Orbital Arc、電力効率40%向上の新型イオンスラスター|防虫剤の主成分を宇宙への燃料に

[更新]2025年11月12日

Orbital Arc、電力効率40%向上の新型イオンスラスター|防虫剤の主成分を宇宙への燃料に - innovaTopia - (イノベトピア)

スタートアップ企業Orbital Arcが、ナノチップとナフタレンを使用した新型イオンスラスターを開発している。

創業者ジョナサン・ハフマン氏によれば、この技術は従来のスラスターと比較して最大で電力効率が30〜40%向上し、燃料コストは約2000分の1、重量は8分の1になるという。ナフタレンは石油精製所の副産物で1キログラムあたり約1.50ドルと、キセノンの約3000ドルに比べて大幅に安価である。現在オークリッジ国立研究所のクリーンルームで製造された4つのプロトタイプをテストしており、各チップには6本のマイクロメートルスケールの帯電チップが埋め込まれている。

最近のテストでは、6本のチップが、MITが開発した約32万本のエミッターを持つチップアレイの約3倍のイオン電流を生成した。ハフマン氏は2年後には販売可能な製品が完成すると見込んでいる。

From: 文献リンクStartup Using Nanotips and Naphthalene for New Satellite Thruster – IEEE Spectrum

【編集部解説】

この技術の最大の特徴は、従来のプラズマ生成プロセスを完全に回避している点にあります。ホールスラスターなどの既存システムでは、プラズマ内で自由電子がイオンと再結合して中性原子に戻ってしまうことで、せっかく投入したエネルギーが無駄になるという課題がありました。Orbital Arcの設計は、ナノスケールのチップによる電界放出を利用することで、この損失を根本から排除しています。

燃料にナフタレンを選択した理由は、単なるコスト削減だけではありません。この技術は分子結合を破壊せずにイオン化できるため、従来のプラズマ方式では使えなかった多様な燃料が選択肢に入ってきます。実は当初の設計では六フッ化硫黄も検討されていましたが、ナフタレンは石油精製の副産物として大量に入手可能で、取り扱いも比較的安全です。

気になるのは、わずか6本のチップで、MITが開発した約32万本のエミッターを持つチップアレイの3倍ものイオン電流を生成したという主張です。これが事実ならスケールアップした際のポテンシャルは計り知れません。実証データの公開が待たれる状況です。

宇宙推進の世界では、推進剤のコストが大きな障壁となってきました。キセノンは1キログラムあたり約2000〜3000ドル(2025年6月には2966ドル)、クリプトンは約185ドルですが、ナフタレンは1.50ドルという破格の安さです。近年、衛星コンステレーションの運用者はヨウ素やクリプトンといった代替推進剤によるコスト削減を模索しており、燃料革新は業界全体の重要課題となっています。

技術的なリスクとしては、ナノチップ表面へのナフタレン残留物の蓄積が懸念されます。ハフマン氏自身もLinkedInでの議論で、完全な分子イオン化が実現できない場合、断片化したイオンがチップ材料と反応して性能低下を引き起こす可能性を認めています。長期耐久性テストはこれからの課題となります。

興味深いのは、この技術の起源がビデオゲームのデザイン依頼だったという点です。ハフマン氏は質量分析計で使われていた電界放出技術を宇宙推進に応用するというアイデアを、バイオテクノロジーコンサルタントとしての経験から得ました。異分野の知見が革新を生む好例と言えるでしょう。

2年後の製品化を目指すというタイムラインは野心的ですが、電界放出技術自体は1980年代から質量分析計で実用化されており、カーボンナノチューブ電界放出カソードも既に1400時間以上の動作実績があります。技術的基盤は既に存在しています。

最終的にハフマン氏が目指すのは、木星への有人往復ミッションです。ロケット方程式の指数関数的な性質により、機体質量の削減は推進性能に劇的な改善をもたらします。もしこの技術が約束通りの性能を発揮すれば、太陽系探査の経済性は根本から変わる可能性があります。

【用語解説】

イオンスラスター
イオン化した推進剤を電場で加速して噴射することで推力を得る電気推進システムである。化学ロケットと比較して比推力が高く、燃料効率に優れるため、長期間の宇宙ミッションや惑星間探査に適している。

