1913年11月22日、一人の革命児が生まれた
今日、11月22日は、日本の外食産業を変えた一人の男が生まれた日です。白石義明——その名前を知らなくても、彼が生み出したものを知らない日本人はほとんどいないでしょう。
「元禄寿司」という名前に、聞き覚えはないでしょうか。大阪や兵庫を中心に店舗を展開する、世界最初の回転寿司チェーンです。寿司がベルトコンベアに載って目の前を流れていく、あの光景。実は、白石義明が1958年に東大阪で開いた一軒の店から始まったものでした。
彼が発明した回転寿司は、その後どう変わっていったのでしょうか。ベルトコンベアに載って回る寿司は、今も同じ形で残っているのでしょうか。そして、彼が本当に目指していたものは何だったのでしょうか。
白石義明の誕生日に、回転寿司が生まれた背景と、そこから始まった技術革新の物語を見ていきたいと思います。
ビール工場で、彼は何を見たのか
戦後間もないころ、白石は大阪で立ち食い寿司店を営んでいました。一皿20円という当時としては破格の値段で、店は繁盛していたようです。しかし、人が多くなると寿司職人の手が足りなくなる。そんな悩みを抱えていた彼は、ある日、アサヒビール吹田工場を見学する機会を得ました。
そこで目にしたのは、ビール瓶がベルトコンベアに載って次々と運ばれていく光景でした。この瞬間、白石の頭に一つのアイデアが浮かんだのかもしれません。「これで寿司を運べないだろうか」と。
彼が始めようとしていたのは、単に「寿司を回す」という斬新な仕組みではありませんでした。それは「配膳の自動化」という、60年以上経った今も続く、長い挑戦の始まりだったようです。
ベルトコンベアは、カーブで止まった
店に戻った白石は、さっそく構想を練り始めました。しかし、ビール工場の直線的なコンベアをそのまま寿司店に持ち込むことはできません。店内は楕円形で、カーブがあります。試作してみると、カーブの部分で寿司皿が止まってしまうのです。
閉店後、彼は近隣の鉄工場や町工場の経営者仲間を店に集めました。東大阪は当時、町全体が「技術の宝庫」と呼ばれるような場所でした。旋盤工場、プレス工場、金属加工工場が密集し、職人たちが互いの技術を持ち寄って新しいものを生み出していく土壌がありました。
ある日、経営者同士の親睦会で、白石は一人の町工場の社長と出会います。互いに大酒飲みだったこともあり、意気投合したようです。「寿司皿をベルトコンベアで廻す」という壮大な夢に向けて、二人は行動を共にするようになりました。一升瓶を片手に、カーブのつけ方や錆びない素材選びに四苦八苦する日々が始まります。
試行錯誤は10年間続きました。カーブをどう滑らかにするか。皿が止まらず、傾かず、こぼれないようにするにはどうすればいいか。ある時、白石はトランプカードが扇形に並んでいるのを見て、ひらめいたそうです。コーナーを扇形にすればいい——。この発想が、カーブ問題を解決する鍵になりました。
1957年、試作品がついに完成します。そして1958年4月、大阪府布施市(現在の東大阪市)の近鉄布施駅北口に、世界最初の回転寿司店「廻る元禄寿司」が開店しました。キャッチコピーは「人工衛星廻る寿司」。前年にソ連が人類初の人工衛星スプートニクの打ち上げに成功したことにちなんだ、時代を感じさせる名前でした。
開店後も、技術開発は続きました。当初、お茶も寿司と同じくレーンで回していたのですが、これでは倒れて危険です。元禄寿司から相談を受けた石野製作所は、ラーメンにタレを注入する装置を応用して、給茶装置を開発しました。湯呑みをレバーに押し当てるとお茶が出てくる、今では当たり前のこの装置も、当時は画期的な発明だったのです。石野製作所はこれを実用新案特許として登録し、やがて寿司コンベア機の専門メーカーへと転身していくことになります。
一皿20円が変えたもの
白石が回転寿司を発明した背景には、もう一つの思いがあったようです。当時、寿司は高級品でした。「値段がわからなくて入りにくい」というイメージが強く、一般の人々が気軽に楽しめる食べ物ではありませんでした。
