1997年、もう一つの世界への扉が開いた
1997年10月17日。日本のゲーマーたちは、CD-ROMを手に興奮を抑えきれずにいました。その日、日本初の月額課金制・多人数同時参加型オンラインRPG『ウルティマ オンライン』が発売されたのです。
インストールが完了し、ログインボタンを押した瞬間、彼らは知りました。画面の向こう側には、自分と同じように冒険を夢見る何千人もの人々が、同じ世界に「存在している」ことを。NPCではない、生身の人間が操るアバターたちが、挨拶を交わし、協力し、時には裏切り合う——。それは単なるゲームではなく、もう一つの「現実」でした。
この日を境に、私たちは物理法則に縛られた三次元世界だけではなく、無限の可能性を秘めた仮想世界にも生きる存在となったのです。そしてこの体験は、28年後の2025年、メタバースやVR/AR技術として結実し、人類史における新たな転換点を迎えようとしています。
リチャード・ギャリオットの夢 — 創造主としての開発者
ウルティマ オンラインの生みの親、リチャード・ギャリオット。“Lord British”の愛称で知られる彼は、1974年からある夢を追い続けていました。それは『指輪物語』やダンジョンズ&ドラゴンズに触発された「究極のRPG」の創造です。
高校生の頃からBASICでゲームを作り続け、1980年代にはシングルプレイヤー向けUltimaシリーズで名声を築いたギャリオット。しかし彼が本当に望んでいたのは、プレイヤーたちが「生活できる」世界の構築でした。クエストをこなすだけではなく、鍛冶屋になることも、大工になることも、音楽家になることもできる世界。他者と出会い、友情を育み、社会を形成できる空間——。
1992年、彼が創設したOrigin Systemsはエレクトロニック・アーツ(EA)に買収されます。この資本を背景に、ギャリオットは5年の歳月をかけて、ついにその夢を実現させました。それがウルティマ オンラインです。
しかし興味深いことに、ギャリオット自身が後に語ったところによれば、このゲームは「開発者の思惑通りにはいかなかった」のです。彼は「プレイヤーたちはアリの群れのように動き回った」と表現しました。開発者が用意したクエストやシナリオに従うのではなく、プレイヤーたちは独自のコミュニティを形成し、予想外の経済活動を展開し、ゲーム世界に「社会」を創り上げたのです。
これは失敗ではありませんでした。むしろ、人間という存在の本質を示す出来事でした。私たちは与えられた枠組みの中で生きる存在ではなく、どんな環境においても自らの社会を創発させる存在なのだと。
社会実験としてのMMORPG — 仮想世界で試される人間性
ウルティマ オンラインは単なるゲームではなく、壮大な社会実験の場となりました。仮想世界でありながら、そこには現実社会と同じように経済、政治、倫理が存在したのです。
韓国のMMORPG『Aion』を対象とした研究では、94,870人のユーザーの3ヶ月間の活動記録から、仮想世界における社会経済システムが分析されました。その結果、現実世界と同様に、少数の「上級ユーザー」が経済の大部分を支配する構造が明らかになったのです。さらに興味深いことに、取引額の半分以上が、ゲーム内通貨を現実の金銭と交換する違法行為(RMT)に関与するユーザーと関連していました。
別の研究では、MMORPG『ArcheAge』のクローズドベータテストを利用して、「世界が終わることがわかっている時、人間はどう行動するか」が調査されました。CBTではデータが削除されることが事前に告知されており、これは地球滅亡のシミュレーションとして機能したのです。
結果は意外なものでした。多くのプレイヤーは単にゲームプレイを諦めただけで、無差別PKなどの反社会的行動は一部に留まりました。これは「人間の道徳性は、世界の終わりが近づいても簡単には崩壊しない」ことを示唆しています。
日本の研究者たちも、MMORPGを「サードプレイス」(家庭と職場に次ぐ第三の居場所)として分析しました。仮想世界は、現実社会では得られない帰属意識や役割を提供し、私たちの社会的欲求を満たす新たな空間として機能していたのです。
これらの研究が示すのは、仮想世界が決して「非現実」ではないということです。私たちは仮想空間においても、現実と同じように社会を形成し、倫理に悩み、経済活動を行う。つまり仮想世界は、人間性を映し出す鏡であり、新たな実験場なのです。
「早すぎた」Second Lifeから学ぶもの
ウルティマ オンラインから9年後の2006年、メタバースという概念が初めて世界的な注目を集めます。それが『Second Life』のブームでした。
Second Lifeは、ゲーム性をほとんど排除した純粋な「仮想世界」でした。ユーザーは自由にアバターや建築物、衣服を制作でき、仮想通貨「リンデンドル」を現実の通貨と交換することも可能でした。企業や大学も参入し、仮想空間でのプロモーション活動や講義が行われました。
しかしブームは一過性に終わります。その理由は明確でした。当時のPC性能とネットワーク帯域では、快適な3D仮想空間の体験を提供できなかったのです。多くの人々が「重い」「操作が難しい」「何をすればいいかわからない」と感じ、離脱していきました。
