米国司法省監察総監は2025年6月27日、シナロア・カルテルが2018年にハッカーを雇用してFBI情報提供者を追跡・殺害していた事実を47ページの監査報告書で公表した。ハッカーはメキシコシティの米国大使館周辺を監視し、FBI副法務アタッシェを含む関心人物を特定した。電話番号から通話記録と位置情報を取得し、メキシコシティの監視カメラシステムを悪用してFBI職員を追跡、接触相手を特定した。カルテルはこの情報で潜在的情報源や協力証人を脅迫し、一部を殺害した。
シナロア・カルテル創設者のホアキン・グスマン(エル・チャポ)は2019年7月17日に終身刑と126億ドル(約1.3兆円)の罰金判決を受け、現在コロラド州ADXフローレンス刑務所で服役中である。カルテルは2025年初頭にトランプ政権によってテロ組織指定され、米国は息子2人に1000万ドルの懸賞金をかけている。他の息子2人は米国拘束下にある。報告書は現代技術がデータマイニング、顔認識、ネットワーク攻撃により法執行機関の活動特定を容易にしていると警告している。
【編集部解説】
今回の事件は、私たちが普段何気なく利用している監視カメラや携帯電話のデジタルインフラが、いかに危険な武器として悪用される可能性があるかを浮き彫りにした象徴的な事例です。
メキシコのシナロア・カルテルが2018年に実行したこの作戦は、単なる犯罪組織によるハッキングの域を超えた、極めて高度なサイバー諜報活動でした。ハッカーは米国大使館周辺の人の出入りを観察し、FBI副法務アタッシェという重要なターゲットを特定、その携帯電話の通話記録と位置情報を入手し、さらにメキシコシティ全域の監視カメラネットワークを悪用して継続的な追跡を行ったのです。
この事件の技術的な恐ろしさは、現代の都市インフラそのものが巨大な監視装置として機能してしまったことにあります。監視カメラは本来、市民の安全を守るために設置されたものですが、犯罪組織の手に渡ることで人々の命を奪う道具に変貌しました。携帯電話の位置情報や通話記録も同様で、私たちの日常的なコミュニケーション手段が、敵対者にとっては貴重な情報源となったのです。
司法省監察総監は今回の報告書で「Ubiquitous Technical Surveillance(遍在する技術監視)」という概念を示しました。これは、私たちの周囲にある無数のセンサー、カメラ、通信機器が生成する膨大なデータが、悪意ある者によって容易に収集・分析される状況を表す専門用語です。データマイニング、顔認識技術、ネットワーク侵入技術の進歩により、国家レベルの敵対者だけでなく、テロ組織や犯罪ネットワークでも、法執行機関の職員や作戦を特定することが可能になっています。
この脅威に対し、FBIは「Tier 1 Enterprise Risk(第1級企業リスク)」として対応を強化していますが、問題の根深さは技術の進歩速度と規制整備の格差にあります。商用データブローカーが合法的に収集・販売する位置情報データや、ソーシャルメディアの公開情報、IoTデバイスから漏洩するデータなど、従来の法執行機関の想定を超えた情報源が犯罪者にも利用可能になっているからです。
一方で、この技術は適切に活用されれば、法執行機関にとって強力な捜査ツールにもなり得ます。実際、米国の法執行機関も同様の技術を活用して犯罪組織の摘発を行っており、両者の間でサイバー技術を巡る「軍拡競争」が展開されているのが現状です。
今後の課題は、プライバシー保護と安全保障のバランスをいかに取るかです。過度な監視社会は民主主義の基盤を脅かしますが、技術的脅威への対応を怠れば、法執行機関の活動や市民の安全が危険にさらされます。特に日本のように、スマートシティ構想を推進し、5Gネットワークや IoTデバイスの普及を図る国々では、こうした脅威への対策が急務となっています。
この事件は、デジタル技術の恩恵を享受しながらも、その裏に潜む深刻なリスクと真摯に向き合う必要性を私たちに突きつけているのです。
【用語解説】
Ubiquitous Technical Surveillance(UTS)
遍在する技術監視。現代社会に無数に存在する監視カメラ、センサー、通信機器が生成する膨大なデータが、敵対者によって容易に収集・分析される状況を指す。FBIが新たに定義した脅威概念。
Assistant Legal Attaché(ALA)
FBI副法務アタッシェ。海外の米国大使館に駐在し、現地の法執行機関との連携や情報収集を担当するFBI職員。国際犯罪捜査において重要な役割を果たす。
ADXフローレンス刑務所
コロラド州にある米国最高警備レベルの連邦刑務所。1994年開設以来脱獄者ゼロを誇る「スーパーマックス」と呼ばれる施設。テロリストや重要犯罪者を収容している。
データマイニング
大量のデータから有用なパターンや関係性を発見する技術。犯罪組織も法執行機関の行動パターン分析に活用している。
Tier 1 Enterprise Risk
FBI内で最高レベルに分類される組織全体のリスク。UTSの脅威がこのレベルに指定され、FBI全体での対応が義務付けられている。
【参考リンク】
FBI(連邦捜査局)(外部)
米国の主要な連邦法執行機関。国内外の犯罪捜査、テロ対策、サイバーセキュリティを担当
米国国務省(外部)
米国の外交政策を担当する省庁。海外のテロ組織や犯罪組織の指定、制裁措置を実施
【参考記事】
Sinaloa cartel used phone data and surveillance cameras to find FBI informants, DOJ says(外部)
ロイター通信による第一報。司法省監察総監の監査報告書の内容を詳細に報道
Mexican drug cartel used hacker to track FBI official, then killed potential FBI informants, government audit says(外部)
CNNによる詳細分析記事。カルテルの技術的能力の高さと若い世代の麻薬王について分析
Hacker helped kill FBI sources, witnesses in El Chapo case, according to watchdog report(外部)
CyberScoopによるサイバーセキュリティ専門誌の報道。UTS脅威とFBI対策の不備を詳細分析
Drug lords hired cybersnoop to ID and kill FBI informants(外部)
The Registerによる技術的観点からの分析記事。ハッカーの技術的手法について詳細説明
Sinaloa cartel hacked security cameras to track and kill FBI informants, US says(外部)
The Guardianによる国際的観点からの報道。メキシコの監視カメラシステムの脆弱性を分析
【編集部後記】
私たちが当たり前のように使っているスマートフォンや街角の監視カメラが、ここまで恐ろしい武器に変わり得るとは想像していませんでした。
特に衝撃的だったのは、ハッカーがメキシコシティ全体の監視カメラネットワークを自在に操り、FBI職員を追跡していたという事実です。もしこれが東京や大阪で起きたらどうでしょうか?私たちの日常生活そのものが、見えない敵によって丸裸にされてしまう可能性があるのです。これはもはやSF映画の話ではありません。現実に起きている脅威なのです。
読者の皆さんも今一度、ご自身のデジタルライフを見つめ直してみてはいかがでしょうか。私たちの安全は、もはや他人事ではないのですから。