椅子に座ったまま、世界の果てへ
あなたは椅子に座ったまま、エベレストの頂上に立っています。360度、見渡す限りの雪と氷。眼下には雲海が広がり、地平線が丸く湾曲しています。耳を澄ませば、風の音が聞こえます——ように思えます。しかし、頬に冷たさはありません。息は苦しくありません。VRヘッドセットを外すと、そこはあなたの部屋です。暖かく、安全で、快適な空間。では、これは登山だったのでしょうか?旅だったのでしょうか?
10月19日は「海外旅行の日」です。1979年に制定されたこの記念日は、「遠く(10)へ行く(19)」という語呂合わせに由来しています。旅行業界が海外旅行の楽しさを広めるために設けたこの日は、本来なら旅行パンフレットを手に取り、次の休暇の計画を立てる日かもしれません。しかし2025年の今日、私たちはこの記念日をきっかけに、もっと本質的な問いを投げかけたいと思います——そもそも「旅」とは何なのでしょうか?身体を物理的に移動させることだけが旅なのでしょうか?それとも、新しい景色を目にすること、異文化に触れることこそが旅の本質なのでしょうか?
2005年6月、Googleが世界に投げかけた革命があります。Google Earthです。そして2025年現在、私たちは椅子に座ったまま、マリアナ海溝の底を覗き、サハラ砂漠を横断し、ヴェネツィアの路地裏を歩くことができます。技術は「世界を見ること」を民主化しました。しかし、それは本当に「旅」なのでしょうか?そして、身体の移動は、もはや不要なのでしょうか?
かつて旅は、選ばれし者の特権でした
18世紀のヨーロッパでは、若きイギリス貴族たちが数年をかけて大陸を巡る「グランドツアー」に出ていました。パリで洗練されたマナーを学び、アルプスを越え、ヴェネツィアで芸術に触れ、ローマで古代文明の遺跡に立つ。これは単なる観光ではなく、支配階級としての教養を身につける「通過儀礼」でした。
しかし、この特権を享受できたのは、ごく一部の人々に過ぎませんでした。1731年、後に第4代ベッドフォード公爵となるジョン・ラッセル卿は、画家カナレットに24点のヴェネツィア風景画を依頼しました。支払った金額は少なくとも188ポンド——当時の熟練職人の年収の5倍以上に相当する額です。絵画1点だけでも、庶民には手の届かない贅沢品でした。ましてや、数年にわたるヨーロッパ旅行など、想像すらできない世界です。
「世界を見ること」は、生まれと富で決まっていました。どれほど知的好奇心があろうと、どれほど異文化への憧れがあろうと、資金がなければ旅はできませんでした。身体に障がいがあれば、どれほど裕福でも行ける場所は限られていました。グランドツアーは、19世紀の鉄道普及とともに徐々に姿を消していきましたが、「旅は特権である」という構造自体は、長く続きました。
20世紀、航空機の発達は旅行を民主化しました。1960年代以降、ジェット旅客機の普及により、かつて貴族しか行けなかった場所へ、中産階級も訪れることができるようになりました。しかし依然として、経済的・身体的な障壁は存在しています。2025年現在でも、世界人口の大半は、生涯で一度も国境を越えることがありません。「世界を見る」ことは、以前よりは開かれましたが、まだ誰にでも平等に与えられた権利ではないのです。
2005年6月、世界は手のひらに収まりました
そして、2005年6月。Googleは、世界に静かな革命をもたらしました。Google Earthのリリースです。
衛星画像と航空写真を組み合わせ、地球全体を3Dで再現したこのソフトウェアは、公開直後から爆発的な反響を呼びました。初週のダウンロード数は1億回。誰でも、どこへでも、瞬時に——インターネット接続さえあれば、地球上のあらゆる場所を「訪れる」ことができるようになったのです。
その実用性は、公開からわずか2ヶ月後に証明されました。2005年8月、ハリケーン・カトリーナがアメリカ湾岸地域を襲いました。洪水で街路標識も家屋番号も水没し、救助隊は被災者を見つけることができませんでした。そこでGoogle Earthチームは、被災地域のリアルタイム画像をオーバーレイして公開しました。911通報者が自分の位置を説明すれば、救助隊はGoogle Earth上でその場所を特定できたのです。技術は、人命を救いました。
それから20年。バーチャル旅行の技術は飛躍的に進化しました。Google Street Viewは2007年に登場し、世界中の路地裏まで「歩く」ことができるようになりました。VR(仮想現実)技術の発展により、360度の没入体験が可能になりました。そして2020年、COVID-19パンデミックが世界を襲うと、バーチャル旅行市場は爆発的に成長しました。
2025年現在、グローバルなバーチャル旅行市場の規模は約140億ドルに達しています。市場予測によれば、2030年から2035年までに290億ドルから1,110億ドル規模へと拡大すると見られており、年平均成長率は20%から33%に及びます。博物館、世界遺産、自然の驚異——かつては富裕層か研究者しかアクセスできなかった場所が、今や誰の手にも届きます。
技術は確かに、「世界を見ること」を民主化しました。しかし——。
しかし、私たちは何を失ったのでしょうか?
