Achievement Award(外部)
UC Davisの研究チームが開発した97%の精度で脳信号を音声に変換するBCIが、臨床研究賞を受賞した。
Fine-tuned brain-computer interface makes prosthetic limbs feel more real(外部)
シカゴ大学の研究チームが開発した触覚フィードバック付き義手の研究。Science誌とNature誌に掲載された。
Brain-computer interfaces face a critical test(外部)
MIT Technology ReviewがBCIを2025年の11番目の画期的技術として選出。現在25以上の臨床試験が進行中と報告。
A roundup of five recent neurotechnology trends(外部)
2025年の神経技術トレンドをまとめた記事。運動制御と感覚フィードバックの両方を実現したBCI技術を紹介。
【編集部後記】
思考だけで機械を操る未来が、もはや遠い夢ではないことを実感させられます。今回の研究が示したのは、脳が驚くほど柔軟に新しい制御方法に適応できるという事実です。私たちが日常的に行っている「学習」という行為の神経メカニズムが、こうして一つひとつ解明されていく過程は、知的興奮に満ちています。BCIがいつか日常の選択肢になる日、あなたはどんな使い方を想像しますか?麻痺した方々の希望となるだけでなく、人間の能力拡張という新たな地平も見えてきます。この技術が社会にもたらす変化について、一緒に考えていきましょう。