あなたは、今日見た情報を信じますか?
あなたは今日、何本の情報に触れましたか?SNSのタイムライン、ニュースアプリ、YouTubeの動画、友人からのメッセージ。その中で、どれが「本物」だと確信を持って言えるでしょうか。
2024年、ある日本企業の経理担当者は、ビデオ会議で上司の指示を受けて約7500万円を送金しました。しかし後日、その上司も、会議に参加していた同僚たちも、全てAIが生成したディープフェイクだったことが判明します。同年、5分に1回のペースでディープフェイク攻撃が世界のどこかで発生し、米国だけで年間123億ドルの詐欺被害が報告されました。
私たちは今、「何が本物で何がフェイクか」の判断が、かつてないほど困難な時代に生きています。
87年前の今日、アメリカで何が起きたのか
しかし、情報によるパニックは、今に始まったことではありません。
1938年10月30日——ちょうど87年前の今日——日曜日の夜8時。アメリカ東海岸の家庭では、多くの人々がラジオのダイヤルを回していました。その日、CBSラジオで放送された『宇宙戦争』というドラマが、のちに「史上最も有名なパニック事件」として語り継がれることになります。
「火星人がニュージャージー州グローバーズミルに着陸した」——臨時ニュース形式で放送されたこのドラマを、一部のリスナーは本物の報道だと信じ、パニックに陥ったとされています。翌日の新聞は「ラジオリスナーがパニック、戦争ドラマを事実と誤解」と大々的に報じました。
しかし、この「パニック」は本当に起きたのでしょうか?そして87年後の今日、私たちは情報との付き合い方を進化させたのでしょうか?
この記事では、1938年の宇宙戦争事件から2025年のディープフェイク時代まで、「情報とパニックと暴力」の人類史的パターンを辿ります。技術が進化しても変わらない人間の認知バイアス、そして私たちが身につけるべき批判的思考について、一緒に考えてみませんか。
1938年10月30日の夜、ラジオが作った「現実」
23歳の天才、オーソン・ウェルズが演出したこのラジオドラマは、驚くほど巧妙でした。
番組は通常の音楽放送を装って始まり、突然「臨時ニュース」が割り込みます。「ニュージャージー州の天文台で、火星から謎の爆発が観測されました」。音楽が再開されますが、またすぐにニュースが入ります。「隕石のようなものが着陸しました」。
そして、現場からの「生中継」が始まります。記者の興奮した声、群衆のざわめき、金属音。シリンダーが開き、中から「何か」が這い出てくる——。
「天よ、何かが蠢いています…触手のようなものが…ああ、その顔は…皆さん、言葉では表現できません」
音響効果は完璧でした。爆発音、悲鳴、混乱。そして静寂。「こちらニューヨーク放送ビルです。火星人の巨大な機械が五体、ハドソン川を渡ってきます…人々が川に飛び込んでいます、ネズミのように…」
最後に放送は途絶え、静寂だけが残りました。
なぜ、これほどリアルだったのでしょうか?
第一に、1938年という時代背景があります。ヨーロッパでは戦争の足音が近づいていました。ヒトラーがオーストリアを併合し、チェコスロバキアに侵攻。人々は不安に満ちていました。そして、ラジオは信頼できる情報源でした。フランクリン・ルーズベルト大統領の「炉辺談話」を通じて、ラジオは国民と政府をつなぐ重要なメディアとなっていたのです。
第二に、演出の巧妙さです。ウェルズは「専門家」の声を使いました。プリンストン大学の天文学教授役、軍の高官役。権威ある声が事態の深刻さを伝えました。そして、通常番組の「中断」という形式が、緊急性を演出しました。
放送が終わった瞬間、ウェルズとスタッフは、自分たちが何をしてしまったのか、まだ理解していませんでした。
「パニック」というメタ・フェイク
翌朝、ウェルズは全米で最も話題の人物になっていました。新聞は一斉に報じました。「ラジオがパニックを引き起こした」「120万人以上が避難」「教会に人々が殺到」「自殺未遂も」。
しかし、後の研究で衝撃的な事実が明らかになります。
C.E.ホーパー社が放送当夜に実施した調査によれば、5000世帯に電話をかけたところ、「ラジオドラマを聞いていた」と答えたのはわずか2%でした。98%は他の番組を聞いているか、ラジオをつけていませんでした。
さらに、パニックになった人々の約3分の2は、「火星人」ではなく「ドイツの侵攻」だと思っていたことが判明しました。つまり、ドラマの内容を正しく理解していなかったのです。
では、なぜ新聞は「大パニック」を報じたのでしょうか?
