2025年ノーベル物理学賞は、ジョン・クラーク氏(John Clarke、英国出身、カリフォルニア大学バークレー校名誉教授)、ミシェル・H・デヴォレ氏(Michel H. Devoret、フランス出身、イェール大学教授)、ジョン・M・マルティニス氏(John M. Martinis、カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授)の3名に授与されると報じられている。
授与理由は「電気回路におけるマクロスコピック量子トンネル効果とエネルギーの量子化の発見」である。
クラーク氏は1942年生まれで、ケンブリッジ大学で学位を取得後、1969年からカリフォルニア大学バークレー校で研究を続けてきた。超伝導量子干渉計(SQUID)の開発と応用で世界的に知られ、フリッツ・ロンドン賞(1987年)、コムストック物理学賞(1999年)、王立協会のヒューズ・メダル(2004年)など多数の受賞歴を持つ。
デヴォレ氏は1953年生まれのフランスの物理学者で、パリ国立高等電気通信学校を卒業後、オルセー大学(パリ第11大学)で博士号を取得した。1980年代にクラーク氏の研究室でポスドク研究員として2年間を過ごし、その後フランスのサクレー研究所で独自の研究グループを率いた。2002年からイェール大学で教鞭をとり、回路量子電磁力学の分野で先駆的な業績を上げた。フリッツ・ロンドン記念賞(2014年)、ジョン・スチュワート・ベル賞(2013年)などを受賞している。
マルティニス氏はカリフォルニア大学サンタバーバラ校の物理学教授で、2014年から2020年までGoogleの量子コンピューティングプロジェクトを主導した。2019年には「量子超越性(quantum supremacy)」の実証に成功し、世界的な注目を集めた。現在は量子ハードウェアスタートアップQolabを共同創業している。
3名の受賞対象となった研究は、1980年代半ばにクラーク氏の研究室で行われた。当時ポスドク研究員だったデヴォレ氏と大学院生だったマルティニス氏が共同で実験を行い、ジョセフソン接合という超伝導デバイスにおいて、マクロスコピックなスケールで量子力学的な振る舞いが観測できることを初めて実証した。具体的には、電流でバイアスされたジョセフソン接合が原子のような離散的なエネルギー準位を持ち、量子トンネル効果を示すことを発見した。この発見は、超伝導回路を「人工原子」として扱える可能性を開き、現代の超伝導量子ビットの基礎となった。
【編集部解説】
物理学の新しい扉が開かれました
量子コンピューティングという言葉は、今や未来を語る上で欠かせないものとなりました。しかし、その基礎となる発見が40年前に行われていたことを、私たちはどれだけ知っているでしょうか。2025年のノーベル物理学賞は、まさにこの「始まりの物語」を照らし出しています。
クラーク氏、デヴォレ氏、マルティニス氏の3名が1980年代に成し遂げた発見は、量子力学の世界と私たちの日常世界を結ぶ橋を架けるものでした。量子力学は通常、電子や光子といった極めて小さな粒子の世界の物理学です。しかし、彼らは超伝導回路という「目に見える」デバイスが、原子と同じように量子力学的に振る舞うことを示しました。これは、量子の不思議な性質を制御可能な形で利用できる可能性を開いた瞬間でした。
なぜこの研究が今、評価されたのでしょうか。それは、この基礎研究が現実の技術革新へとつながり、人類の知的探求における新たな段階を切り開いたからです。GoogleやIBMをはじめとする企業が量子コンピューターの開発を競い、2019年にはマルティニス氏自身が率いるチームが「量子超越性」を実証しました。理論が現実となり、さらに産業へと発展していく—その源流に、今回の受賞研究があります。
「Tech for Human Evolution」という観点から見れば、この発見は単なる技術進歩以上の意味を持ちます。それは、人間の認識の限界を超え、量子の世界を操る能力を手に入れるという、人類の進化における質的な飛躍を意味しているのです。
この研究は何を明らかにしたのでしょうか
彼らの研究の核心は、「マクロスコピック量子現象」の観測にあります。これは一体どういうことでしょうか。
量子力学は、電子や光子のような極めて小さな粒子が、確率的で不確定な振る舞いをすることを教えてくれます。しかし、私たちの日常世界—コーヒーカップや自動車のような「大きな」物体—は、そのような量子的な振る舞いを示しません。では、「小さい」と「大きい」の境界はどこにあるのでしょうか?
