1997年11月6日、英科学誌Nature。その日発表された一本の論文は、実験の「失敗」から生まれたものでした。日本の黒尾誠博士らの研究チームは、別の遺伝子を導入したトランスジェニックマウスを作ろうとしていました。ところが、遺伝子が染色体に挿入される際、偶然にも別の遺伝子を破壊してしまったのです。生まれたマウスは、生後3〜4週間で急速に老化し始めました。動脈硬化、骨粗鬆症、皮膚の萎縮、不妊——まるで早送りされた老化のような症状が現れました。
この「失敗」が、人類に新たな問いを突きつけることになります。研究チームが突き止めたのは、老化に深く関わる遺伝子でした。ギリシャ神話で生命の糸を紡ぐ運命の女神にちなんで「Klotho(クロトー)」と名付けられたこの遺伝子は、マウスで欠損すると急激な老化を引き起こし、過剰発現すると寿命が延びることが示されたのです。
28年が経過した今日——2025年11月6日——Klotho研究は着実に進展しています。しかし、私たちが直面しているのは、単なる技術的な問題ではありません。「老化を遅らせる」技術が現実のものとなりつつある今、私たちは本質的な問いに向き合う必要があります。老いるとは何か?長く生きることと、良く生きることは同じなのでしょうか?そして、誰が「良く老いる権利」を持つのでしょうか?
偶然が開いた扉——失敗から生まれた発見
黒尾誠博士は、1985年に東京大学医学部を卒業後、循環器の研究に従事していました。1991年、国立精神神経センターで高血圧モデルマウスの開発を目指していた時のことです。トランスジェニックマウスを作製する実験で、意図しない遺伝子の破壊が起こりました。
生まれたマウスは、一見すると普通でした。しかし、生後数週間で異変が現れます。同じ日齢の正常なマウスと比べて、明らかに衰えていたのです。皮膚は薄く萎縮し、骨はもろく、血管には石灰化が見られました。寿命は正常なマウスよりも著しく短く、通常8〜9週で死亡しました。これは、マウスの体内で何かが「早送り」されているかのような現象でした。
研究チームは、破壊された遺伝子を特定しました。その遺伝子が作り出すタンパク質は、主に腎臓で発現し、リン酸代謝に関わっていることが判明します。しかし、なぜリン酸代謝の異常が、これほど広範な老化症状を引き起こすのでしょうか?その謎を解き明かすには、さらに多くの研究が必要でした。
2005年、重要な発見がありました。Klothoタンパク質は、骨から分泌されるホルモン「FGF23」の受容体として機能していることが明らかになったのです。このFGF23とKlothoの連携システムは、体内のリン酸濃度を精密に調節しています。そして、リン酸の過剰な蓄積が老化を促進する可能性が示唆されました。
興味深いことに、Klothoタンパク質には2つの形態があります。細胞膜に結合した形と、血液中に分泌される形です。分泌型のKlothoは、インスリンやIGF-1といった成長因子のシグナルを抑制し、酸化ストレスを軽減する働きを持つことが分かってきました。つまり、Klothoは単一のメカニズムではなく、複数の経路を通じて老化プロセスに影響を与えているのです。
老いは「劣化」か、それとも「成熟」か?
私たちは「老化」という言葉を、どう捉えているでしょうか?多くの場合、それは「劣化」「衰退」といったネガティブなイメージと結びついています。確かに、筋力は低下し、記憶力は衰え、病気のリスクは高まります。しかし、それが老化の全てなのでしょうか?
心理学の研究は、興味深い事実を示しています。知恵に関する研究では、13歳から25歳にかけて知恵は着実に成長しますが、25歳から70歳にかけては停滞する傾向が見られます。一方で、70歳以上の高齢者は、若者とは異なる種類の思考を示すことが分かっています。彼らの思考は、より統合的で、複数の視点を包含し、不確実性を受け入れる柔軟性を持っているのです。
シカゴ大学の研究者たちは、若者と高齢者に同じ物語を要約させる実験を行いました。若者の要約は詳細で長いものでしたが、高齢者の要約は簡潔で、物語の核心的な教訓を自らの経験と結びつけて解釈していました。これは単なる記憶力の低下ではありません。高齢者は、情報を「意味」として捉え、本質を抽出する能力を持っているのです。
脳科学の知見も、老化を単純な「劣化」として捉えることに疑問を投げかけています。確かに、処理速度や短期記憶は低下します。しかし、知識と経験に基づく推論能力は維持され、むしろ向上することさえあります。脳の活動パターンも変化し、若い頃は特定の領域が活性化するのに対し、高齢期には両半球がより協調して働くようになることが観察されています。
では、Klotho研究が目指す「老化を遅らせる」とは、何を意味するのでしょうか?もし健康寿命が20年、30年延びたとして、私たちは80歳の知恵を持った40歳の身体を手に入れることになるのでしょうか?それとも、40歳の思考を持ったまま80歳まで生きることになるのでしょうか?