ここで、立ち止まって考えてみたいと思います。バーチャル旅行は、本当に「旅」なのでしょうか?
もちろん、視覚的な情報としては十分です。エベレストの頂上からの眺望も、ルーヴル美術館の天井画も、グレートバリアリーフの珊瑚礁も、驚くべき精細さで再現されています。教育的価値も高いです。しかし、何かが決定的に欠けています——そう感じるのは、私だけではないはずです。
他者との出会いが、ありません。
旅の本質は、予期せぬ出会いにあります。道に迷って、片言の英語で現地の人に助けを求める。言葉が通じず、身振り手振りでコミュニケーションを試みる。その過程で生まれる、小さな理解と共感。タクシー運転手との何気ない会話。市場で果物を買おうとして、値段交渉で笑い合う。偶然、旅先のカフェで隣り合わせた人との会話が、人生を変えることもあります。
バーチャル旅行には、これがありません。360度のパノラマ映像に映り込んでいる人々は、単なる「風景の一部」です。彼らと目が合うことも、会話することも、助けを求めることも、助けられることもありません。自分と異なる「他者」——異質な価値観、異なる言語、予測不可能な反応をする人間——に晒される体験がないのです。
しかし旅において、この「他者」との摩擦こそが、私たちを変容させます。自分の常識が通じない場所で、自分の言葉が届かない相手と、それでもコミュニケーションを図ろうとする。その葛藤と達成感。それは時に不快で、時に恐ろしいですが、同時に私たちの世界観を広げてくれます。バーチャル旅行は、この最も本質的な部分を、排除してしまっているのではないでしょうか。
そして、合理化されすぎています。
バーチャル旅行では、すべてが最適化されています。見たい場所だけを、見たいタイミングで、最適なルートで訪れることができます。疲労もありません。リスクもありません。トラブルもありません。雨に降られることも、道に迷うこともありません。すべてがコントロール可能です。
しかし、考えてみてください。旅の記憶として最も鮮明に残っているのは、往々にして「予定通りにいかなかった」瞬間ではないでしょうか?
バスに乗り遅れて、仕方なく歩いた道で見つけた小さな教会。予約していたレストランが閉まっていて、仕方なく入った食堂で食べた、人生最高の一皿。突然の雨宿りで入った書店で見つけた、思いがけない本。
これらの「偶然」は、アルゴリズムには組み込めません。バーチャル旅行は、効率的に「見るべきもの」を見せてくれますが、「見るつもりのなかったもの」との出会いは用意してくれません。コントロールを手放したときにだけ訪れる、予測不可能な体験——それこそが、旅を旅たらしめているのではないでしょうか。
そして、身体性の問題もあります。匂い、湿度、気温、重力。疲労、筋肉痛、時差ボケ。高地での息苦しさ。汗。これらすべてが、バーチャルでは再現されません。しかし、身体を賭けること——文字通り、自分の肉体をある場所に運ぶこと——には、画面越しには決して得られない実感があります。
それでも、技術は扉を開きました
ここまで批判的なトーンで書いてきましたが、誤解してほしくありません。バーチャル旅行を否定しているわけではありません。むしろ、その価値を正当に評価するために、限界を明確にしているのです。
なぜなら、バーチャル旅行には、確かに革命的な側面があるからです。
車椅子を使用している人にとって、マチュピチュの急な石段を登ることは物理的に不可能です。しかしVR技術を使えば、失われた都市の頂上に立ち、アンデス山脈の眺望を「体験」できます。視覚障がいのある人のために、音響と触覚フィードバックを組み合わせたバーチャルツアーも開発されています。
経済的な理由で、生涯で一度も海外旅行ができない人々がいます。彼らにとって、無料でアクセスできるGoogle Earthは、世界への唯一の窓かもしれません。高齢者が、若い頃に訪れた場所へ「再訪」し、記憶を辿ることもできます。
教育的な価値も計り知れません。歴史の授業で、実際にローマのコロッセオの内部を歩きながら学ぶ。地理の授業で、アマゾンの熱帯雨林を上空から俯瞰する。これらは、教科書の写真では決して得られない理解を生みます。
さらに、環境問題の観点からも、バーチャル旅行は意義深いものです。オーバーツーリズムは、世界中の観光地で深刻な問題となっています。ヴェネツィアは観光客の重みで沈みつつあり、マチュピチュの石畳は磨耗し、富士山は登山者のゴミで覆われています。バーチャル旅行は、これらの場所への物理的な負荷を減らしながら、人々の知的好奇心を満たす可能性を持っています。
これらはすべて、真実です。そして、価値あることです。
しかし——そう、再び「しかし」です——これらは「情報へのアクセス」であり、「体験」とは異なるのではないでしょうか。
