2013年11月19日。国連総会は、この日を「世界トイレデー」と定めました。世界で約15億人が基本的なトイレを使えていないという現実を、私たちに突きつけるためです。毎日800人以上の5歳未満児が、不衛生な環境による下痢で命を落としています。トイレへの1ドルの投資が5ドルの経済効果を生むことがわかっていても、この問題は解決されていません。
その同じ日、日本では2025年8月に発売されたばかりのトイレが話題になっていました。TOTOの「ネオレスト」に搭載された「便スキャン」機能。落下中の便をLEDセンサーでスキャンし、形・色・量を自動計測してスマートフォンアプリに送信する。一家に6人まで登録でき、それぞれの健康状態を日々モニタリングできる。温水で洗浄し、温風で乾燥させ、脱臭し、そして今度は健康管理までする――日本のトイレは、ここまで進化していました。
この対比は、何を意味しているのでしょうか。
300人のお尻が切り開いた革命
1980年6月。TOTOは温水洗浄便座「ウォシュレット」を発売しました。しかし、その開発は容易ではありませんでした。
最大の課題は、データがないことでした。どの角度から、どの温度の水を、どれくらいの強さで出せば快適なのか。開発チームは、社員に頼み込んでモニターになってもらい、約300人分のお尻の位置データを集めました。デリケートな部位の実験に協力を得ることは容易でなかったといいます。試行錯誤の末、温度38度、角度43度という「黄金律」が導き出されました。
次の課題は、水回りでの電子制御でした。温度を正確にコントロールするには集積回路(IC)が必要ですが、精密電子部品と水は天敵です。開発チームがヒントを得たのは、雨の日でも点灯し続ける信号機でした。特殊な樹脂でICをコーティングする技術を応用し、1年半という短期間で製品化にこぎつけました。
発売当初の価格は14万9000円。1982年、「おしりだって、洗ってほしい。」というキャッチコピーとともに大々的なキャンペーンを展開しました。CMは話題になりましたが、売れ行きは芳しくありませんでした。「紙で拭けば十分なのに、なぜわざわざお湯で洗う必要があるのか」――多くの人がそう考えたのです。
TOTOは、体験してもらうことに活路を見出しました。ホテルやゴルフ場にウォシュレットを設置し、「ウォシュレットマップ」を配布。水道工事店には製品を無償提供してファン化を図りました。累計出荷台数が100万台を突破したのは1987年。発売から7年が経っていました。
そして2020年、温水洗浄便座の一般世帯普及率は80.2%に達します。「用を足す場所」だった日本のトイレは、「清潔で快適な空間」へと変貌を遂げました。
「次の人のため」という感覚
なぜ日本だけが、ここまでトイレにこだわるのでしょうか。
訪日外国人を対象にした調査では、88%が「日本の排泄に対する態度は母国と異なる」と答えています。興味深いのは、その内容です。日本では「うんちグッズ」や排泄に関するテレビ番組が溢れている一方で、公共トイレには「音姫」が設置され、排泄音を必死に消そうとする。この二重性を、多くの外国人が「変わっている」と感じています。
日本の小学校では、子どもたち自身がトイレ掃除をします。世界的に珍しいこの習慣は、「自分たちが使う場所は、自分たちで綺麗に保つ」という感覚を幼少期から育んでいます。公共トイレの張り紙には「汚さないでください」ではなく、「いつも綺麗にご利用いただき、ありがとうございます」と書かれている。これは、次に使う人への配慮を前提とした文化です。
戦後、この文化は技術と結びつきました。1951年、アメリカ占領軍は「A flush toilet is the first condition of civilized living(水洗トイレは文化生活の第一条件)」と記したパンフレットを東京で配布しました。下水道の整備とともに洋式便器が普及し、1977年には洋式の出荷数が和式を上回ります。
「清潔であること」と「他者への配慮」。この2つの価値観が、TOTOとLIXILという二大メーカーの競争を通じて、世界に類を見ないトイレ技術を生み出しました。
30年かけても10%――グローバルな壁
しかし、この技術は世界に広がっていません。
TOTOが米国市場に進出したのは1986年。現地のキッチン&バスショップで製品を見た人々の反応は、ほぼ全員が「なんだこりゃ?」でした。便器の上に電気製品が載っていることがまず受け入れられず、機能を説明しても良さをわかってもらえませんでした。
30年以上が経過した現在、米国での普及率は10%未満です。中国では5%未満。2020年のコロナ禍で紙不足が起きた際、一時的に販売が伸びましたが、日本のような普及には程遠い状況です。
ウォシュレットは「体験型商品」です。使ってみて初めて価値がわかる。そのため、TOTOは高級ホテルへの設置を積極的に進めてきました。ロンドンとパリの5つ星ホテルの4割超に、スイートルームを中心にウォシュレットが設置されています。訪日観光客が日本で体験し、帰国後に購入するケースも増えています。
それでも、文化の壁は厚い。欧州ではビデを使う習慣があり、米国では大量の水とトイレットペーパーを使う文化が定着しています。中国市場では、操作パネルを金色にするなど現地化を進め、富裕層向けの高級ブランドとして浸透しつつありますが、一般家庭への普及は進んでいません。
世界で15億人がトイレを使えない一方で、日本の技術は「過剰すぎて」世界に広がらない。このねじれは、何を物語っているのでしょうか。
便をスキャンする未来
2025年8月、TOTOは新たな一歩を踏み出しました。「便スキャン」機能を搭載した「ネオレスト」の発売です。
ウォシュレットのノズル横に設置されたセンサーが、落下中の便にLEDを投光し、反射光を受光することを繰り返します。便の長さ、幅、輪郭、表面情報から、世界基準である「ブリストル便性状スケール」を参考にTOTO独自の方法で7タイプに分類。色と量も自動計測され、Bluetooth経由でスマートフォンの「TOTOウェルネス」アプリに送信されます。
アプリは、排便日をカレンダーで表示し、傾向をグラフ化します。週間・月間レポートを生成し、便の状態に応じた食事や睡眠のアドバイスも提供します。1台のトイレで6人まで登録可能。座る前にリモコンで個人設定ボタンを押すだけで、あとは自動です。
「お尻を洗う」から始まったウォシュレットは、45年の進化を経て「健康を管理する」デバイスへと変貌しました。節水技術も進化し続け、1980年代には1回20リットルだった洗浄水量は、現在3.8リットルまで削減されています。
TOTOは「健康に寄り添う」という新たな価値を掲げています。それは、日本の技術力と文化が生み出した、間違いなく素晴らしい成果です。
しかし、この技術が生まれた同じ惑星で、今日も800人以上の子どもたちが不衛生な環境で命を落としています。私たちは、この事実とどう向き合えばいいのでしょうか。
