歴史学者A・ブラッド・シュワルツの研究によれば、ここにメディア間競争の構図がありました。1930年代、ラジオは新興メディアとして急速に広告収入を奪い、新聞業界を圧迫していました。新聞社にとって、ラジオの「無責任さ」を証明する絶好の機会だったのです。
新聞は各地の散発的な混乱報告を集め、「全国的なヒステリー」という物語を作り上げました。個別の出来事を、センセーショナルな見出しで結びつけたのです。
つまり、「パニックがあった」という報道自体が、メディアによって作られた物語だった可能性が高いのです。
これは、極めて現代的なテーマではないでしょうか?情報の拡散、増幅、そして歪曲。メディアが自らの影響力を証明するために「パニック」を演出する——この構造は、87年後の今日も変わっていません。
情報とパニックと暴力の歴史
歴史を振り返ると、「情報とパニックと暴力」のパターンは繰り返されてきました。
1923年9月1日、関東大震災。
死者10万5000人を超える未曾有の大災害の混乱の中で、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「放火している」「暴動を起こしている」というデマが拡散されました。
このデマは、警察や新聞によって増幅され、自警団、軍隊、警察によって数千人規模の朝鮮人が虐殺されました。内閣府の中央防災会議が2009年に公表した報告書によれば、犠牲者数は震災死者数の「1〜数パーセント」、つまり数千人に上ると推計されています。
重要なのは、これらのデマには一切の根拠がなかったことです。震災後に司法省が作成した調査書によると、朝鮮人による組織的犯罪の証拠は見つかりませんでした。にもかかわらず、恐怖と不安に駆られた人々は、デマを信じ、暴力に走りました。
このパターンは、1923年だけのものではありません。
1930年代のドイツでは、ナチス政権が「ユダヤ人が経済を支配している」というデマを組織的に拡散し、ホロコーストへとつながりました。
そして2025年の現在も、世界各地で「移民が犯罪を増やしている」「外国人が仕事を奪っている」といったデマが拡散されています。
では、事実はどうなのでしょうか?
データが示す真実
法務省の犯罪白書(令和6年版)によれば、2023年における外国人による刑法犯の検挙人員は9,726人、在留外国人数は約376万人です。犯罪率は人口1000人あたり約2.39人となります。
一方、日本人の犯罪率は人口1000人あたり約1.47人です。
この数字だけを見ると、「外国人の方が犯罪率が高い」と思われるかもしれません。しかし、より深く見る必要があります。
外国人人口は増加しているにもかかわらず、犯罪件数自体は減少傾向にあります。2005年のピーク時には43,622件だった検挙件数が、2023年には15,541件へと約64%減少しています。外国人が増えても、犯罪は減っているのです。
国際的なデータを見ても、同様の傾向があります。OECD報告書によると、移民は受け入れ国の経済成長に貢献しており、労働市場への正の影響が確認されています。米国の研究では、移民コミュニティの犯罪率は同じ社会経済的背景を持つ地域住民と変わらないことが示されています。
にもかかわらず、なぜ「外国人が危険だ」というデマは繰り返されるのでしょうか?
2024年の能登半島地震では、SNS上で「外国人が略奪している」「井戸に毒が入れられた」というデマが拡散されました。100年前の関東大震災と、全く同じパターンです。
技術は進化しました。1923年には口コミと新聞でした。2025年にはSNS、アルゴリズム、そしてAIが加わりました。しかし、デマの構造は変わっていません。
「不安」×「他者への偏見」×「情報の拡散技術」=「集団パニックと暴力」
この方程式は、100年前も今も、変わらないのです。
「中立性」とは何か——差別に対して沈黙しないこと
ここで、重要な問いに向き合う必要があります。「中立性」とは何でしょうか?
