フクロオオカミの最期が問いかける人類への警鐘
1936年9月7日、オーストラリア・タスマニア州のホバート動物園で、一頭の動物がひっそりと息を引き取りました。ベンジャミンと名付けられていたフクロオオカミの最後の一頭でした。この日を境に、地球上からフクロオオカミという種は完全に姿を消したのです。フクロオオカミが絶滅してから60年後の1996年にこの記念日が制定されたのは、私たちが二度と同じ過ちを犯さないための誓いでもあります。
この日が「絶滅危惧種デー」となったのは、単に悲劇的な出来事を記念するためではありません。絶滅危惧種に対する理解を深めてもらうことが目的であり、人類が生物多様性の破壊者でありながら、同時にその守護者にもなり得るという複雑な立場を自覚させるためなのです。
絶滅危惧種を守る理由―単なる感傷を超えた合理性
なぜ絶滅危惧種を保護しなければならないのでしょうか。この問いに対する答えは、感傷や美学の領域を遥かに超えた、人類の生存戦略そのものにあります。
生物多様性は、私たちが享受している「生態系サービス」の基盤です。私たちの暮らしは食料や水の供給、気候の安定など、生物多様性を基盤とする生態系から得られる恵みによって支えられています。これらのサービスは「供給サービス」「調整サービス」「文化的サービス」「基盤サービス」の4つに分類されます。
考えてみてください。私たちの呼吸に必要な酸素は、植物の光合成により生み出されています。5万~7万種の植物が医薬品の組成に貢献しているのです。つまり、一つの種の絶滅は、人類が未来に手にするはずだった可能性の消失を意味します。これは決して抽象的な損失ではなく、極めて具体的な機会費用なのです。
身近に潜む危機―日本の絶滅危惧種たち
絶滅危惧種と聞けば、多くの方はパンダやトラといった遠い国の動物を思い浮かべることでしょう。しかし、危機は私たちのすぐ足元にも迫っているのです。
かつて「めだかの学校」で親しまれた日本人にとって最も身近な魚の一つが、今や環境省レッドリストで絶滅危惧II類に指定されています。水環境の悪化や農村環境の開発、外来魚類の補食などの影響を強く受けて、全国的に激減してしまいました。
ニホンウナギもまた、国際自然保護連合(IUCN)が2014年より絶滅危惧種(IB類)に指定しています。土用の丑の日の風習さえ危機に瀕しているのです。
東京では、メダカのすみかだった田んぼや小川はほとんどなくなってしまいました。都市化の進展は、生物多様性の基盤となる生息地そのものを消滅させています。私たちは便利さと引き換えに、何世代にもわたって共存してきた隣人たちを失いつつあるのです。
カブトガニが示す生命の価値―医療を支える「生きた化石」
絶滅危惧種の中には、人類にとって計り知れない価値を持つ種も存在します。その代表例がカブトガニです。
カブトガニ類は「生きている化石」とも呼ばれ、約2億年前から、その姿をほとんど変えず生きてきました。しかし、この古代から続く生命が現代医療に不可欠な存在となっているのです。カブトガニの血液中には細かい顆粒を多く含んでいるアメーバ細胞(amebocyte)が存在しており、エンドトキシンと反応して凝固が起こります。
この特性を利用したLAL試験(リムルス試験)は、医薬品中のパイロジェンの検出に用いられ、日本薬局方、米国薬局方および欧州薬局方に記載されています。つまり、私たちが安全な医薬品を使用できるのは、2億年間姿を変えなかった古代の生物のおかげなのです。
現在では環境汚染や埋め立てによって各地でその数を激減させているカブトガニ。カブトガニからの血液採取では3%程度の個体は死んでしまいますが、その他は捕獲した場所から少し離れた海へリリースされます。まさに「献血」によって人類の医療を支えているのです。
先人からの恩恵と未来への責任
私たちは、先人たちが築いた文明の大河の中をたゆたっているにすぎません。この大河は、人類だけが作り上げたものではありません。40億年にわたる生命の歴史、無数の種との共進化、そして地球システム全体の調和の上に成り立っているのです。
仏教思想でいう「縁起」の概念は、すべての存在が相互に依存し合って成り立っていることを示しています。私たちと他の生物との関係もまた、この深い相互依存の網の目の一部なのです。たまたま私たちは、この複雑な生命のネットワークの交差点で他の生物と出会い、その恩恵を受けて生きています。
地球上に最初の生命が誕生した40億年も昔に始まり、世代を重ね、親から子へと引き継がれながら、進化の道のりをたどってきました。この長大な歴史の流れの中で、私たちは一瞬の存在でしかありません。だからこそ、この流れを断ち切る権利も、使い果たす権利もないのです。
現在の生物多様性危機の状況は、1970〜2018年の間に、世界の脊椎動物の多様性は平均69%減少し、とりわけ淡水域の生物多様性は83%減少するという深刻な状況にあります。これは地質学的時間スケールで見れば一瞬の出来事ですが、その影響は数百万年にわたって続くでしょう。
今日という日に考えるべきこと
9月7日の絶滅危惧種デーは、私たちに深い内省を促します。この日は、フクロオオカミという一つの種の終焉を悼む日であると同時に、私たちが先人から受け継いだ地球という共有財産について考える日でもあるのです。
生物多様性は、地球上で長い時間をかけてつくられたかけがえのない貴重なもので、それ自体に大きな価値があり、保全すべきものです。しかし、それは単なる保護主義的な発想ではありません。直接的に生物資源を扱わない事業活動であっても、間接的に生物多様性の恩恵を受け、あるいは、生物多様性に影響を与えているのが現実なのです。
私たちが今日使うスマートフォンの部品、朝食で食べるパンの小麦、呼吸している酸素—すべてが生物多様性という巨大なシステムの産物です。そのシステムを維持し、未来の世代に引き継ぐことは、現代を生きる私たちの責務なのです。
絶滅危惧種を守ることは、「珍しいもの」や「可愛いもの」を保護する感傷的な行為ではありません。それは、40億年にわたって蓄積されてきた地球の知恵と可能性を、未来に引き継ぐための合理的で戦略的な選択なのです。この日に、私たちは改めて自分たちの立ち位置を確認し、先人たちの恩恵と地球という奇跡への感謝を新たにしなければなりません。
【Information】
National Threatened Species Day – WWF-Australia(外部)
オーストラリアで9月7日に制定されている「National Threatened Species Day」について紹介。WWF-Australiaが提供する“My Backyard”ツールでは、あなたの近所にどんな絶滅危惧種がいるのかを調べ、それらの保護状況を学ぶことができます。
Day of the Species – art activism initiative(外部)
「Day of the Species」というアートを通じた活動では、9月7日の「National Threatened Species Day」に合わせ、オーストラリアの絶滅危惧種を1枚1枚、手描きのカードに描いて共有するプロジェクトを紹介。2025年7月時点で2,055種を描き出す取り組みとして注目されています。
Endangered Species Coalition(外部)
「絶滅危惧種デー」(主に米国での“Endangered Species Day”)に向けたオンラインでできる15のアクティビティを紹介。ハッシュタグ投稿、チョークアート、バーチャルツアー、科学リサーチ支援(Zooniverse)、教育プログラム(National Geographicなど)など多様な参加方法が掲載されています。