この問いは、技術的な問題ではなく、哲学的な問題です。老いることで得られるもの——深い洞察力、謙虚さ、統合的思考——は、時間の経過そのものがもたらすのでしょうか、それとも身体的な変化がもたらすのでしょうか?もし老化を遅らせることができたとしても、人間としての成熟は保たれるのでしょうか?
誰が「良く老いる」権利を持つのか?
今年2月、スペインの研究チームが画期的な成果を発表しました。マウスにKlotho遺伝子治療を施したところ、寿命が19.7%延長され、筋力、骨密度、認知機能が改善されたのです。2023年には、サル(霊長類)を用いた実験でも、認知機能の向上が確認されています。人間での臨床試験は来年2026年に開始される予定です。
しかし、ここで私たちは、もう一つの重要な問題に直面します。もしKlotho治療が実用化されたとき、それを誰が受けられるのでしょうか?
医療技術の歴史は、常に格差の歴史でもありました。2021年のCOVID-19ワクチンは、その典型例です。高所得国49カ国では3,900万回の接種が行われた一方、最貧国ではわずか25回しか接種されませんでした。研究によれば、新しい医療技術の普及初期段階では、格差が最も大きくなる傾向があります。裕福な人々が先に恩恵を受け、貧しい人々がそれを享受するまでには、数十年の時間差が生じるのです。
もちろん、歴史は希望も示しています。米国のVFC(Vaccines for Children)プログラムは、1994年に開始され、経済的に恵まれない子どもたちに無料でワクチンを提供してきました。2023年時点で、18歳以下の子どもの約54%がこのプログラムの恩恵を受けています。WHOの拡大予防接種計画(EPI)は、開発途上国のワクチン接種率を15年間で5%から80%に引き上げました。
しかし、Klotho治療は、従来の医療技術とは性質が異なります。これは病気の「治療」ではなく、健康な人の機能を「向上」させる技術です。誰が病気で、誰が健康なのでしょうか?70歳で元気に働いている人に、Klotho治療は必要なのでしょうか、それとも贅沢なのでしょうか?
日本の現状は、この問いをさらに複雑にします。2024年、日本の高齢化率は29.3%に達しました。しかし興味深いことに、日本老年学会は「75歳以上を高齢者の新定義とする」ことを提案しています。なぜなら、65〜74歳の多くは心身の健康が保たれており、活発な社会活動が可能だからです。実際、65〜69歳の就業率は過去最高を更新し続けています。
つまり、日本はすでに「健康寿命が延びた社会」の初期段階を経験しているのです。そして、その社会では「高齢者」の定義そのものが揺らいでいます。Klotho治療が実用化されれば、この揺らぎはさらに加速するでしょう。
「良く老いる権利」は、基本的人権なのでしょうか、それとも購入可能なサービスなのでしょうか?この問いに、私たちはまだ答えを持っていません。
時間の流れが変わるとき——社会は準備ができているか?
健康寿命が30年延びた社会を想像してみてください。現在の日本人の健康寿命は、男性が約73歳、女性が約75歳です(2019年時点)。これが100歳を超えるとしたら、私たちの人生設計はどう変わるでしょうか?
「教育」「労働」「引退」という従来の3ステージモデルは、もはや機能しなくなります。22歳で大学を卒業し、65歳で引退するという人生設計は、残り35年の健康な人生を前にして、あまりにも短絡的に見えるでしょう。70歳で第二のキャリアを始める、80歳で新しい学びに挑戦する——これが「普通」になるかもしれません。
しかし、それは本当に望ましい未来なのでしょうか?
日本の高齢就業者数は、2022年に912万人と過去最多を記録しました。65歳以上の就業率は25.2%で、主要国の中でも高い水準にあります。これは、日本がすでに「長く働く社会」へと移行しつつあることを示しています。
しかし同時に、新たな課題も浮上しています。世代間の競争、キャリアの停滞、若者の機会の減少です。健康で活動的な高齢者が増えることは、必ずしも全ての世代にとって好ましいことではないかもしれません。企業の重要なポストを70代、80代が占め続けたら、若い世代はどこで経験を積むのでしょうか?