情報を扱う際、私たちはしばしば「中立であるべき」と言われます。しかし、中立性とは、善と悪の中間に立つことではありません。
人権侵害や差別に対して、「両方の意見を公平に扱う」ことは、中立ではなく、むしろ加害を正当化することになります。
ジャーナリズムの原則にも、「真実に立つ」という言葉があります。事実とデータに基づき、人間の尊厳を守る立場に立つこと——これが真の中立性です。
関東大震災における朝鮮人虐殺は、歴史的事実です。ナチスによるホロコーストも、歴史的事実です。これらを「なかった」とする言説を「一つの意見」として扱うことは、中立ではなく、歴史修正主義への加担です。
良識ある市民として、私たちは常に差別を許さない立場に立つべきです。これは偏向ではありません。人間としての良識であり、民主主義社会の基盤です。
では、なぜ「外国人が危険だ」というデマに反対するのでしょうか?それは:
- データが示す事実と矛盾するから
- 特定の集団への差別と暴力を煽るから
- 人間の尊厳を傷つけるから
- 社会の分断を深めるから
これは政治的立場の問題ではありません。事実と人権の問題です。
技術が進化しても、人間の尊厳という価値は変わりません。人間性の核心には、他者への共感と尊重があります。
なぜ私たちは騙されるのか
デマを信じることは、個人の知性や道徳の問題ではありません。これは人類共通の認知的脆弱性です。
心理学の研究によれば、人間には以下のような認知バイアスがあります。
確証バイアス:自分の信念に合う情報だけを集め、矛盾する情報を無視する傾向があります。「外国人は危険だ」と思っている人は、外国人による犯罪のニュースだけを記憶し、日本人による犯罪は忘れてしまいます。
権威への服従:権威ある人物や機関からの情報を無批判に信じる傾向があります。1938年の宇宙戦争パニックでも、「大学教授」や「軍の高官」の声が人々を信じ込ませました。
恐怖による判断力の低下:不安や恐怖を感じると、複雑な分析よりも単純な「敵」を求めます。災害や経済不安の時代に、「他者」がスケープゴートにされるのはこのためです。
特に注目すべきは、不安や危機の時代に「他者」がスケープゴートにされるパターンです。
心理学の研究によれば、人間は複雑な問題に直面したとき、単純な「敵」を求める傾向があります。経済不安、災害、社会的混乱——そうした状況で、「外国人」「移民」「異なる民族」が標的にされてきました。
なぜでしょうか?
一つには、「内集団」と「外集団」を区別するという人類の進化的な傾向があります。かつて小さな部族で生きていた時代には、「見知らぬ他者」への警戒は生存に必要でした。しかし現代社会では、この本能的な警戒心が、差別と暴力の温床になります。
もう一つには、複雑な問題を単純化したい欲求があります。「なぜ私の生活は苦しいのか?」という問いに対し、「外国人が仕事を奪っているからだ」という単純な答えは、心理的に楽なのです。たとえそれが事実でなくても。
これは個人の知性や道徳の問題ではありません。誰もが持つ認知バイアスです。だからこそ、私たちは意識的に、批判的に情報と向き合う必要があるのです。
2025年、技術はさらに進化したが…
2025年の現在、情報技術は1938年とは比較にならないほど進化しました。しかし、人間の認知バイアスは変わっていません。むしろ、技術の進化が新たな脅威を生んでいます。
ディープフェイクの驚異的な増加。
2024年のデータによれば:
- ディープフェイク攻撃は5分に1回のペースで発生
- 詐欺事件は2023年に3000%増加
- 企業の平均損失:約50万ドル(約7500万円)
- 米国のAI詐欺損失:2023年123億ドル → 2027年400億ドル予測
問題は、人間の検出能力の限界です。高品質なディープフェイク動画を見分けられる人は、わずか24.5%しかいません。つまり、4人中3人は騙されてしまうのです。
SNSアルゴリズムとエコーチェンバー。
現代のSNSアルゴリズムは、あなたが「見たい」情報を優先的に表示します。これは便利な反面、確証バイアスを強化します。同じ意見ばかりが目に入り、異なる視点に触れる機会が失われる——これを「エコーチェンバー(反響室)効果」と呼びます。
2024年、香港のある企業では、経理担当者がビデオ会議でCFOや同僚たちと話し、2500万ドル(約37億円)の送金を指示されました。しかし後日、全員がディープフェイクだったことが判明します。声も、顔も、完璧に再現されていました。
そして、災害時のデマも繰り返されています。
2024年の能登半島地震では、「外国人が略奪している」「井戸に毒が入れられた」というデマがSNS上で拡散されました。100年前の関東大震災と同じデマです。
技術は進化しました。しかし、デマのパターンは変わっていません。
技術は解決策になるか?
