東京大学がAIでマウスの痛みを表情から自動判定、数値化する技術を開発

[更新]2025年11月10日07:18

東京大学がAIでマウスの痛みを表情から自動判定、数値化する技術を開発 - innovaTopia - (イノベトピア)

東京大学大学院農学生命科学研究科の小林幸司特任講師と村田幸久准教授の研究グループは、AIを用いてマウスの表情から痛みを自動判定する技術を開発したと発表した。論文は2025年11月5日に学術誌『PNAS Nexus』で公開された。

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撮影したマウスから痛みを数値化(出所:日本経済新聞プレスリリース)

研究チームは畳み込みニューラルネットワークを活用し、BALB/c系統マウスの表情画像約54万枚を学習させた。AIモデルは酢酸、カプサイシン、CGRPといった異なる痛み刺激を正確に識別し、鎮痛薬ジクロフェナクの効果も数値化することに成功した。

Grad-CAMという可視化技術による解析の結果、AIは痛みなし状態では耳や頬、口に注目し、痛みあり状態では額や頭部に焦点を当てていることが明らかになった。本技術は従来のマウス・グリマス・スケールの課題であった観察者の主観や経験による評価のばらつきを解消し、動物福祉と創薬研究の信頼性向上に貢献する。

From: 文献リンク東大など、AI技術を応用しマウスの表情から痛みを自動判定する技術を開発

【編集部解説】

この研究が注目される背景には、創薬研究における大きな課題があります。新薬の開発には膨大な動物実験が必要ですが、実験動物の痛みを正確に評価することは想像以上に困難でした。

従来のマウス・グリマス・スケールは、研究者が目視でマウスの顔のしかめ方を観察し、5つの特徴(目の周りの締まり具合、鼻の膨らみ、頬の膨らみ、耳の位置、ひげの変化)を点数化する手法です。しかし、この方法には重大な限界がありました。評価者の熟練度によって結果がばらつき、長時間の観察には適さず、何より研究者の主観が入り込む余地があったのです。

今回開発されたAIシステムは、約54万枚という大量の画像データから学習することで、人間では見逃してしまうような微細な表情の変化まで捉えることができます。特筆すべきは、酢酸による内臓痛、カプサイシンによる熱痛、CGRPによる神経性疼痛という異なる種類の痛みを識別できる点でしょう。

Grad-CAMという可視化技術を用いた解析も興味深い発見をもたらしています。AIが痛みのない状態では耳や頬、口に注目する一方、痛みがある状態では額や頭部に焦点を当てていることが判明しました。これは人間の観察者が重視してきた領域とは異なり、AIが独自の判定基準を学習していることを示唆します。

この技術の意義は、動物福祉の「3Rs原則」のうち「Refinement(改善)」に大きく貢献する点にあります。実験動物の苦痛を最小限に抑えることは倫理的責務であり、同時に実験の質を高めることにもつながります。痛みを正確に評価できれば、必要最小限の鎮痛処置を適切なタイミングで施すことが可能になります。

創薬研究への影響も見逃せません。現在、動物実験で有効だった鎮痛薬が臨床試験で失敗するケースが多発しています。その一因として、動物の痛み評価が不正確であることが指摘されてきました。客観的で再現性の高い評価法が確立されれば、前臨床試験の信頼性が飛躍的に向上し、新薬開発の成功率改善が期待されます。

ただし、AIによる評価にも限界はあります。この技術は表情から読み取れる痛みに特化しており、内臓痛や慢性痛のように表情に現れにくい痛みの評価には課題が残ります。また、マウス以外の動物種への応用には追加の学習データが必要です。

将来的には、この技術を24時間モニタリングシステムに組み込むことで、実験動物の状態をリアルタイムで把握し、異常があれば即座に対応できる仕組みの構築が考えられます。動物実験の倫理性と科学的妥当性を同時に高める、まさに「Tech for Human Evolution」を体現する技術といえるでしょう。

【用語解説】

畳み込みニューラルネットワーク(CNN)
人間の脳神経を模したディープラーニングアルゴリズムの一種である。画像から自動的にパターンや特徴を抽出する能力に優れており、画像認識や物体検出の分野で広く活用されている。畳み込み層、プーリング層、全結合層などの複数の層で構成される。

マウス・グリマス・スケール(Mouse Grimace Scale)
2010年にカナダのマギル大学とブリティッシュコロンビア大学の研究チームが開発した、マウスの表情から痛みの程度を評価する手法である。目の閉じ方、鼻の膨らみ、頬の膨らみ、耳の位置、ひげの位置という5つの要素をスコア化する。

Grad-CAM(Gradient-weighted Class Activation Mapping)
AIが画像のどの部分に注目して判断を下したかを可視化する技術である。畳み込みニューラルネットワークの最終層から得られる勾配情報を利用し、重要度の高い領域をヒートマップとして表示することで、AIの判断根拠を人間が理解できるようにする。

CGRP(カルシトニン遺伝子関連ペプチド)
神経系に広く分布する神経伝達物質である。痛みの伝達と調節に重要な役割を果たし、特に神経障害性疼痛や片頭痛の発症メカニズムに深く関与している。

ジクロフェナク
非ステロイド性抗炎症薬(NSAIDs)に分類される鎮痛・解熱・抗炎症剤である。プロスタグランジンの生成を抑制することで、炎症や痛みを軽減する作用を持つ。

【参考リンク】

東京大学大学院農学生命科学研究科・農学部(外部)
食料、環境、生命に関する世界水準の教育・研究を推進する東京大学の農学系研究科

NC3Rs – National Centre for the 3Rs(外部)
英国に拠点を置く動物実験の代替・削減・改善(3Rs)を推進する国際的研究機関

【参考記事】

Automated pain assessment based on facial expression of free-moving mice(外部)
東京大学の研究チームによるAIを用いたマウスの表情から痛みを自動評価する技術の学術論文

PainSeeker: a head pose-invariant deep learning method(外部)
マウスの頭部の向きに依存しない痛み評価システムの開発に関する先行研究

A deep neural network to assess spontaneous pain from mouse facial expressions(外部)
2018年に発表された表情画像からの痛み検出におけるAIの有効性を示した先駆的な論文

【編集部後記】

動物たちの「痛み」を理解することは、私たち人間にとっても大きな意味を持ちます。言葉を話せない存在の苦痛をどう読み取るか——この課題は実験動物だけでなく、私たちが日々接するペットや、言葉で表現できない乳幼児、高齢者のケアにも通じる問題です。

AIが表情から痛みを読み取る技術は、医療や介護の現場にどのような変化をもたらすでしょうか。また、より効果的な鎮痛薬の開発が進めば、私たち自身や大切な人の苦痛を和らげることにもつながります。テクノロジーが「共感」や「ケア」という人間的な営みをどう支えていくのか、一緒に考えてみませんか。

投稿者アバター
omote
デザイン、ライティング、Web制作を行っています。AI分野と、ワクワクするような進化を遂げるロボティクス分野について関心を持っています。AIについては私自身子を持つ親として、技術や芸術、または精神面におけるAIと人との共存について、読者の皆さんと共に学び、考えていけたらと思っています。

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