フランシス・クリック研究所とVividion Therapeuticsの研究チームは、がん細胞の増殖を促すRAS遺伝子とPI3K酵素の相互作用を選択的に阻害する化合物「VVD-159642」を発見した。
RAS遺伝子の変異は約20%のがんで発生し、恒常的に細胞増殖シグナルを送り続ける。従来はPI3Kの完全阻害が高血糖などの副作用を引き起こしていたが、新化合物はRAS-PI3K結合部位のみを標的とし、インスリンシグナルなど他の機能は維持する。
RAS変異型肺腫瘍マウスでの試験では腫瘍増殖が停止し、血糖値上昇も見られなかった。乳がん関連のHER2変異を持つ腫瘍でも増殖抑制効果を確認した。研究成果は2025年10月9日にScience誌に発表され、現在RASおよびHER2変異患者を対象とした初のヒト臨床試験が進行中である。
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Breakthrough cancer therapy stops tumor growth without harming healthy cells
【編集部解説】
がん治療において、RAS遺伝子変異は長年「アンドラッガブル・ターゲット(創薬不可能な標的)」と呼ばれてきました。全がんの約20%でRAS変異が見られるにもかかわらず、これを直接阻害する薬剤開発は困難を極めてきたのです。
今回の研究が画期的なのは、RASそのものではなく、その下流のシグナル伝達経路を「選択的に」遮断する点にあります。従来のPI3K阻害剤は、がん細胞の増殖を抑える一方で、インスリンによる血糖調節機能も同時に阻害してしまいました。高血糖などの代謝系副作用が治療継続の大きな障壁となっていたのです。
新化合物VVD-159642の独創性は、PI3K酵素のRAS結合部位のみに共有結合することで、がん増殖シグナルだけを遮断する「分子レベルの精密さ」にあります。これにより、正常な代謝機能は維持されたまま、腫瘍の成長だけを選択的に停止させることが可能になりました。
さらに注目すべきは、HER2変異にも有効性を示した点です。HER2陽性乳がんは全乳がんの15〜20%を占め、既存の分子標的薬が存在しますが、耐性獲得が課題となっています。VVD-159642がRASとは独立したメカニズムでHER2陽性腫瘍にも作用することが確認されたことで、適応範囲が大幅に広がる可能性があります。
2025年4月にフェーズI臨床試験が開始され、現在進行中です。安全性の確認とともに、ソトラシブやトラメチニブといった他のRAS/MAPK経路標的薬との併用療法の有効性も評価されます。マウス実験では複数薬剤の併用により、単剤よりも強力で持続的な腫瘍抑制効果が得られており、人間でも同様の結果が期待されています。
この研究は、基礎科学と創薬化学の融合が、従来不可能とされてきた治療法を実現できることを示す好例と言えるでしょう。
【用語解説】
RAS遺伝子
細胞の増殖や分裂を制御する重要な遺伝子。正常な状態ではGTPと結合することで活性化し、シグナル伝達を行う。変異すると恒常的に活性化され、細胞に無制限な増殖指令を送り続ける。全がんの約20%でRAS遺伝子ファミリー(KRAS、NRAS、HRAS)のいずれかに変異が見られ、特に膵臓がん、大腸がん、肺がんで高頻度である。
PI3K(ホスファチジルイノシトール3キナーゼ)
RASの下流で働く酵素の一つで、細胞の成長、代謝、生存に関わる重要なシグナル伝達経路を制御する。がん細胞ではRASとの結合により過剰に活性化されるが、同時にインスリンシグナルを介した血糖調節にも関与するため、従来の阻害剤では高血糖などの副作用が問題となっていた。
HER2遺伝子
細胞表面の受容体タンパク質をコードする遺伝子。過剰発現や変異により細胞増殖シグナルが増幅される。乳がんの15〜20%、胃がんの約20%でHER2陽性とされ、トラスツズマブなどの分子標的薬が既に臨床使用されている。
共有結合型阻害剤
標的タンパク質と化学的に結合し、永久的に機能を阻害する薬剤。従来の可逆的阻害剤と異なり、標的との結合が強固で長時間効果が持続する。VVD-159642はPI3KのRAS結合部位に共有結合することで、選択的な阻害を実現している。
VVD-159642
Vividion Therapeuticsが開発したRAS-PI3Kα相互作用阻害剤。経口投与可能な低分子化合物で、2025年4月からフェーズI臨床試験(NCT06804824)が開始された。単剤療法のほか、ソトラシブやトラメチニブとの併用療法も評価されている。
Science誌
米国科学振興協会(AAAS)が発行する世界最高峰の学術誌の一つ。Nature誌と並び、科学界で最も権威ある査読付き学術誌とされ、掲載論文は厳格な審査を経る。
【参考リンク】
フランシス・クリック研究所(The Francis Crick Institute)(外部)
ロンドンに拠点を置く欧州最大規模の生物医学研究機関。1,500名以上の研究者を擁し、DNA二重らせん構造の共同発見者にちなんで命名された。
Vividion Therapeutics(外部)
カリフォルニア州サンディエゴに本社を置く臨床段階のバイオ医薬品企業。独自のケモプロテオミクスプラットフォームで「創薬不可能」とされた標的への治療薬を開発。
Science誌掲載論文:Covalent inhibitors of the PI3Kα RAS binding domain(外部)
PI3KαのRAS結合ドメインに対する共有結合型阻害剤の前臨床データを詳細に報告した原著論文。2025年10月9日にScience誌に掲載。
VVD-159642臨床試験情報(ClinicalTrials.gov)(外部)
米国国立医学図書館が運営する臨床試験登録サイト。VVD-159642のフェーズI試験の詳細情報、試験デザイン、対象患者、評価項目が確認できる。
【参考記事】
Vividion Therapeutics Doses First Patient in Phase I Study of RAS-PI3Kα Inhibitor(外部)
Vividion社の公式プレスリリース(2025年4月3日)。VVD-159642の臨床試験開始と初回患者投与を発表。併用療法の詳細も記載。
Vividion Announces Publication in Science of Preclinical Data on Covalent Inhibitors(外部)
Vividion社の公式プレスリリース(2025年10月9日)。Science誌掲載論文の詳細とRAS-PI3K相互作用阻害剤の前臨床データを報告。
Breakthrough in cancer therapy targets key protein interaction to suppress tumors(外部)
News Medical誌の報道(2025年10月9日)。PI3K阻害剤による副作用と新化合物の作用機序について科学的に解説している。
【編集部後記】
「アンドラッガブル・ターゲット」と呼ばれてきたRAS遺伝子変異への挑戦は、がん治療の最前線で長年続けられてきました。今回の研究は、標的そのものではなく「相互作用」に着目することで、不可能を可能に変えようとしています。
みなさんは、ご自身や大切な人ががん治療を受ける際、「効果」と「副作用」のどちらをより重視されるでしょうか。この新しいアプローチが臨床で実用化されれば、これまで二者択一だった選択肢に、第三の道が開かれるかもしれません。分子レベルの精密な設計が、患者さんの生活の質をどう変えていくのか。一緒に見守っていきたいと思います。























