脳コンピュータインターフェース(BCI)分野で、ニューヨーク拠点のSynchronとイーロン・マスクのNeuralinkが商業化に向けて競争している。Synchronは初期実行可能性試験で総計10名の患者を対象に実施し、オーストラリアで4名、米国で6名の患者が参加した。同社は2026年に30~50名を対象とした重要な臨床試験を予定している。
Synchronの脳インプラント受給者である65歳のMark Jacksonは、ペンシルベニア州ピッツバーグ在住でALS(筋萎縮性側索硬化症)患者である。彼はAmazon Alexaを脳の信号のみで操作することに成功し、BCI技術とAlexa統合の重要な事例となった。またApple Vision Pro、iPhone、iPadとの統合も実現している。
SynchronのStentrodeデバイスは16個の電極を搭載し、頸静脈を通じて運動皮質に挿入される血管内アプローチを採用している。開頭手術を必要としない点が特徴である。同社は創業以来総額1億4500万ドルを調達し、2022年12月のシリーズCで7500万ドルを調達した。一方、Neuralinkは総額13億ドルを調達している。
From: The Very Real Case for Brain-Computer Implants
【編集部解説】
脳コンピュータインターフェース(BCI)は、もはやSFの世界の話ではありません。現在、限られた数の患者が脳インプラントを装着していますが、この技術は着実に実用段階へと進んでいます。しかし、メディアの華々しい報道とは対照的に、現実の技術レベルは想像以上に地道で限定的なものです。
SynchronのStentrodeデバイスは16個の電極しか持たず、Neuralinkの1,000個の電極と比較すると大幅に少ない仕様となっています。これは「マウスより遅い操作速度」という現実的な制約を生み出しており、ユーザーは思考による単純なクリック動作や文字選択に留まっているのが実情です。
技術的アプローチの根本的相違
従来のUtah Array技術が抱える「開頭手術」「有線接続」「瘢痕組織による信号劣化」という三重の課題に対し、Synchronは血管内アプローチという革新的な解決策を提示しました。頸静脈を通じてデバイスを運動皮質まで導く手法は、心臓カテーテル手術の応用として理解できます。
一方、Neuralinkは脳組織に直接電極を挿入する侵襲的手法を採用し、より高精度な信号取得を目指しています。これは「スタジアム効果」と呼ばれる現象で説明できます。Synchronは「スタジアムの外から群衆の歓声を聞く」程度の粗い信号しか取得できませんが、Neuralinkは「スタジアム内の個別の会話」を捉えることが可能なのです。
既存エコシステムとの統合戦略
SynchronがApple Vision Pro、iPhone、iPad、Amazon Alexaとの統合を実現していることは、単なる技術統合を超えた戦略的意味を持ちます。既存のエコシステム内でBCIが機能することで、ユーザーは新たなデバイス習得の負担なく、思考による操作環境を獲得できるからです。
特にALS患者のように音声機能を失った方々にとって、これは革命的な変化となります。Mark Jacksonさんが実際に体験しているように、Apple Vision Proを通じて世界各地への仮想旅行が可能になることは、物理的制約を超えた新たな生活体験を提供しています。
AI技術による操作性向上
OpenAIのチャットボット技術との連携により、コミュニケーション支援機能が実現されています。予測型AI技術は、限られた脳信号から意図を推測し、より直感的な操作体験を提供する可能性を秘めています。
これは単なる機械翻訳ではなく、思考パターンの学習による意図予測システムとして機能し、将来的には個人の思考特性に最適化されたインターフェースの実現も期待されます。
規制環境と商業化への課題
現在のBCI規制環境は極めて複雑な状況にあります。医療機器としての安全性評価、データプライバシー保護、長期的な安全性確保など、複数の規制領域が交錯しています。
2026年に予定されているSynchronの重要な臨床試験(30-50名対象)は、商業化への重要なマイルストーンとなります。しかし、BCIの効果測定方法自体が確立されていないという根本的な問題があります。タイピング速度や操作精度といった技術的指標と、患者の生活の質(QOL)向上との相関関係は明確ではありません。