さらに根本的な問いがあります。急ぐ必要がなくなった人類は、何を急ぐのでしょうか?
心理学者たちは、時間の有限性が人間に緊張感と意味を与えることを指摘しています。「いつか死ぬ」という事実が、今日という日を特別なものにしているのです。もし健康寿命が大幅に延びたら、私たちは物事を先延ばしにし、重要な決断を避け、人生の意味を見失うかもしれません。
あるいは、全く逆のことが起こるかもしれません。時間的余裕があるからこそ、私たちはより深く学び、より豊かな人間関係を築き、より大きな目標に挑戦できるのかもしれません。
どちらの未来が訪れるのか——それは、技術ではなく、私たち自身の選択にかかっています。
2025年、岐路に立つ私たち
現在、Klotho研究は重要な転換点にあります。今年2月の研究成果は、マウスでの概念実証を示しました。サルでの実験も成功しています。次は、人間です。
米国のバイオテクノロジー企業Klotho Neurosciences社は、ALS(筋萎縮性側索硬化症)治療を目的としたKlotho遺伝子治療の臨床試験を、来年2026年第3四半期に開始する予定です。これは「老化そのもの」を対象としたものではなく、特定の神経変性疾患への応用ですが、人間でのKlotho治療の最初の一歩となります。
しかし、ここで冷静に事実を確認する必要があります。マウスでの成功が、必ずしも人間での成功を意味するわけではありません。過去にも、動物実験で劇的な効果を示したが、人間では効果がなかった、あるいは予期せぬ副作用が現れた例は数多くあります。
さらに、長期的な安全性は未知数です。Klotho治療を受けた人が、10年後、20年後にどうなるのでしょうか?予期せぬ問題は生じないのでしょうか?私たちにはまだ、答えがありません。
それでも、研究は進み続けています。なぜなら、そこに希望があるからです。
アルツハイマー病、パーキンソン病、心血管疾患——これらの老化関連疾患に苦しむ人々にとって、Klotho研究は一筋の光です。健康寿命を延ばすことができれば、病気に苦しむ期間を短縮し、より多くの人がより長く、活動的な人生を送ることができるでしょう。
しかし同時に、私たちは慎重でなければなりません。技術が可能だからといって、それを無批判に受け入れるべきではありません。私たちには、立ち止まって考える責任があります。
運命の糸は、誰が紡ぐのか?
Klotho——生命の糸を紡ぐ女神の名を持つこの遺伝子は、人類に深遠な問いを突きつけています。
老いるとは何でしょうか?それは単なる身体の劣化なのでしょうか、それとも人間として成熟するための不可欠なプロセスなのでしょうか?もし老化を遅らせることができたとしても、私たちは「良い人生」の意味を理解しているのでしょうか?
技術は、道具に過ぎません。Klotho治療が実用化されても、それをどう使うかを決めるのは、私たち自身です。全ての人に公平に届けるのでしょうか、それとも一部の裕福な人々だけが享受するのでしょうか?健康寿命を延ばすことを目指すのでしょうか、それとも単に寿命を延ばすことに満足するのでしょうか?
1997年11月6日、偶然の発見から始まったKlotho研究は、28年の時を経て、私たちに選択を迫っています。
あなたは、どう老いたいですか?
あなたにとって「良い人生」とは、何でしょうか?
そして、私たちは未来の世代に、どんな社会を残したいのでしょうか?
答えは、実験室の中にはありません。答えは、私たち一人ひとりの対話の中にあります。Klothoが紡ぐ運命の糸は、技術ではなく、私たちの選択によって織りなされていくのです。
【Information】
参考リンク:
用語解説:
Klotho(クロトー)遺伝子 – 1997年に黒尾誠博士らが発見した、老化に関わる遺伝子。ギリシャ神話の運命の女神「クロトー」に由来します。主に腎臓で発現し、リン酸代謝やカルシウム代謝の調節に関与します。
健康寿命 – 日常生活に制限のない、健康な状態で過ごせる期間。平均寿命とは異なり、「健康に生きられる期間」を示します。日本人の健康寿命は男性約73歳、女性約75歳です(2019年時点)。
FGF23(線維芽細胞増殖因子23) – 骨から分泌されるホルモンで、Klothoタンパク質と結合して腎臓でリン酸排泄を促進します。Klothoはこのホルモンの受容体として機能します。
トランスジェニックマウス – 外部から特定の遺伝子を導入されたマウス。遺伝子の機能を研究するために用いられます。
























