欧州原子核研究機構の誕生
1954年9月29日、スイス・ジュネーブで欧州原子核研究機構(CERN: Conseil Européen pour la Recherche Nucléaire)が正式に発足しました。素粒子物理学の基礎研究を目的とした国際研究機関として、当初12カ国が参加してスタートした組織は、2025年9月現在では25の加盟国と11の準加盟国、世界110カ国以上から集まる研究者たちが協力する、世界最大規模の物理学研究所となっています。
https://home.cern
(CERN公式HP ロード画面の円状の加速器を模したと思われる円がおしゃれですね)
戦後復興と科学協力の象徴として
第二次世界大戦からわずか9年後、まだ復興途上にあったヨーロッパで、かつて敵対していた国々が科学研究のために手を結びました。永世中立国スイスに本部を置くことで政治的中立性を保ち、純粋に科学的探求を行う場として構想されたCERNは、戦後の新しい国際協力のモデルとなりました。
原子核物理学という分野を選んだ背景には、核兵器開発で明らかになった原子核の巨大なエネルギーを、今度は平和的な基礎研究に向けようという科学者たちの思いがありました。
巨大実験装置が探る宇宙の謎
CERNといえば、大型ハドロン衝突型加速器(LHC)を思い浮かべる方も多いでしょう。全周27キロメートル、地下約100メートルに建設されたこの円形加速器は、陽子を光速の99.9999991%まで加速させ、正面衝突させることで、ビッグバン直後の状態を再現します。
想像を超える実験の規模
LHCの建設には、1998年から2008年まで10年の歳月と約50億ドルの費用が投じられました。トンネル内には1232台の双極超伝導電磁石が設置され、それぞれが15メートルの長さと35トンの重量を持っています。これらの磁石は液体ヘリウムで絶対零度近く(-271.3℃)まで冷却され、地球上で最も低温の場所の一つとなっています。
加速器の中では、1秒間に約6億回の陽子衝突が起こり、その際の温度は太陽の中心温度の10万倍に達します。つまり、宇宙で最も冷たい場所のすぐ隣に、宇宙で最も熱い場所が存在するという、極限の環境が作り出されています。
例として現在進行中の主要実験の概要を…
ATLAS実験 高さ25メートル、長さ46メートル、重量7000トンという巨大な検出器です。これは5階建てのビルに相当する大きさで、エッフェル塔の鉄塔部分と同等の重量があります。約6000人のメンバーが参加し、1億個のセンサーが毎秒4000万回のデータを記録しています。2012年のヒッグス粒子発見の立役者の一つです。
CMS実験 「コンパクト」という名前がついていますが、直径15メートル、長さ21メートル、重量14,000トンという巨大装置です。内部の磁場は地球磁場の10万倍という強さで、世界最大級の超伝導ソレノイド磁石を使用しています。約4000人以上の研究者が参加し、ATLAS実験とは独立してヒッグス粒子を確認しました。
ALICE実験 高さ16メートル、長さ26メートル、重量10,000トンの検出器で、鉛原子核同士を衝突させています。この衝突では、最大で3万個もの粒子が生成され、それらをすべて追跡・解析します。ビッグバンから100万分の1秒後に存在したとされるクォーク・グルーオン・プラズマという物質状態を研究しており、約1900人の研究者が参加しています。
LHCb実験 長さ21メートル、高さ10メートル、重量5600トンの検出器で、物質と反物質のわずかな違いを精密測定しています。毎秒4000万回の衝突をリアルタイムで解析できるシステムを持ち、約1800人のメンバーが関わっています。
データ処理の驚異的な規模
LHC実験が生成するデータ量は想像を絶します。4つの実験を合わせると、1年間で約88ペタバイト(8800万ギガバイト)のデータが生成されます。これは、一般的なノートパソコン約10万台分のハードディスク容量に相当します。
このデータを処理するため、世界42カ国、170カ所以上のコンピューティングセンターが「LHCコンピューティンググリッド」でつながっています。100万個以上のCPUコアと、1エクサバイト(10億ギガバイト)を超えるストレージ容量を持つ、世界最大級の分散コンピューティングシステムです。
