三井物産株式会社、QSimulate、Quantinuumは、量子統合化学プラットフォーム「QIDO(Quantum-Integrated Discovery Orchestrator)」を2025年8月19日に発表した。QIDOは、QSimulateの「QSP Reaction」とQuantinuumの「InQuanto」を統合し、古典計算と量子計算を組み合わせて新薬や新素材の開発における化学反応モデリングの高精度化と効率化を図る。プラットフォームは、反応座標や遷移状態の自動特定、ハミルトニアンへのマッピング、量子回路や必要資源の可視化、量子ハードウェアによるエネルギー計算を行う。触媒や酵素設計、反応機構解析、電池、持続可能な素材分野などでの利用を想定する。三井物産は日本国内におけるQIDOの独占販売代理店となり、パナソニックホールディングス株式会社、JSR株式会社、中外製薬株式会社とベータテストを実施した。
【編集部解説】
今回紹介するQIDO(Quantum-Integrated Discovery Orchestrator)は、三井物産・QSimulate・Quantinuumという三つの企業が協力して開発した、最先端の化学研究プラットフォームです。QIDOの最大の特徴は、従来の「古典コンピュータ」と近年注目を集める「量子コンピュータ」の両方を組み合わせて利用することです。これにより、薬や新しい材料の開発スピードが大きく向上し、コスト削減にもつながると期待されています。
1. 量子コンピュータが量子の謎を解く? – シュレディンガー方程式との格闘
化学では、分子や原子、電子といった「量子」の世界を理解する必要があります。この世界を支配するシュレディンガー方程式は、1926年の発見以来、量子力学の基本法則として電子の振る舞いを完璧に記述してきました。しかし皮肉なことに、電子が3個以上存在する系では解析的な解が存在しません。
ヘリウム原子でさえ電子が2個あるだけで厳密解は困難で、水分子(10個の電子)や薬物分子(数百個の電子)となると、全ての電子間相互作用を同時に考慮した計算は現実的に不可能です。例えるなら、何百人も同時に複雑なダンスを踊る動画を手計算で一つずつ解析するイメージです。
一方、量子コンピュータは、これらの粒子が「同時に」「重なり合って」存在できるという量子世界のルールそのものを使うので、電子が絡み合う問題(これを「量子多体系」と言います)を効率よく計算できます。QIDOはこの量子コンピュータの特徴を活かし、今まで解けなかった難しい計算やモデリングを可能にしています。
2. なぜ量子コンピュータは化学反応の解析に向いているの?
この困難に対し、科学者たちは約100年にわたって段階的に近似手法を発展させてきました。
1930年頃に開発されたハートリー・フォック法は、「各電子は他の電子の平均的な影響だけを受ける」という画期的な近似を導入しました。しかし、電子同士が実際に避け合う「電子相関」を無視するという根本的な限界がありました。
この問題を解決するため、ポストハートリー・フォック法が生まれました。配置間相互作用法(CI法)、結合クラスター法(CC法)、密度汎関数理論(DFT)など、それぞれが電子相関を取り込む独自のアプローチを提供しましたが、分子サイズが大きくなると計算量が指数関数的に増加するという根本的な課題は残り続けました。
化学反応とは、分子同士が出会って結合したり切れたりする過程です。この過程では、電子がどのように移動するか、そのエネルギーはどれくらいか、など非常に繊細な情報がやり取りされます。特に共有結合が切れる瞬間の電子移動や、触媒表面での複雑な電子のやり取りでは、電子相関が劇的に変化し、従来の近似手法では正確な描写が困難になります。
量子コンピュータは、まさにそうした複雑な計算を効率よく行うのに適しています。量子のルールをそのまま使って計算できるので、化学反応の途中の状態(遷移状態)やエネルギーの変化を、より詳細で正確にシミュレーションできます。QIDOでは、この長所を最大限引き出す工夫がされています。
3. 化学反応がわかると何がうれしいの?