クラーク氏の研究室で行われた実験は、この境界を探る試みでした。ジョセフソン接合という、2つの超伝導体を極めて薄い絶縁体で隔てた構造を使い、彼らは電気回路全体が1つの量子系として振る舞うことを示しました。驚くべきことに、何兆個もの電子が集団として動くこの回路は、個々の原子と同じように離散的なエネルギー準位を持ち、マイクロ波光を吸収して励起状態に遷移することができました。
さらに重要なのは、量子トンネル効果の観測です。古典物理学では、エネルギーの壁を越えられない粒子は、その壁の向こう側には行けません。しかし量子力学では、粒子が壁を「トンネル」して反対側に現れることができます。彼らは、マクロスコピックな電流がこのトンネル効果を起こすことを実証しました。これは、量子力学が微視的な世界だけでなく、ある条件下では巨視的な世界でも成立することを示す画期的な発見でした。
この研究は、国際的な協力の成果でもあります。英国出身のクラーク氏がアメリカで築いた研究拠点に、フランスからデヴォレ氏が加わり、若き日のマルティニス氏と共に研究を進めました。その後、デヴォレ氏はフランスとアメリカを行き来しながら研究を発展させ、イェール大学では回路量子電磁力学という新しい分野を切り開きました。マルティニス氏は超伝導量子ビットの性能向上に取り組み、ついには量子コンピューターの実現へとつながりました。グローバルな研究ネットワークの中で、知識が受け継がれ、発展していく様子が見て取れます。
私たちの未来にどうつながるのでしょう
この基礎研究から40年が経ち、量子コンピューティングは今や現実のものとなりつつあります。では、これから私たちの社会はどう変わるのでしょうか。
最も期待されているのは、創薬と材料科学の分野です。従来のコンピューターでは計算が困難だった分子の振る舞いを、量子コンピューターなら効率的にシミュレーションできる可能性があります。新しい薬や、より効率的な太陽電池、強力な電池の開発が加速するかもしれません。
暗号技術も大きく変わる可能性があります。現在の暗号の多くは、大きな数の素因数分解が困難であることに依存していますが、量子コンピューターはこれを比較的容易に解いてしまう可能性があります。一方で、量子力学の原理を使った新しい「量子暗号」は、理論的に破られない通信を可能にします。
人工知能との組み合わせも注目されています。マルティニス氏がGoogleで取り組んでいたように、量子コンピューターは機械学習の特定のタスクを劇的に高速化できる可能性があります。パターン認識や最適化問題の解決が飛躍的に進むかもしれません。
しかし、実用化にはまだ多くの課題が残されています。量子ビットは極めて脆弱で、わずかな環境ノイズでもエラーが生じます。量子誤り訂正の技術開発が進んでいますが、大規模で実用的な量子コンピューターの実現には、さらに10年、20年という時間が必要かもしれません。
それでも、今回の受賞が示すのは、基礎研究の重要性です。40年前の「人工原子」の発見が、今日の量子コンピューティング革命を可能にしました。今日の基礎研究が、50年後、100年後の技術革新の種となるのです。人間性の拡張という観点から見れば、量子コンピューティングは私たちの思考能力を拡張し、これまで解けなかった問題に挑戦できるようにする道具となるでしょう。
研究の背景を辿ってみると
量子コンピューティングのアイデア自体は、実は1980年代初頭に遡ります。伝説的な物理学者リチャード・ファインマンは1982年の講演で、量子系のシミュレーションには量子コンピューターが必要だと主張しました。マルティニス氏自身、大学院生時代にファインマンの講演を聞き、この分野への道を決めたと語っています。
しかし、理論と実験の間には大きな隔たりがありました。量子ビットを物理的にどう実現するか、どうやって制御するか—これらは未解決の問題でした。クラーク氏は1960年代からジョセフソン接合の研究を続けており、SQUIDという極めて高感度な磁場センサーを開発していました。この技術的蓄積があったからこそ、デヴォレ氏とマルティニス氏との共同研究が可能になったのです。
1985年の彼らの発見以降、超伝導量子ビットの研究は急速に発展しました。1990年代後半には日本の中村泰信氏らが最初の超伝導量子ビットの実証に成功し、2000年代にはトランズモン型量子ビットという優れた設計が開発されました。デヴォレ氏とロバート・ショエルコフ氏(イェール大学)は、回路量子電磁力学という新しいアプローチを開拓し、量子ビット間の相互作用を精密に制御する方法を確立しました。
ノーベル物理学賞の歴史を見ても、量子力学と超伝導に関する賞は数多くあります。1973年には江崎玲於奈氏がトンネル効果の研究で受賞し、2003年にはアレクセイ・アブリコソフ氏らが超伝導の理論で受賞しています。今回の受賞は、これらの先行研究の上に築かれた成果であり、同時に新たな技術革命への扉を開いたことが評価されたと言えるでしょう。
人類の科学技術史において、この発見は「量子情報時代」の幕開けを告げる出来事として記憶されることになるでしょう。古典的なビットから量子ビットへ—それは、蒸気機関から電気へ、真空管からトランジスタへという過去の技術革命にも匹敵する、パラダイムシフトなのです。
【用語解説】
ジョセフソン接合(Josephson Junction): 2つの超伝導体を極めて薄い絶縁体(通常1〜2ナノメートル)で隔てた構造。ブライアン・ジョセフソンが1962年に予言した効果により、超伝導電子対(クーパー対)が絶縁体を「トンネル」して流れることができる。電圧ゼロでも電流が流れ、また電圧を加えると高周波電磁波を放出するという特殊な性質を持つ。超伝導量子ビットの基本要素として使われる。