これらの実験装置は、それぞれが一つの工場に匹敵する規模を持ち、数千人の研究者が関わる巨大プロジェクトです。2026年からは高輝度LHC(HL-LHC)へのアップグレードも予定されており、さらに将来的には周長100キロメートル(山手線の約3倍)の未来円形衝突型加速器(FCC)の構想も進んでいます。FCCが実現すれば、深さ200メートルの地下に、スイスとフランスにまたがる巨大リングが建設されることになります。
World Wide Webの誕生地
1989年、CERNの研究者ティム・バーナーズ=リーが、研究データを効率的に共有するためのシステムを提案しました。これがWorld Wide Web(WWW)の始まりです。数千人の研究者が世界中から参加するCERNでは、実験データや論文を効率的に共有する仕組みが必要不可欠でした。
HTMLやHTTPといった基本技術が開発され、1991年には世界初のWebサイトがCERN内で公開されました。そして1993年4月30日、CERNは画期的な決定を下します。WWWの技術を特許化せず、無償で全世界に公開すると宣言したのです。この決定が、その後のインターネット社会の爆発的な発展を可能にしました。
オープンサイエンスの実践
CERNは「オープンサイエンス」の理念を徹底的に実践しています。すべての研究データと論文は無償で公開され、世界中の誰もがアクセスできます。LHCの実験データも、一定期間後には完全に公開されており、世界中の研究者や学生が自由に解析できるようになっています。
研究成果の論文は、実験に参加したすべての研究者の共同署名で発表されます。一つの論文に3000人以上の著者が名を連ねることもあり、国籍や所属機関に関わらず、貢献したすべての人が平等に扱われます。これは「真理の前では誰もが平等」という理念の具体的な実践といえるでしょう。
また、CERNが開発したソフトウェアの多くもオープンソースとして公開されています。データ解析ツールの「ROOT」や、粒子シミュレーションソフトウェア「Geant4」などは、素粒子物理学以外の分野でも広く使われています。
基礎研究が生み出す技術革新
CERNの研究から生まれた技術は、私たちの生活にも大きな影響を与えています。粒子検出器の技術は医療用のPETスキャンに応用され、加速器技術は癌の陽子線治療に使われています。また、大量のデータを処理するために開発されたグリッドコンピューティング技術は、現在のクラウドコンピューティングの先駆けとなりました。
年間88ペタバイト(8800万ギガバイト)という膨大なデータを処理するCERNのコンピューティング技術は、ビッグデータ時代の最先端を走っています。機械学習を使った粒子識別技術なども、他分野への応用が期待されています。
国境を超えた協力の現場
現在CERNでは、世界110カ国以上から10000人以上の科学者、エンジニア、技術者が働いています。政治的に対立している国々の研究者も、ここでは同じチームの一員として協力しています。冷戦時代には東西両陣営の科学者が共に研究を行い、現在も様々な国際情勢の中で、科学という共通言語で結ばれた協力が続いています。
CERNでの経験は、若い研究者たちにとって国際協力の実践の場でもあります。文化や言語の違いを超えて一つの目標に向かって協力する経験は、科学以外の分野でも貴重な財産となっています。
これからのCERN
素粒子物理学の標準理論は大きな成功を収めていますが、まだ多くの謎が残されています。ダークマターの正体、物質と反物質の非対称性、重力の量子論的な理解など、21世紀の物理学が解決すべき課題は山積みです。
CERNは、これらの謎に挑むため、さらに高いエネルギーでの実験を可能にする新しい加速器の開発を進めています。同時に、量子コンピュータや人工知能などの最新技術を取り入れ、より効率的にデータを解析する方法も研究しています。
科学が示す協力の可能性
69年前の今日、CERNが発足したとき、それは単なる研究所の設立以上の意味を持っていました。戦争で分断された世界が、科学という共通の目的のために再び手を結ぶ──その象徴的な出来事でした。
今日、気候変動やパンデミックなど、人類共通の課題に直面する中で、CERNが示してきた国際協力のモデルはますます重要になっています。科学に国境はなく、真理の前では誰もが平等である。この理念を実践し続けるCERNの姿は、分断が深まる世界にあって、協力の可能性を示す希望の光となっています。
基礎科学への投資は、すぐには実用的な成果を生まないかもしれません。しかし、WWWの例が示すように、純粋な知的探求から思いもよらない革新が生まれることがあります。宇宙の根本法則を理解しようとする人類の挑戦は、これからも続いていくでしょう。