では、技術で技術の問題を解決できるのでしょうか?
確かに、対策技術も進化しています:
- ファクトチェックAI:自動的に情報の真偽を検証
- ブロックチェーン認証:画像・動画の改ざんを検出
- 生体認証の高度化:ディープフェイクを見破る技術
しかし、これは「いたちごっこ」です。詐欺技術が進化すれば、検出技術も進化します。そして、検出技術が進化すれば、詐欺技術もさらに巧妙になります。
最終的には、人間の判断力が鍵になります。
技術は道具です。それを使うのは、依然として不完全な人間なのです。
批判的思考——私たちにできること
では、私たちは何ができるのでしょうか?
1. 情報源を確認する
「○○人が犯罪を起こした」という情報を見たとき、まず問いましょう:
- その情報源は信頼できるか?
- 公式統計と照合しているか?
- 個別の事件を全体の傾向として語っていないか?
2. 数字とデータを見る
感情的な言葉ではなく、客観的な統計を求めましょう。 「みんなが言っている」ではなく、「データは何を示しているか?」
3. 感情的になったら立ち止まる
怒りや恐怖を感じたとき、それは情報を拡散する前のサインです。 一呼吸おいて、事実を確認しましょう。
4. 「他者」への想像力を持つ
「敵」とされる人々も、私たちと同じ人間です。 もし自分が同じ立場だったら、どう感じるでしょうか?
5. 歴史から学ぶ
1923年、1930年代、そして現在。 同じパターンが繰り返されています。 歴史を知ることで、私たちは同じ過ちを避けることができます。
最も重要なのは、「私は絶対に騙されない」と思わないことです。
宇宙戦争のパニックを信じた人々も、関東大震災のデマを信じた人々も、自分は理性的だと思っていました。認知バイアスは、誰にでもあるのです。
だからこそ、意識的に、批判的に、情報と向き合う必要があります。
私たちは進化できるか
1938年10月30日から87年——今日まで。 私たちは、より速く、より広く情報を伝える技術を手に入れました。 しかし、その技術を使うのは、依然として不完全な人間です。
技術は中立です。それを人間性の進化のために使うか、分断と暴力のために使うか。 選択するのは、私たち一人ひとりです。
関東大震災から100年以上が経ちました。 しかし今も、同じデマが、同じパターンで拡散されています。
私たちは、本当に進化したのでしょうか?
答えは、まだ出ていません。 それは、これからの私たちの行動にかかっています。
技術の進化だけでは不十分です。 必要なのは、人間の側の進化——批判的思考、共感、そして勇気です。
デマを見たとき、それを拡散するのではなく、立ち止まる勇気。 「敵」を作るのではなく、事実を確認する習慣。 分断ではなく、対話を選ぶ意志。
技術と人間性の共進化
それは、私たち一人ひとりが、毎日の小さな選択の中で実践できることなのです。
【Information】
参考リンク:
- The War of the Worlds (1938 radio drama) – Wikipedia
- 75 Years Ago, ‘War Of The Worlds’ Started A Panic. Or Did It? – NPR
- 内閣府 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書
- 法務省 犯罪白書
- Deepfake Statistics 2025 – Deepstrike
用語解説:
- ディープフェイク:AIを使って作成された、本物そっくりの偽の画像・音声・動画
- 確証バイアス:自分の信念を裏付ける情報ばかりを集める心理傾向
- エコーチェンバー:SNSなどで同じ意見ばかりが増幅される現象
