白石は立ち食い寿司屋時代から、一皿20円という価格設定にこだわっていました。「東大阪の町工場で働く人たちや学生さんにたくさん食べてもらいたい」という思いがあったと言われています。明朗会計で、誰でも入りやすい店。回転寿司は、寿司という食文化を大衆化する装置でもあったのです。
1970年、転機が訪れます。大阪万博への出店です。元禄寿司は、同じく万博で日本に初上陸したケンタッキーフライドチキンと並んで出店し、連日の大盛況となりました。日本の総人口の約6割が来場したこの万博で、回転寿司は一躍全国に知られることになります。この年は、後に「外食産業元年」と呼ばれるようになりました。
回らない回転寿司、そして歩くロボット
白石が発明した回転寿司は、その後も進化を続けていきます。
1990年代以降、タッチパネルによる注文システムが普及し始めました。すると、お客が自分で注文した寿司を待つようになり、レーンを流れる寿司を取る割合が減っていきます。そこで登場したのが、石野グループが開発した「特急レーン」です。注文された寿司をトレーに載せ、席番号を押すだけで、目的のテーブルまで直線的に届けるシステムでした。
この特急レーンは、「回らない回転寿司」という矛盾した言葉を生み出しました。効率化の効果は大きく、はま寿司では直線型レーンの導入により、食材廃棄を年間1000トン削減できたと報告されています。やがてこの技術は、焼肉店やラーメン店など、寿司以外の業態にも応用されていくことになります。
そして2020年代、再び同じ課題が外食産業を襲います。深刻な人手不足と人件費の高騰です。
すかいらーくグループは、2021年から全国のガストやバーミヤン、ジョナサンなど2100店舗に、ネコ型配膳ロボット「BellaBot」の導入を進めました。配膳ロボットは、料理を載せたトレーを目的のテーブルまで自律走行で運びます。SLAM(Simultaneous Localization and Mapping)という技術により、店内の地図を記憶し、常に最短距離で目的地にたどり着くのです。
配膳ロボットは、回転寿司だけでなく、あらゆる飲食店、さらには医療施設や介護施設にも広がっています。形は大きく変わりました。ベルトコンベアから、高速レーンへ、そして床を自律走行するロボットへ。
しかし、目的は変わっていないようです。白石義明は「お客さんに喜んでもろて、自分も喜ぶ」という信念を大切にしていたと言われています。配膳ロボットを導入した店舗からは、「配膳にかけていた時間を、丁寧な接客や先回りしたサービス提供に充てられるようになった」という声が聞かれます。
自動化の目的は、人間を排除することではなかったのかもしれません。
始まりの日から
1913年11月22日に生まれた白石義明は、2001年に87歳で亡くなりました。彼が始めた「配膳の自動化」という挑戦は、形を変えながら今も続いています。
ベルトコンベアは、今は床を歩くロボットになりました。でも、「人が本当にすべき仕事に集中できるように」という本質は、60年以上変わっていないようです。
次はどんな形になるのでしょうか。
【Information】
参考リンク
- 元禄産業株式会社 – 回転寿司の歴史
- 石野グループ – 回転寿司コンベア機メーカー
- 日本機械学会 機械遺産 – 2021年に元禄寿司のコンベアが認定
用語解説
SLAM(Simultaneous Localization and Mapping) 自己位置推定と地図作成を同時に行う技術。配膳ロボットがこの技術により、店内の配置を記憶しながら、現在地を認識して最短距離で目的地まで移動することができます。
特急レーン 石野グループが開発した、注文された商品を直線的に届ける高速配膳システム。回転式のレーンを使わず、オーダーごとに目的のテーブルまで寿司を運びます。商標登録されています。
機械遺産 日本機械学会が認定する、歴史的意義のある機械技術。元禄寿司の堺東店にある寿司コンベア機(1985年製造)とコンベア板「ウロコ」が2021年に認定されました。開発から60年以上経っても基本構造がほとんど変わっていないことが評価されています。
