「情報としての世界」と「体験としての旅」
ここに、本質的な区別があります。
バーチャル旅行が提供するのは、「情報としての世界」です。視覚情報、聴覚情報、そして時には触覚情報。それらは確かに豊かで、精細で、教育的価値があります。私たちは、かつてないほど多くの場所について「知る」ことができます。
しかし旅が提供するのは、「体験としての世界」です。それは情報を超えています。予測不可能性、身体性、他者との遭遇、コントロールの放棄——これらすべてを含んだ、総合的な体験なのです。
旅において、「他者」との摩擦こそが、私たちを変容させます。異国の地で、言葉が通じない人と向き合う。自分の常識が通用しない状況に置かれる。それは不安で、時に恐ろしいですが、同時に私たちを成長させます。
バーチャル旅行は、この「対面」を回避させてくれます。それは快適ですが、同時に、変容の機会を奪っているとも言えます。
では、バーチャル旅行には価値がないのでしょうか?そうではありません。両者は対立するのではなく、異なる価値を持っているのです。
バーチャル旅行は、「世界について学ぶ」ための優れたツールです。旅に出る前の下調べとして。物理的・経済的な理由で旅行できない人のためのアクセス手段として。教育のための視覚教材として。これらすべてにおいて、バーチャル旅行は素晴らしい役割を果たします。
一方、実際の旅は、「世界の中で変容する」ための体験です。他者と出会い、予測不可能な状況に身を置き、自分の限界を試す。それは情報を得ることではなく、存在を変えることです。
重要なのは、この二つを混同しないことです。バーチャル旅行で「世界を見た」と思い込み、実際に旅に出る必要はないと結論づけるのは、あまりにも惜しいことです。なぜなら、最も本質的な部分——他者との摩擦、予測不可能性、身体を賭けること——を経験していないからです。
10月19日に選ぶ、本当の旅
技術は、私たちに選択肢を与えてくれました。それは間違いなく、祝福です。
かつては富裕層しか見られなかった景色を、今や誰でも見ることができます。障がいのある人も、経済的制約のある人も、高齢者も——Google EarthやVRヘッドセットを通じて、世界にアクセスできます。これは、人類史において画期的な民主化です。
しかし同時に、技術は私たちから何かを奪おうともしています。いや、正確には——奪おうとしているのではなく、「奪われることを選ぶ誘惑」を与えているのです。
すべてが最適化され、コントロール可能で、リスクのない体験。それは快適です。しかし、その快適さと引き換えに、私たちは変容の機会を手放しています。他者との摩擦を避け、予測不可能性を排除し、身体を賭けることを回避しています。
テクノロジーが進化すればするほど、この誘惑は強くなるでしょう。いずれ、触覚も嗅覚も完璧に再現され、「本物と区別がつかない」バーチャル旅行が可能になるかもしれません。しかしそれでも、決定的な違いは残ります——身体を賭けていない、ということです。コントロールを手放していない、ということです。本物の他者に晒されていない、ということです。
だからこそ、私たちは意識的に選択する必要があります。バーチャル旅行を否定するのではなく、その価値を認めつつも、実際の旅のかけがえのなさを忘れないこと。情報としての世界を楽しみつつも、体験としての世界に身を投じることを恐れないこと。
10月19日、「海外旅行の日」。この日は本来、パンフレットを広げて次の旅を夢見る日かもしれません。しかし2025年の今、私たちはこの日を、「旅とは何か」を問い直す日にしたいと思います。
あなたにとって旅とは何でしょうか?
それは、美しい景色を見ることでしょうか?異文化について学ぶことでしょうか?それとも、予測不可能な出来事に身を委ね、他者と出会い、自分自身が変容することでしょうか?
答えは、人それぞれでいいのです。しかし、技術が与えてくれる便利さに溺れず、時には効率を捨て、コントロールを手放し、身体を賭けて、本物の他者に出会う旅を選んでみてはどうでしょうか。
椅子から立ち上がり、ヘッドセットを外し、扉を開けて——世界へ。
10月19日は「海外旅行の日」です。遠く(10)へ行く(19)。その言葉の真の意味を、もう一度考えてみませんか?
【Information】
参考リンク:
用語解説:
- Google Earth: Googleが2005年6月に公開した、衛星画像と航空写真を組み合わせて地球全体を3Dで再現したソフトウェア
- グランドツアー: 17〜19世紀にヨーロッパの貴族が行った、教養を深めるための長期旅行
- オーバーツーリズム: 観光客の過剰な流入により、地域住民の生活や環境に悪影響が及ぶ現象