ホールスラスター
磁場で電子を円軌道に閉じ込め、希ガスをプラズマ化して推進力を得る電気推進装置である。現在の衛星推進システムで最も広く使用されており、比較的高い推力密度と信頼性を持つ。

ナフタレン
2つのベンゼン環が結合した有機化合物で、防虫剤の主成分として知られる。石油精製の副産物として大量に生産され、1キログラムあたり約1.50ドルと安価である。Orbital Arcはこれを推進剤として使用する。

MEMS(Micro-Electro-Mechanical Systems)
1マイクロメートルから100マイクロメートル規模の微小な機械と電子回路を統合した技術である。半導体製造技術を応用して作られ、センサー、アクチュエーター、マイクロ流体デバイスなど幅広い用途に使用される。

電界放出
強力な電場を物質表面に印加することで、電子やイオンを放出させる現象である。質量分析計や電子顕微鏡で広く使用されており、Orbital Arcはこの原理をナノチップに応用して推進剤をイオン化する。

CubeSat
10cm立方を基本単位とする小型人工衛星の規格である。低コストで開発・打ち上げが可能なため、大学や研究機関、スタートアップ企業による宇宙実験や技術実証に広く利用されている。

ロケット方程式(ツィオルコフスキーの式)
ロケットの最終速度が推進剤の噴射速度と機体の質量比の対数に比例することを示す基本方程式である。機体質量の削減が性能に指数関数的な改善をもたらすことを数学的に示している。

ジョナサン・ハフマン氏 (Jonathan Huffman)
Orbital Arcの創業者兼CEO 。バイオテクノロジー分野のコンサルティング経験と、ビデオゲームのシナリオ協力で得た着想を元に、新しい電界放出型イオンスラスターを考案した。

【参考リンク】

Orbital Arc公式サイト(外部)
ナノチップとナフタレンを使用した新型イオンスラスターを開発する宇宙推進スタートアップ企業のウェブサイト。

Oak Ridge National Laboratory(外部)
米国エネルギー省運営の研究開発センター。Orbital Arcのプロトタイプチップ製造を行っている施設。

IEEE Spectrum(外部)
電気電子技術者協会が発行する技術メディア。エンジニアリングと科学技術の最新ニュースを提供。

【参考記事】

Xenon Price Trend, Index, Chart and Forecast(外部)
2025年6月時点のキセノン価格2966ドル/kgを報告する市場分析資料。

Electric propulsion of spacecraft – Physics Today(外部)
2025年10月の記事。キセノン価格とヨウ素など代替推進剤への移行について解説。

Mission Cost for Gridded Ion Engines using Alternative Propellants(外部)
キセノン2700ドル/kg、クリプトン200ドル/kgという具体的価格データを提供する研究論文。

Orbital Arc’s founder envisions roundtrip flights to Mars(外部)
Huffmanのビジョンと技術背景、木星往復ミッション構想を詳述する2024年4月の記事。

More Efficient Space Engine Uses Carbon Nanotubes(外部)
1400時間以上動作実績を持つカーボンナノチューブ電界放出カソード技術を報告する2009年研究。

【編集部後記】

防虫剤の主成分で宇宙を飛ぶ——この発想の転換が、私たちの宇宙探査の常識を塗り替えるかもしれません。Orbital Arcの技術は、高価なキセノンに依存してきた従来の構造から、身近で安価な物質への転換を示唆しています。

ビデオゲームのデザインから生まれたアイデアが、木星への有人ミッションを現実的な選択肢に変える可能性があるというのは、テクノロジーの未来がどこから生まれるか分からないという希望でもあります。2年後の製品化に向けて、この小さなナノチップが宇宙産業の経済性をどう変えていくのか、皆さんと一緒に見守っていきたいと思います。

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omote
デザイン、ライティング、Web制作を行っています。AI分野と、ワクワクするような進化を遂げるロボティクス分野について関心を持っています。AIについては私自身子を持つ親として、技術や芸術、または精神面におけるAIと人との共存について、読者の皆さんと共に学び、考えていけたらと思っています。

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