2025年8月21日、ブロガーのSkarredghost氏は、複合現実(MR)にキラーアプリが存在しない理由を考察した。MetaのQuest 3やApple Vision Proなどのデバイスは存在するが、VRゲームの『Beat Saber』や『Gorilla Tag』のような成功事例はない。同氏は課題として、不十分なハードウェア性能、開発者ツールの不足、マルチプレイヤー体験の構築の難しさ、市場規模の小ささなどを列挙した。AppleのMRウィジェットやMetaが開発中のAugmentsといった機能が将来的な解決策となりうるが、普及には5年から10年かかるとの見解を示している。
From: Why we don’t have the “killer app” of mixed reality
【編集部解説】
ご紹介した記事は、複合現実(MR)の第一人者であるSkarredghost氏が「なぜMRにはキラーアプリが存在しないのか?」という、業界が直面する根源的な問いに切り込んだものです。Apple Vision ProやMeta Quest 3といった高性能なデバイスが登場し、MR技術がようやく現実のものとなりつつある今、この問いは非常に重要な意味を持ちます。私たちinnovaTopiaがこの記事を取り上げるのは、この「キラーアプリの不在」こそが、次世代のコンピューティングプラットフォームが誕生する前の、静かな、しかし最も重要な局面を象徴していると考えるからです。
MR体験の本質的な難しさ:「意味のある融合」は可能か
記事で指摘されているように、多くのMR体験は「VRゲームの背景を現実にしただけ」のレベルに留まっています。これは、MRの本質的な難しさを浮き彫りにしています。優れたMR体験とは、単にデジタル情報を現実空間に表示することではありません。デジタルと現実が相互に作用し、「そこにあるべき意味」を生み出す必要があります。
例えば、マルチプレイヤーの問題は深刻です。VRであれば全員が同じ仮想空間を共有できますが、MRでは「私の部屋にいるあなたのアバター」と「あなたの部屋にいる私のアバター」が存在するだけで、体験の共有が生まれません。この「コンテキスト(文脈)の断絶」こそが、MRが乗り越えるべき最大の壁の一つなのです。
ハードウェアとソフトウェアの「鶏と卵」問題
現在のMRヘッドセットは、数時間装着するには重く、パススルー映像の質も肉眼には及びません。そのため、記事にあった料理アプリのように、精密さや安全性が求められる長時間のタスクには不向きです。このハードウェアの制約が、「一日中使える」ユースケースの創出を妨げ、開発者が革新的なアプリを作る意欲を削いでいます。魅力的なアプリがなければ、消費者は高価なデバイスを買いません。この「鶏と卵」の状態が、市場の成長を鈍化させる大きな要因となっています。
すべての部屋が「別デバイス」:開発者を悩ますレスポンシブ地獄
ウェブサイトがPCやスマートフォンなど、異なる画面サイズに対応することを「レスポンシブデザイン」と呼びます。MRにおけるレスポンシブとは、千差万別のユーザーの部屋(広さ、家具の配置、明るさ)にアプリが自動で最適化されることを指します。これはウェブデザインとは比較にならないほど複雑で、現状では開発者が手探りで対応している状態です。この問題を解決する汎用的なツールが登場しない限り、誰もが快適に使えるMRアプリを開発するコストは非常に高く、普及の足かせとなり続けるでしょう。
長期的な視点:「キラーアプリ」から「キラーOS」へ
Skarredghost氏が指摘する「ウィジェット」や「Augments」の重要性は、MRの未来を考える上で極めて重要な示唆を与えてくれます。もしかすると、私たちはMRの成功を「キラーアプリ」という既存の概念で捉えすぎているのかもしれません。スマートフォンのように特定のアプリを起動して使うのではなく、MRの真価は「常時起動」していることにあります。
天気予報が窓に自然に表示され、ビデオ会議の相手が目の前のソファに座る。このように、個々のアプリではなく、現実空間そのものを拡張する「環境OS」のような存在になったとき、MRは真の価値を発揮するのかもしれません。これは、私たちの生活や働き方を根底から変えるポテンシャルを秘めていますが、同時に常時接続によるプライバシーの問題や、デジタル情報への過度な依存といった新たなリスクも生み出すでしょう。
MRのキラーアプリがまだ登場しないのは、技術が未熟だからというだけではなく、我々がまだその真の可能性を測りかねているからです。今はまさに、次のコンピューティング革命の夜明け前と言えます。この過渡期にこそ、未来の形を想像し、議論することに大きな価値があるのです。
【用語解説】
- XR (Extended Reality / エクステンデッド・リアリティ): 仮想現実(VR)、拡張現実(AR)、複合現実(MR)など、現実世界と仮想世界を融合させる技術の総称である。
- パススルー (Passthrough): VRヘッドセットに搭載されたカメラを使い、外部の現実世界の映像をディスプレイに表示する機能。MRの基盤技術であり、この映像の上にデジタル情報を重ねて表示することで、現実空間と仮想空間の融合を実現する。
- SDK (Software Development Kit / ソフトウェア開発キット): 特定のソフトウェアやアプリケーションを開発するために必要なツール群のこと。プログラミング言語のライブラリ、API、サンプルコードなどが含まれており、開発者はSDKを利用することで効率的に開発を進めることができる。
- リアルタイムメッシング (Real-time Meshing): カメラやセンサーを使って、周囲の物理空間の形状(壁、床、家具など)をリアルタイムで3Dデータ(メッシュ)に変換する技術。これにより、仮想オブジェクトを物理空間に正確に配置したり、物理的なオブジェクトが仮想オブジェクトに影響を与えたりすることが可能になる。
- フォームファクタ (Form Factor): 製品の物理的なサイズ、形状、デザインなどの仕様のこと。MRヘッドセットにおいては、重量、大きさ、装着感などが長時間の利用や特定のユースケースの実現において重要な要素となる。
- レスポンシブデザイン (MRにおける): ウェブデザインにおけるレスポンシブ(様々な画面サイズに最適化すること)をMRに応用した概念。ユーザーごとに異なる部屋の広さ、家具の配置、照明条件などに合わせて、MRコンテンツが自動的に最適な形で表示・機能するように設計することを指す。
【参考リンク】
【参考動画】
【参考記事】
【編集部後記】
今回は、MRの「キラーアプリ」がなぜまだ登場しないのか、という少しもどかしいテーマを深掘りしました。もし今の技術的な制約が何もないとしたら、どんなMRを体験してみたいですか?キラーアプリとは、消費者からの要望から生まれ改善を繰り返し定着していくことで生まれると考えております。まだその土台が出来上がっていない今、声を上げることで今後MRのキラーアプリが生まれていくのではないでしょうか。