長期的展望:医療技術としての確立
イーロン・マスクが描く「トランスヒューマン的未来」は現時点では非現実的ですが、医療分野での応用拡大は確実に進行しています。重要なのは、現在の技術が「失われた機能の回復」に焦点を当てている点です。
健常者の能力拡張ではなく、ALS、脊髄損傷、脳卒中患者の「デジタル自律性」回復こそが、BCI技術の真の価値なのです。技術の民主化と普及には、まだ数年から十年単位の時間が必要でしょう。しかし、その歩みは着実に進んでおり、2025年は「概念実証」から「実用的医療技術」への転換点として記録される可能性が高いのです。
【用語解説】
BCI(Brain-Computer Interface / 脳コンピュータインターフェース)
脳の神経信号を直接コンピュータに送信し、思考のみでデジタルデバイスを制御する技術である。脳機械インターフェース(BMI)とも呼ばれる。
Utah Array
BCI研究で20年以上使用されてきた従来型の脳インプラント装置である。約100本の金属スパイクを持つミニヘアブラシ状の形状で、脳組織に直接挿入される。開頭手術が必要で、有線接続のため実用性に課題がある。
運動皮質(Motor Cortex)
脳の前頭葉にある領域で、身体の運動機能を制御する中枢である。BCIはこの部分の神経信号を読み取り、動作意図を解析してコンピュータコマンドに変換する。
ALS(筋萎縮性側索硬化症)
ルー・ゲーリッグ病とも呼ばれる神経変性疾患である。運動神経細胞が徐々に失われ、筋肉の萎縮と麻痺が進行する。最終的に呼吸筋も侵され、人工呼吸器が必要となる場合が多い。
頸静脈アプローチ
Synchronが採用する低侵襲手術手法である。首の頸静脈からカテーテルを挿入し、血管内を通って脳の運動皮質近くまでデバイスを配置する。開頭手術が不要な点が画期的である。
Stentrode
Synchronが開発したBCIデバイスの名称である。心臓カテーテル手術で使用されるステント技術を応用し、16個の電極を搭載した血管内デバイスとして設計されている。
スタジアム効果
BCI研究で使用される比喩表現である。Neuralinkのような脳組織直接接触型は「スタジアム内の個別会話」レベルの精密な信号を取得でき、Synchronのような血管内型は「スタジアム外からの群衆の歓声」程度の大まかな信号しか捉えられないことを示す。
開頭手術(Craniotomy)
頭蓋骨の一部を一時的に除去して脳にアクセスする外科手術である。従来のUtah ArrayやNeuralinkのBCI埋め込みには必須だが、感染リスクや回復期間の長さが課題となっている。
【参考リンク】
Synchron(外部)
血管内アプローチによる低侵襲BCIシステムStentrodeの開発で注目を集める医療技術企業
Neuralink(外部)
イーロン・マスクが創設した神経技術企業で超高帯域幅の脳機械インターフェースを開発
Apple Vision Pro(外部)
拡張現実と仮想現実を融合した革新的な体験を提供するAppleの空間コンピューティングデバイス
Amazon Alexa(外部)
音楽再生やスマートホーム制御など多様な機能を提供するAmazonの音声アシスタント技術
ChatGPT(外部)
テキスト生成や対話支援機能を備えOpenAIが開発したAIチャットボットアプリ
【参考動画】
【編集部後記】
脳コンピュータインターフェースという技術が、いよいよSFの世界から現実の医療現場へと歩み出しています。Mark Jacksonさんのように、思考だけでApple Vision Proを操作し、新たな世界を体験できる時代がもう目の前にあるのです。
皆さんはこの技術の進歩を見て、どんな可能性を感じられるでしょうか。もし身近な方が同じような状況に直面したとき、この技術はどのような希望をもたらすと思われますか。また、健常者である私たちにとって、BCIが将来どのような形で生活に溶け込んでいくのか、想像してみていただけませんか。
テクノロジーの真の価値は、人間の尊厳と自律性を回復させることにあるのかもしれません。私たちinnovaTopia編集部も、読者の皆さんと一緒にこの技術革新の意味を考え続けていきたいと思っています。