Second Lifeは「早すぎたメタバース」と評されます。しかし、それは決して失敗ではありませんでした。2025年現在もサービスは継続しており、コアユーザーたちはそこで交流を続けています。そして2023年にはモバイル版の開発も発表され、「時代が追いついた」と話題になりました。
Second Lifeの経験から私たちが学ぶべきは、技術と社会の準備が整わなければ、どんなに優れた概念も普及しないということです。そして今、2025年——その準備は整いつつあるのです。
2010年代:静かな進化と日本からの成功例
Second Lifeのブームが去った後、メタバースという言葉は一時的に忘れ去られました。しかし仮想世界が消えたわけではありませんでした。むしろ、その間も着実に進化を続けていたのです。
特に注目すべきは、日本発のMMORPG『ファイナルファンタジーXIV』(FF14)の成功です。

2010年9月、スクウェア・エニックスが満を持してリリースしたFF14は、「ゲームとして成立していない」と酷評される「世紀の大失敗」でした。使いまわしのマップ、爽快感のないバトル、使いにくいUI——問題は山積していました。
しかし同年12月、一人の男が立ち上がります。吉田直樹氏です。彼はプロデューサー兼ディレクターに就任すると、驚くべき決断を下しました。ゲームを「修正」するのではなく、完全に「作り直す」と宣言したのです。
2013年8月、『新生FF14』が誕生しました。そしてそこから始まった成長は、誰の予想をも超えるものでした。2025年現在、累計登録アカウント数は3000万を突破。世界で最も成功しているMMORPGの一つとなったのです。
吉田氏が重視したのは、MMORPGの持つ「重い」イメージとの戦いでした。当時の日本では、オンラインRPGは「時間がかかる、お金がかかる、人間関係がめんどう」と敬遠されていました。しかし吉田氏は「いつものFFと変わらないですよ」というメッセージを地道に伝え続け、カジュアルに遊べるMMORPGを実現させました。
興味深いことに、2021年のメタバースブームの際、FF14は「メタバースの成功例」として再評価されました。仮想空間でアバターを操り、他者と交流し、経済活動を行い、イベントに参加する——それはまさにメタバースが目指す体験そのものだったのです。
吉田氏自身はこう語っています。「僕の中には文化という大それた感覚はありません。僕らはあくまでゲームを作り続けており、世界中の人たちが集まっていっしょに遊べるための公園を作り続けている感覚です」
この言葉は示唆に富んでいます。Second Lifeが「仮想世界」を前面に押し出したのに対し、FF14は「ゲーム」という親しみやすい形で、同じ仮想世界体験を提供していたのです。呼び方は違えど、本質は同じでした。人々が集い、交流し、生活する「もう一つの世界」を創造していたのです。
FF14の成功が証明したのは、仮想世界が特別な技術や概念ではなく、私たちの日常に溶け込む存在になりつつあるということでした。そして2010年代を通じて、MinecraftやRobloxなど、様々な形の仮想世界が若い世代を中心に普及していきました。
これらのゲームで育った世代——「仮想世界慣れした層」が、2020年代のメタバースブームの土台を形成することになるのです。
メタバース再興とVR/AR技術の成熟
2021年、Facebookが社名を「Meta」に変更し、メタバース実現に本格的に乗り出したことで、仮想世界への注目が再燃しました。しかし今回は、2000年代とは決定的に異なる要素がありました。
技術の成熟です。
VR/AR市場は急速に拡大しています。2020年に61億ドルだったVR市場規模は、2025年には209億ドルに達すると予測されています。世界のAR/VR表示機器市場は、2030年には7兆4,301億円に到達する見込みです。
特に注目すべきは、AR表示機器の台頭です。2030年には、AR表示機器市場がVR表示機器市場を上回ると予測されています。これは何を意味するのでしょうか?
VRが「現実から切り離された仮想世界への完全な没入」を提供するのに対し、ARは「現実世界に仮想情報を重ね合わせる」技術です。つまり、私たちはもはや「現実か仮想か」という二項対立ではなく、両者が融合した新たな生活様式へと向かっているのです。
日本のVRゴーグル販売台数は、2022年度に48万台、2027年度には185万台に達すると予測されています。VRの認知度は77.8%に達し、もはや一部のゲーマーだけのものではありません。
5G通信とクラウドレンダリング技術の進化により、遠隔地でも遅延なくVR会議が可能になっています。企業はVR技術を製品開発や従業員研修に活用し始めました。教育分野でも、VR/ARを使った没入型学習が広がっています。
そして、2025年現在、私たちは新たな転換点に立っています。Metaの「Quest 3」、SonyのVRヘッドセット、AppleのVision Proなど、大手企業が次々と高性能デバイスを投入しています。AIとの融合により、仮想世界はさらにリアルで応答性の高い空間へと進化しつつあるのです。
人間の認知が拡張される時代
ここで私たちは根源的な問いに直面します。仮想世界とは何なのか? それは単なる「偽物の現実」なのでしょうか?