QIDOのような高精度化学計算プラットフォームの普及は、現代社会の構造そのものを変える可能性を秘めています。
医療の民主化が現実となります。現在、新薬開発は巨大製薬企業の独壇場ですが、コンピュータ予測の精度向上により開発リスクが大幅に削減されれば、中小のバイオテック企業や大学発ベンチャーでも革新的な薬物開発が可能になります。薬の候補となる分子が「本当に体の中で正しく働くか?」を事前に高い精度で予測できれば、現在平均15年と数千億円を要する創薬プロセスを大幅に短縮でき、希少疾病に対する治療薬開発も経済的に成り立つようになります。
持続可能な社会への加速的転換も期待されます。太陽電池の変換効率を決定するバンドギャップエンジニアリングや、次世代リチウムイオン電池のイオン拡散経路の分子レベル設計、二酸化炭素を有用な化学物質に変換する高効率触媒の開発など、これまで「理論上は可能だが実現困難」とされてきた革新技術が一気に現実味を帯びます。
量子コンピュータとクラシックコンピュータを組み合わせたQIDOのようなハイブリッドプラットフォームが増えれば、イノベーションのスピードが今よりずっと早くなり、社会のさまざまな課題解決に役立つ技術がどんどん生まれていくでしょう。これは単なる技術の進歩ではなく、人類の物質理解と物質設計能力の根本的な進化を意味しているのです。
【用語解説】
量子多体系:多数の量子粒子(電子や原子など)が相互作用する物理系で、巨大な計算コストが必要となる。
ハミルトニアン:物理系のエネルギーや力学状態を記述する数式。分子や原子の運動や相互作用、エネルギー準位を計算するために使う。
遷移状態:化学反応が起きる際に現れる、一時的かつ不安定な構造。反応経路の中で最もエネルギーが高い状態。
反応座標:化学反応における出発物質から生成物への変化を表す、連続的な変数。
量子エミュレータ:実際の量子ハードウェアではなく、クラシカルコンピュータ上で量子計算を模擬的に再現するソフトウェア。
【参考リンク】
- 三井物産株式会社
https://www.mitsui.com/jp/ja/
総合商社であり、多様な事業領域をグローバルに展開する企業。 - QSimulate
https://qsimulate.com/
量子化学シミュレーション技術を開発し、製薬や素材分野向けのソフトウェアを提供している企業。 - Quantinuum
https://www.quantinuum.com/
量子コンピュータおよび量子ソフトウェアの開発企業であり、InQuantoなどの量子化学関連製品も展開している。 - QIDO(Quantum-Integrated Discovery Orchestrator)
https://qido.quantinuum.com/
三井物産・QSimulate・Quantinuumによる量子統合化学プラットフォーム。創薬や材料開発の革新を目指す。
【参考記事】
・Mitsui, QSimulate, and Quantinuum Launch “QIDO”: A Quantum-Integrated Chemistry Platform Targeting Faster Drug and Materials Discovery
QIDOの概要、機能、ベータテスト参加企業、プラットフォームの説明が記載されている。
・Launch of QIDO: A Quantum-Integrated Chemistry Platform to Accelerate Drug and Material Discovery
三井物産による公式発表。QIDOの目的、産業応用、国内独占販売、ベータテストの詳細を説明している。
・Mitsui Works With Quantinuum and QSimulate to Launch Quantum-Integrated Chemistry Platform
国際メディアによる第三者的まとめ。プラットフォームの産業界への意義や量子化学技術の進化に触れている。
・創薬や材料開発の高速化を目指す量子・古典ハイブリッド型プラットフォーム「QIDO」を三井物産が発表
三井物産による日本語発表。量子・古典ハイブリッドアプローチの強みや市場への期待に関する内容。
・量子化学技術で素材開発の「壁」を壊す! 新プラットフォームでQIDO始動
QIDOの技術的意義や、市場でのインパクトについて解説している国内記事。