2025年7月7日発表の研究によると、フランスのCNRSとパリシテ大学の科学者が、肥満の影響を逆転させる可能性のある脳細胞スイッチを発見した。
研究チームは、高脂肪高糖質食と肥満が線条体に位置するアストロサイトという星状の脳細胞の構造と機能に影響を与えることを明らかにした。
線条体は食物摂取による快感の知覚に関与する脳領域である。マウスを用いた実験で、これらのアストロサイトを生体内で操作することにより、代謝に影響を与え、肥満に関連する認知変化を修正できることが判明した。
具体的には課題を再学習する能力の改善が確認された。研究では化学遺伝学的技法、脳画像化、運動テスト、認知行動、エネルギー代謝測定を組み合わせた手法を用いた。
この発見により、従来ニューロンを重視して軽視されてきたアストロサイトが脳機能において重要な役割を果たすことが証明され、肥満における認知機能回復の新たな可能性が示された。研究成果はNature Communications誌に掲載された。
From: Scientists find brain cell switch that could reverse obesity’s effects
【編集部解説】
これまで脳科学の研究において「脇役」として扱われてきたアストロサイトが、実は肥満による認知機能低下の「主役級」の存在であることを示す画期的な発見です。
アストロサイトは星状の形をした脳細胞で、ニューロンのように電気信号を発しないため、これまで研究が困難とされていました。しかし、観察技術の向上により、ニューロンとの密接な協調が神経系の正常な機能に不可欠であることが明らかになっています。
今回の研究で特に注目すべきは、化学遺伝学的技法を用いてアストロサイトのカルシウム流を「スイッチ」のように操作できる点です。研究チームはウイルスを使って、アストロサイト内のカルシウムの流れを調節するタンパク質を標的的に発現させることで、これらの細胞と周囲のニューロンの活動への影響を研究することができました。
この技術の革新性は、単に代謝に影響を与えるだけでなく、肥満によって損なわれた認知機能、特に学習能力を回復させることができる点にあります。従来の肥満治療が主に食事制限や運動療法に頼っていた中で、脳の特定の細胞を標的とした全く新しいアプローチの可能性を示しています。
一方で、この技術が臨床応用されるまでには多くの課題が残されています。現在はマウスを用いた実験段階であり、ヒトでの安全性や有効性の確認には長期間を要するでしょう。また、ウイルスベクターを用いた遺伝子操作には、予期しない副作用や長期的な影響についての慎重な検討が必要です。
さらに興味深いのは、この発見が肥満だけでなく、代謝性疾患に伴う認知機能低下全般への治療法開発につながる可能性があることです。糖尿病や代謝症候群患者の認知機能改善にも応用できる可能性があり、高齢化社会における新たな医療ソリューションとなる期待があります。
今回の研究成果は、脳科学と代謝学の境界を越えた学際的なアプローチの重要性を示しており、今後の神経科学研究の方向性に大きな影響を与える可能性があります。
【用語解説】
アストロサイト(Astrocytes)
中枢神経系に存在するグリア細胞の一種。古代ギリシャ語で「星」を意味する「ástron」と「細胞」を意味する「kútos」に由来し、星状の形をしている。従来は神経細胞の支持的役割を担うとされていたが、近年の研究でシナプス伝達の調節や血液脳関門の制御など、積極的な機能を持つことが判明している。
化学遺伝学(Chemogenetics)
遺伝子工学によって特定の化学物質に反応する受容体を細胞に導入し、その化学物質を投与することで細胞の活動を制御する技術。光遺伝学と類似しているが、光の代わりに化学物質を使用するため、より深い脳領域でも操作可能である。
線条体(Striatum)
大脳基底核の一部で、運動制御や認知機能、報酬系の処理に関与する脳領域。今回の研究では、食物摂取による快感の知覚に関わる重要な部位として注目されている。
カルシウムシグナリング
細胞内のカルシウム濃度の変化によって細胞の機能を調節するメカニズム。アストロサイトは電気的に活性化しないが、カルシウム濃度の動的変化によって興奮性を示すことができる。
【参考リンク】
CNRS(フランス国立科学研究センター)(外部)
フランス最大の基礎研究機関で今回の肥満研究を主導した組織
パリシテ大学(Université Paris Cité)(外部)
健康科学など3学部を持つ総合大学で今回の研究に参加している
Nature Communications(外部)
今回の研究成果が掲載された査読付きオープンアクセス科学誌
【参考記事】
Obesity: the unexpected role of astrocytes(外部)
CNRS公式プレスリリースによる研究発表の詳細解説記事
Astrocytes influence metabolism and cognitive function in obesity(外部)
医学ニュースサイトによる臨床的観点からの研究解説
Astrocytes in Obesity: Brain Cells That Control Metabolism(外部)
神経科学専門サイトによるアストロサイト代謝制御機能の詳細分析
Astrocytes Found To Reverse Obesity-Linked Cognitive Deficits(外部)
技術系ニュースサイトによる治療法開発への応用可能性の解説
【編集部後記】
この研究を知って、皆さんはどのような感想を持たれたでしょうか。これまで「脇役」とされてきた脳細胞が、実は私たちの代謝や認知機能に深く関わっているという発見は、脳科学の常識を覆すものかもしれません。
肥満が単なる生活習慣の問題ではなく、脳の働きそのものに影響を与えているとしたら、私たち自身の健康に対する考え方も変わってくるのではないでしょうか。皆さんは、このような脳細胞レベルでの治療法が実現した未来をどう想像されますか。ぜひ、ご自身の体験や考えと照らし合わせながら、この技術の可能性について一緒に考えていただければと思います。