認知科学の視点から見れば、答えは明確に「否」です。私たちの脳にとって、仮想世界での体験は現実世界での体験と本質的に変わりません。VR空間で高所から落下する体験をすれば、実際に恐怖を感じます。仮想空間で友人と会話すれば、実際の絆が生まれます。ウルティマ オンラインで築いた友情は、28年経った今も続いているプレイヤーたちがいるのです。
1992年、SF作家ニール・スティーヴンスンは小説『スノウ・クラッシュ』で「メタバース」という概念を提示しました。彼が描いた世界では、人々は仮想空間と現実世界を自在に行き来し、両方の世界で生活を営んでいます。
それから33年。私たちはその世界の入口に立っています。
進化生物学者はこう指摘します。人類は道具を使うことで環境に適応してきた種です。石器、火、文字、印刷、インターネット——私たちは常に技術を通じて自らの能力を拡張してきました。仮想世界もまた、その延長線上にあるのです。
物理的な身体は一つの場所にしか存在できません。しかし仮想世界では、私たちは同時に複数の場所に「存在」できます。東京の自宅にいながら、ニューヨークの会議に参加し、パリの美術館を訪れることができるのです。
これは人間の認知の根本的な拡張です。私たちは三次元空間と時間という制約から、部分的に解放されつつあるのです。
技術と人間の共進化 — 私たちはどこへ向かうのか
ウルティマ オンラインが示したのは、人間が新しい環境に適応する驚異的な能力でした。プレイヤーたちは、開発者の想定を超えて独自の社会を創り上げました。そこには経済があり、政治があり、文化が生まれました。
Second Lifeは、その可能性を「早すぎる形」で示しました。技術的な制約により普及には至りませんでしたが、仮想世界での経済活動や創造活動の可能性を証明しました。
そして2025年、VR/AR技術とメタバースの融合により、私たちは新たな段階へと進もうとしています。しかしここで忘れてはならないのは、技術はあくまで「道具」であるということです。
技術そのものに善悪はありません。活版印刷は知識を民主化しましたが、プロパガンダにも使われました。インターネットは人々をつなげましたが、分断も生みました。仮想世界も同様です。
重要なのは、私たちがこの技術をどう使うかです。
仮想世界は、物理的な制約を超えた新たな可能性を提供します。身体的な障害を持つ人々が、アバターを通じて自由に動き回れる世界。地理的な距離を超えて、世界中の人々と協働できる空間。現実では不可能な実験や学習ができる環境。
同時に、仮想世界には課題もあります。現実逃避の温床となる危険性。デジタル格差の拡大。プライバシーやセキュリティの問題。仮想世界での体験が現実の心身に与える影響——。
これらの課題に向き合いながら、私たちは技術と共に進化していく必要があります。それは一方的な「技術による人間の支配」でも、盲目的な「技術礼賛」でもありません。技術と人間が相互に影響し合い、共に成長していく関係です。
私たちは、もう一つの世界の住人となった
1997年10月17日から28年。ウルティマ オンラインに初めてログインした人々の多くは、今40代、50代になっています。彼らの中には、仮想世界で出会った相手と結婚し、家庭を築いた人もいます。
2010年代にFF14の「光の戦士」として冒険を始めた人々も、今では30代、40代。彼らもまた、エオルゼアという仮想世界で出会った仲間と、現実でも深い絆を育んでいます。
彼らが若い頃に体験した「もう一つの世界」は、もはや特別なものではありません。2025年を生きる私たちの多くは、スマートフォンを通じて常時オンラインであり、SNSやメッセージアプリで仮想空間に「存在」しています。
そして今、VR/ARとメタバースの進化により、私たちはより深く、よりリアルに仮想世界へと没入しようとしています。それは逃避ではなく、拡張です。私たちの生活圏が、物理世界だけでなく仮想世界にも広がっているのです。
リチャード・ギャリオットが夢見た「究極のRPG」。彼が本当に創造したかったのは、ゲームではなく「世界」でした。人々が生活し、交流し、創造し、成長できる空間——。
その夢は、形を変えながら、今も続いています。ウルティマ オンラインは2025年現在も運営が続いており、新たな冒険者たちを受け入れ続けています。そして同時に、その DNA は数え切れないほどのオンラインゲーム、メタバース、VR/AR体験に受け継がれているのです。
あなたの「もう一つの世界」はどこにありますか?
