欧州宇宙機関(ESA)がフィンランド企業 Solar Foods と共同で、長期宇宙ミッション向けの食料生産プロジェクト「HOBI-WAN」(Hydrogen Oxidizing Bacteria In Weightlessness As a source of Nutrition)の研究段階を開始した。
本プロジェクトの中心となるのは、水素酸化バクテリアを使用して製造されるタンパク質パウダー「Solein」である。電気分解した水素と酸素、微量栄養素を用いてバクテリアを発酵させることで、限定的なリソースから高栄養価の食料を生成する技術となる。
最初の8カ月間のフェーズでは地上版の開発が行われ、成功時には続く段階で国際宇宙ステーション(ISS)への打ち上げを目指した飛行モデルが製造される予定である。主契約者のドイツの航空宇宙企業 OHB System AG が Solar Foods との契約を締結した。ISS 上での実験は標準的なミッドデックロッカーに配置され、バイオリアクター、インキュベーター、センサー、制御ユニット、サンプル抽出システムなどが組み込まれる。
本プロジェクトは ESA の Terrae Novae 探査プログラムに分類され、低地球軌道から月、火星に至る人類の宇宙進出戦略の一環として位置付けられている。Solar Foods は 2024 年 8 月にNASA Deep Space Food Challenge Phase 3 の優勝チームの1つとして選定されており、その技術は国際的にも評価されている。
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ESA tests bacterial powder to feed Moon and Mars crews
【編集部解説】
宇宙での食料確保という古くから存在する課題が、微生物工学によって劇的に解決へ向かおうとしています。ESA が今月発表した HOBI-WAN プロジェクトは、長期宇宙ミッションの現実的な制約を直視した、極めて実用的なアプローチだといえます。
往復ミッション全体で 2.5 年から 3 年近くに及ぶ火星への有人探査を想定すると、地球からの補給ルート上ではほぼ不可能な状況で、乗組員を食べさせ続ける必要があります。一方、Solar Foods が開発した Solein は、宇宙船から「捨てている」ものを食料に変えるという逆転の発想に基づいています。具体的には、酸素生成システムから排出される水素、乗組員の呼吸による二酸化炭素、そして廃液から回収される窒素源など、すべてが微生物の餌となるのです。
このプロセスがなぜ革新的であるのかを理解するには、微重力環境での物理的制約を認識する必要があります。地球では穀物の栽培に土壌と広大な農地が必要ですが、宇宙ステーション内のミッドデックロッカーという限定的なスペースで、完全なタンパク質を生産できる可能性が示唆されています。
Solar Foods は 2024 年 8 月の NASA「Deep Space Food Challenge」Phase 3 で優勝チームの1つとして選定されておりその技術的妥当性は既に国際的な評価を得ています。一方で、今回の ESA プロジェクトでは別の重要な問題に着目しています。それは、地上で検証された微生物の生成プロセスが、実際の微重力環境でどう振る舞うかという点です。バイオリアクター内での液体の挙動、気体の分散、温度管理—これらすべてが地球と異なる物理現象を示す可能性があります。
8 カ月間の地上テスト段階を経た後、ISS 上での実証実験へ進む計画です。この二段構えのアプローチは、プロジェクト管理の現実的な手法といえます。仮に ISS 実験が成功すれば、月面基地や火星到着時点での自給自足食料システム構想は、もはや完全な SF ではなく、工学上の課題へと転換されるでしょう。
同時に、この技術が地球上でも意義を持つ点を見落としてはいけません。Solein は既にシンガポールで食品として認可されており、米国では 2024年9月に自己宣言によるGRAS認証を取得しています。また、GRAS認証の異議なし通知(no questions letter)の取得を目的として、2025年9月16日にFDA(米国食品医薬品局)へのGRAS通知を提出中です。つまり、このプロジェクトは国際宇宙ステーション上の実験に限定されず、食糧不安を抱える地域での生産システム転用も視野に入っています。水や土地に恵まれない環境、あるいは気候変動による農業の不安定化が深刻な地域での応用が想定されているのです。
潜在的なリスク要因として、微生物の安全性管理があります。無重力環境での培養中に予期しない変異が生じた場合、あるいは汚染菌が混入した場合、乗組員の健康に直結する事態が発生する可能性があります。こうした懸念に対しては、ISS 上の隔離されたバイオリアクターユニットという物理的制約が、ある程度の安全対策として機能するでしょう。
規制面では、宇宙での微生物培養技術がどのカテゴリに分類されるのか、国際宇宙法上の議論がまだ十分に成熟していない状況があります。ESA がこの実験を遂行する際には、各国間での規制調整も同時進行で必要とされるでしょう。