量子トンネル効果(Quantum Tunneling): 古典物理学では乗り越えられないエネルギーの壁を、量子力学的な粒子が通り抜ける現象。壁の向こう側に粒子が「トンネル」して現れることから、この名がある。トンネル効果は太陽の核融合反応から半導体デバイスまで、自然界と技術の両方で重要な役割を果たしている。今回の受賞研究は、何兆個もの電子からなる「マクロスコピック」な電流がトンネル効果を起こすことを示した点で画期的だった。
超伝導量子ビット(Superconducting Qubit): 超伝導回路を使って実現される量子情報の基本単位。通常のコンピューターのビットが0か1の値しか取れないのに対し、量子ビットは0と1の「重ね合わせ」状態を取ることができる。超伝導量子ビットは極低温(絶対零度近く)で動作し、ジョセフソン接合を中心的な要素として構成される。GoogleやIBMの量子コンピューターで採用されている方式である。
量子超越性(Quantum Supremacy): 量子コンピューターが、どんなに強力な古典的スーパーコンピューターでも現実的な時間では解けない問題を解くことができることを示す概念。2019年にマルティニス氏率いるGoogleのチームが、53量子ビットのプロセッサ「Sycamore」を使って初めて実証した。古典コンピューターでは1万年かかる計算を200秒で実行し、量子コンピューターの実用化に向けた重要な節目となった。
SQUID(Superconducting Quantum Interference Device、超伝導量子干渉計): 2つのジョセフソン接合を超伝導ループに組み込んだデバイス。磁場の極めて微小な変化(100万分の1磁束量子単位)を検出できる、世界で最も感度の高い磁場センサー。脳磁図測定、地質調査、量子ビットの読み出しなど、幅広い応用がある。クラーク氏はSQUID技術の世界的権威として知られている。
【参考リンク】
ノーベル財団公式サイト – 2025年物理学賞
https://www.nobelprize.org/prizes/physics/2025/
ノーベル賞の公式発表、受賞者の詳細、科学的背景資料が掲載される予定です。受賞理由の詳細や過去の関連受賞についても確認できます。
カリフォルニア大学バークレー校物理学部 – John Clarke教授
https://physics.berkeley.edu/people/faculty/john-clarke
クラーク氏の研究内容、SQUID技術の応用、量子ビットの読み出し技術などについて詳しく知ることができます。
イェール大学 – Michel Devoret教授
https://seas.yale.edu/faculty-research/faculty-directory/michel-devoret
デヴォレ氏の回路量子電磁力学の研究、量子誤り訂正への取り組みなどが紹介されています。
カリフォルニア大学サンタバーバラ校物理学部 – John Martinis教授
https://www.physics.ucsb.edu/people/john-martinis
マルティニス氏の超伝導量子コンピューティング研究、Googleでの量子超越性実証プロジェクトについて知ることができます。
IBM Quantum – 量子コンピューティング入門
https://www.ibm.com/quantum
量子コンピューティングの基礎から最新の研究開発まで、一般向けの解説や実際にクラウドで量子コンピューターを試せるサービスが提供されています。
【参考記事】
Michel Devoret – Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Michel_Devoret
デヴォレ氏の経歴、主要な研究成果、受賞歴について詳細にまとめられています。2025年ノーベル物理学賞受賞の記載があります。
John Clarke (physicist) – Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/John_Clarke_(physicist)
クラーク氏の生涯、SQUID技術の開発、量子物理学への貢献について包括的に解説されています。
UC Santa Barbara/Google team makes huge computing breakthrough
https://www.universityofcalifornia.edu/news/uc-santa-barbaragoogle-team-makes-huge-computing-breakthrough
2019年の量子超越性実証について、マルティニス氏と研究チームの取り組みを詳しく報じた記事です。
Yale News – Devoret, Schoelkopf awarded Comstock Prize in Physics for quantum advances
https://news.yale.edu/2024/01/22/devoret-schoelkopf-awarded-comstock-prize-physics-quantum-advances
デヴォレ氏の回路量子電磁力学の業績と、共同研究者との関係について解説されています。
Superconducting Circuits for Quantum Information: An Outlook (Science, 2013)
https://www.science.org/doi/10.1126/science.1231930
デヴォレ氏とショエルコフ氏による、超伝導量子回路の将来展望をまとめた重要なレビュー論文。量子誤り訂正の必要性と課題について論じられています。