この記事を読んでいるあなたは、すでに複数の世界に生きています。物理的な身体がある世界。SNSのアカウントが存在する世界。オンラインゲームのアバターが冒険する世界。仕事用のビデオ会議システムの中の世界——。
そしてこれから、VR/AR技術の進化により、その境界はさらに曖昧になっていくでしょう。現実と仮想が融合した新たな生活様式が、当たり前のものとなる時代が来るかもしれません。
その時、私たちはどんな世界を創るのでしょうか?
ウルティマ オンラインのプレイヤーたちが、開発者の想定を超えて独自の社会を創り上げたように、未来の仮想世界も、そこに生きる私たち自身が形作っていくものです。
あなたは、その世界でどんな存在になりたいですか?
創造者ですか? 探求者ですか? それとも、人と人をつなぐ架け橋ですか?
技術は可能性を提供するだけです。それをどう使い、どんな世界を創るかは、私たち一人ひとりの選択にかかっています。
1997年10月17日に始まった旅は、まだ終わっていません。むしろ、本当の冒険はこれから始まるのです。
Information
参考リンク
ウルティマ オンライン関連
ファイナルファンタジーXIV関連
- ファイナルファンタジーXIV 公式サイト
- 吉田直樹氏インタビュー「FF14に見るサブスクの本質」(日経クロストレンド)
- 吉田直樹『吉田の日々赤裸々。『ファイナルファンタジーXIV』はなぜ新生できたのか』(KADOKAWA)
メタバース・VR/AR市場動向
仮想世界研究
- 高田佳輔「大規模多人数同時参加型オンラインロールプレイングゲームのエスノグラフィ」
- “Unveiling a Socio-Economic System in a Virtual World: A Case Study of an MMORPG”
- “I Would Not Plant Apple Trees If the World Will Be Wiped: Analyzing Player Behavior During MMORPG Beta Test”
【用語解説】
MMORPG(Massively Multiplayer Online Role-Playing Game)
大規模多人数同時参加型オンラインロールプレイングゲーム。数百人から数万人のプレイヤーが同時に同じ仮想世界でプレイするゲームジャンル。
メタバース(Metaverse)
「超越(Meta)」と「宇宙(Universe)」を組み合わせた造語。インターネット上に構築される仮想空間の総称。ユーザーはアバターを通じて仮想空間にアクセスし、他者とコミュニケーションを取ったり経済活動を行ったりできる。
VR(Virtual Reality / 仮想現実)
ヘッドマウントディスプレイ(HMD)を装着することで、360度の仮想世界に没入できる技術。視覚だけでなく聴覚や触覚も再現し、あたかも現実世界にいるかのような体験を提供する。
AR(Augmented Reality / 拡張現実)
現実世界の風景に、デジタル情報を重ね合わせて表示する技術。スマートグラスやスマートフォンのカメラを通じて、現実世界に仮想オブジェクトや情報を付加する。
サードプレイス(Third Place)
家庭(第一の場所)と職場(第二の場所)に次ぐ、第三の居場所。社会学者レイ・オルデンバーグが提唱した概念で、人々が気軽に集まり交流できる場所を指す。カフェや公園などが該当するが、近年ではオンラインゲームやSNSもサードプレイスとして機能している。
HMD(Head Mounted Display / ヘッドマウントディスプレイ)
頭部に装着する映像表示装置。VR体験の中核となるデバイスで、両目に異なる映像を表示することで立体視を実現し、頭の動きに連動して視野が変わることで没入感を生み出す。
リチャード・ギャリオット(Richard Garriott)
Ultimaシリーズの生みの親で、”Lord British”の愛称で知られるゲームデザイナー。Origin Systemsの創設者。2008年には民間人として国際宇宙ステーションを訪れるなど、冒険家としても知られる。
ファイナルファンタジーXIV(FF14)
スクウェア・エニックスが運営する日本発のMMORPG。2010年の旧版は酷評されたが、2013年に「新生FF14」として完全リニューアル。2025年現在、累計登録アカウント数2500万を超える世界的成功を収めている。メタバースブームの際に「メタバースの成功例」として再評価された。
吉田直樹(Yoshida Naoki)
FF14のプロデューサー兼ディレクター。2010年12月に旧FF14の立て直しを任され、ゲームを完全に作り直して世界的成功に導いた。「世界中の人たちが集まって遊べる公園を作る」という哲学を持ち、MMORPGの「重い」イメージを払拭することに成功した。
RMT(Real Money Trading)
ゲーム内通貨やアイテムを現実の金銭と交換する行為。多くのゲームで規約違反とされているが、実際には広範囲に行われており、仮想経済と現実経済の境界が曖昧になっている現象を示している。