長期的視点では、このプロジェクトが成功すれば、人類の宇宙進出モデルそのものが変わる可能性があります。地球への依存度を下げた、より自律的な宇宙探査体制の構築へ向けて、今回の HOBI-WAN 実験は象徴的な一歩となり得るのです。
【用語解説】
HOBI-WAN
Hydrogen Oxidizing Bacteria In Weightlessness As a source of Nutrition の頭字語。ESA が開発している宇宙用食料システムのプロジェクト名。水素酸化バクテリアを用いて、限定的なリソースから栄養価の高い食料を生産することを目指している。
Solein
Solar Foodsが開発した微生物タンパク質。二酸化炭素、水素、微量のミネラルを使用し、発酵によって生産される。タンパク質含有量は約78-80%で、9種の必須アミノ酸をすべて含む完全タンパク質である。動物性原料不使用、グルテンフリーで、ハラールおよびコーシャ認証を取得している。
OHB System AG
ドイツの航空宇宙企業。このプロジェクトの主契約者として、Solar Foods と契約を締結し、ISS 上での実験体制を構築している。
Terrae Novae(テッラエ・ノウァエ)
ESA の探査プログラム。低地球軌道、月、火星における人間による宇宙活動と科学的調査を統合的に推進する長期戦略である。環境、科学、経済的利益、国際協力、そして人類の未来への啓発を目的としている。
GRAS 認定
米国食品医薬品局(FDA)が定める食品添加物の安全性基準。「一般的に安全と認められる」物質に対する認証で、Soleinは2024年9月に自己宣言によるGRAS認証を取得し、米国市場での販売が可能となった。
【参考リンク】
Solar Foods 公式サイト(外部)
フィンランドの食品テック企業。Soleinという持続可能なタンパク質を開発・製造。電気、水、窒素から微生物を発酵させて食料を生産。
Solein 製品情報(外部)
Solar Foods社が開発したタンパク質パウダー「Solein」の詳細情報。成分、製造プロセス、地球と宇宙での応用について掲載。
ESA Terrae Novae 探査プログラム(外部)
欧州宇宙機関の統合探査プログラム。低地球軌道から月、火星に至る人類の宇宙進出戦略を展開。
【参考動画】
【参考記事】
NASA Awards $1.25 Million to Three Teams at Deep Space Food Finale(外部)
2024年11月4日にNASAが発表した記事。Deep Space Food Challenge Phase 3の最終段階で、複数チームが賞金総額の一部を授与されたを授与。
Deep Space Food Challenge (2021–2024) – Official Program Overview(外部)
NASA公式による総括。火星ミッション期間設定と食料生産システムの必要性が強調。往復ミッション2.5~3年を想定。
Solar Foods one of the Phase III winners of NASA Deep Space Food Challenge(外部)
Solar Foods公式による受賞発表記事(2024年8月19日)。Soleinの技術的妥当性がNASAによって国際的に認定。
ESA Terrae Novae Exploration Strategy 2040(外部)
ESA主催の欧州惑星科学会議における探査戦略資料。2030~2040年の長期ビジョンと月・火星探査への道筋を記載。
Solar Foods produces first Solein-based product(外部)
2025年3月17日の記事。Solar Foods製品商用化「Solein Protein Bites」のアメリカ市場発売、GRAS認定取得、Factory 01稼働などのマイルストーン。
Finnish food tech takes a giant leap: Solar Foods wins international category(外部)
2024年NASA Deep Space Food Challenge国際部門でのSolar Foods優勝報道。フィンランド企業の国際的認定と地球への波及効果を分析。
New mission to boldly grow food in space labs blasts off – Brussels Times(外部)
2025年11月2日の記事。ESA HOBI-WAN プロジェクト発表、8カ月地上テスト、ISS実験の構成要素を詳述。
【編集部後記】
宇宙での食料確保という課題は、遠い未来の話ではなく、すでに各国で本気で取り組まれている現実です。バクテリアから、植物工場、さらには培養肉まで複数のアプローチが同時進行で研究されています。
こうした技術が完成した暁には、地球の食糧問題解決にも応用される可能性があります。長期宇宙ミッションの実現を通じて、人類全体の食のあり方がどう変わるのか。その可能性を、皆さんと共に考えていけたらと思います。
























