NASAとGoogleは、長期宇宙ミッションにおけるクルーの健康維持のため提携した。両者はAIを活用した自動化臨床意思決定支援システム(CDSS)である「クルー医療担当官デジタルアシスタント」(CMO-DA)の概念実証を進めている。CMO-DAは、地球との通信が制限された状況で宇宙飛行士による自律的な診断と治療を支援する。初期試験では信頼性の高い診断を得られる可能性が示された。この技術は、NASAのアルテミス計画における月や、早くとも2030年代に計画される火星へのミッションでの使用を視野に開発されている。
From: NASA and Google are testing an AI space doctor
【編集部解説】
NASAとGoogleによる「AI宇宙ドクター」の開発。このニュースを聞いて多くの人がAIの診断能力に注目するかもしれませんが、このプロジェクトの本質は、人類がこれまで直面したことのない、極めて過酷な条件下での「情報処理の挑戦」にあります。
最大の課題は、AIの学習に不可欠な「医療データ」そのものです。AIの精度は学習データの量と質に依存しますが、「宇宙空間で人間が罹患した病気」のデータは絶対的に不足しています。地球上の膨大な医療データも、微小重力下で体液の分布や骨密度まで変わってしまう宇宙飛行士の身体には、そのまま適用できないのです。この「データ格差」を埋めるため、シミュレーションデータの生成や、地球のデータに宇宙環境の変数を加味して補正するような、高度なAI技術が不可欠となります。
次に、「マルチモーダルAI」の真価が問われます。このAIドクターは、宇宙飛行士が話す症状(音声・言語)だけでなく、船内のカメラが捉えた顔色や患部の様子(画像)、宇宙服に搭載されたバイタルセンサーの時系列データ、さらには船内の気圧や放射線量といった環境データまで、多種多様な情報を同時に統合・分析する必要があります。「咳が出た」という事象一つでも、それが船内の空気汚染によるものか、感染症なのかを、あらゆる情報を組み合わせて判断する。これはまさに、究極のデータフュージョン技術と言えるでしょう。
さらに、この高度なAIは、地球上のスーパーコンピュータではなく、宇宙船内で完結する「エッジデバイス」で稼働しなければなりません。火星との通信には最大20分以上の遅延があるため、診断のたびに地球に問い合わせることは不可能です。限られた計算能力と電力の中で、巨大なAIモデルを効率的に動かす技術。これは、自動運転車やスマートファクトリーなど、地上のあらゆるエッジAI技術にとっても究極の目標です。
このプロジェクトは、単に宇宙飛行士の健康を守るだけでなく、「データが極端に少ない」「多様な情報を統合する必要がある」「通信や計算資源が限られている」という、地上の医療や災害現場が抱える課題の縮図でもあります。宇宙という究極の環境でこれらの技術課題を克服した先には、私たちの社会の医療を大きく進化させる答えが待っているのかもしれません。
【用語解説】
臨床意思決定支援システム(CDSS)
膨大な医療データや最新の研究論文などを基に、患者の症状に合わせた診断候補や治療計画などを医師に提示し、意思決定を支援するコンピュータシステムのことである。医療の質の向上やヒューマンエラーの削減に貢献する。
フライトサージャン
航空宇宙医学の専門家であり、宇宙飛行士の健康管理を地上から担当する医師のことだ。ミッション前の健康評価から、宇宙滞在中のリアルタイムモニタリング、地球帰還後のリハビリテーションまで、その役割は多岐にわたる。
深宇宙(Deep Space)
地球低軌道(ISSなどが周回する高度約400kmの軌道)を越えた、月や火星などを含むさらに遠方の宇宙空間を指す。地球からの距離が離れることで、通信遅延や物資補給の困難さ、宇宙放射線による被ばくリスクなどが飛躍的に増大する。
マルチモーダルインターフェース
テキスト、音声、画像、センサーデータなど、複数の異なる種類の情報を入出力できるユーザーインターフェースのことである。これにより、宇宙飛行士は状況に応じて最適な方法でAIと対話し、情報を得ることが可能になる。
【参考リンク】
【参考動画】
【参考記事】
【編集部後記】
今回のニュースは、宇宙開発という最先端の挑戦が、実は私たちの未来の医療と地続きであることを教えてくれます。地球から最も遠い場所で人を救うための技術は、いずれ私たちのすぐ側で、大切な誰かを救う力として、地上の医療技術に恩恵をもたらしてくれるかもしれません。