感染を偽装してマルウェアを欺く「ワクチン技術」、なぜ商業化は進まないのか

[更新]2025年10月23日08:12

感染を偽装してマルウェアを欺く「ワクチン技術」、なぜ商業化は進まないのか - innovaTopia - (イノベトピア)

グローバルサイバーセキュリティ企業Recorded FutureのReversing、Emulation、and TestingチームのシニアマネージャーであるJustin Grosfelt氏は、オランダ・ハーグで開催されたONE Conferenceで、Windows PCに美観上のみの変更を加えてマルウェアに感染を諦めさせるコードの開発が可能であることを示す研究を発表した。

マルウェアワクチンは、おとりファイルの配置、レジストリ編集、偽のmutexオブジェクト作成によりWindowsシステムに感染マーカーを作成する仕組みだ。

Binary Defenseの研究者が2020年に作成したEmoCrashキルスイッチは、バンキング型トロイの木馬Emotetを無効化したが、6か月で作成者によりパッチが適用された。Recorded FutureはRhadamanthysというデータ窃取型マルウェアに対してもmutex技術を使用した。

感染マーカーのアイデアは2012年にIEEEジャーナルで発表されたが、それ以降研究は進んでいない。サリー大学のAlan Woodward教授は、Microsoft Defenderが2015年からワクチン作成を主張しているが、シャドウコピーなど必ずしも積極的ではないと述べた。

From: 文献リンクHow malware vaccines could stop ransomware’s rampage – The Register

【編集部解説】

マルウェアワクチンという概念は、実は1980年代から存在していました。しかし、これまで商業的に成功した例はほとんどありません。その理由は単一ではなく、市場・技術・協力体制という複合的な課題に根差しています。

【課題1: 市場構造の壁】
最大の障壁は、Google、Microsoft、CrowdStrikeといった巨大企業が支配するエンドポイント検出および応答(EDR)市場です。この寡占的な市場構造において、新興企業が革新的なアプローチで参入することは極めて困難なのが実情です。

【課題2: 技術的なジレンマ】
今回の研究は、PowerShellプロファイルの改変に代表されるように、環境を偽装するだけでマルウェアを欺ける可能性を示しました。これは、従来の個別対応型から汎用型へのパラダイムシフトを示唆する点で注目に値します。
しかし、技術には「いたちごっこ」という宿命が伴います。Binary DefenseのEmoCrashキルスイッチがわずか6か月で無効化されたように、ワクチンの実装が容易であれば、攻撃者による回避策の構築もまた容易になるというジレンマが存在します。

【課題3: 協力体制と資金の欠如】
サイバーセキュリティ業界では、情報共有が構造的に進みづらいという問題があります。ジョージア工科大学のBrendan Saltaformaggio准教授が指摘するように、攻撃を受けた事実が「汚点」と見なされ、企業や政府は情報開示に消極的です。この閉鎖性が、業界全体の防御力を高める上での足枷となっています。Recorded Futureが提案するSigmaルールのようなオープンな協力体制(あるいは貢献者を限定した「オープンコントリビューション」モデル)は一つの解ですが、実現には至っていません。
さらに、アラバマ大学バーミンガム校のGary Warner氏の研究所が2025年8月に資金難で閉鎖された事例は、基礎研究が軽視される現状を象徴しています。公的資金の減少は、サイバーセキュリティが「富裕層の特権」になりかねないという深刻な問題を提起しています。

【展望と現実的な着地点】
StrikeReadyのAlex Lanstein最高技術責任者が述べるように、複雑なエンタープライズ環境での即時導入は非現実的かもしれません。一方で、ホームユーザーにとっては、低コストで導入できる有効な防御策となる可能性があります。この技術の価値は、対象ユーザー層によって大きく変わるのです。

【用語解説】

ランサムウェア
コンピューターやファイルを暗号化してアクセス不能にし、復旧と引き換えに金銭を要求する悪意のあるソフトウェアである。近年、企業や公共機関を標的とした攻撃が激化している。

マルウェアワクチン
システムが既に感染している、または分析環境で動作していると偽装することで、マルウェアの実行を事前に阻止する予防的セキュリティ技術である。

感染マーカー
システムに配置される小さな痕跡で、マルウェアにシステムが既に感染済みであると誤認させる仕組みである。おとりファイル、レジストリキー、mutexオブジェクトなどが使用される。

mutex(相互排他フラグ)
Windowsのリソース管理機構で、1つのプロセスが共有リソースを占有している間、他のプロセスがアクセスできないようにする仕組みである。マルウェアもこれを利用するため、偽のmutexでペイロード実行を阻止できる。

EDR(エンドポイント検出および応答)
ネットワーク上の端末(エンドポイント)における脅威をリアルタイムで検出・分析し、対応するセキュリティソリューションである。

SIEM(セキュリティ情報およびイベント管理)
ログファイルから脅威を検出し、悪意のある活動を特定するためのシステムである。

Sigmaルール
SIEMシステム向けの脅威検出ルールで、GitHub上でサイバーセキュリティ業界によって共同でメンテナンスされているオープンソースプロジェクトである。

シャドウコピー
Windowsのバックアップ機能で、ランサムウェアがデータを消去しようとしても実際にはバックアップを保護できる仕組みである。

Emotet
バンキング型トロイの木馬マルウェアで、2020年にBinary DefenseのEmoCrashキルスイッチによって一時的に無効化されたが、その後も活動を続けている。

PowerShellプロファイル
Windowsのコマンドライン環境であるPowerShellの設定ファイルで、コマンド実行時の動作をカスタマイズできる。

【参考リンク】

Recorded Future(外部)
マサチューセッツ州に本社を置くグローバルサイバーセキュリティ企業。脅威インテリジェンスプラットフォームを提供し、今回のマルウェアワクチン研究を発表した。

Binary Defense(外部)
サイバーセキュリティ企業で、2020年にEmotetマルウェアを無効化するEmoCrashキルスイッチを開発したことで知られる。

StrikeReady(外部)
テキサスを拠点とするソフトウェア会社で、脅威検出とアラート管理を統合した統合セキュリティオペレーションプラットフォームを開発している。

サリー大学(外部)
英国に拠点を置く大学で、コンピューターセキュリティ専門家のAlan Woodward教授が所属している。

Sigma HQ(GitHub)(外部)
SIEM向けの脅威検出ルールを管理するオープンソースプロジェクトで、サイバーセキュリティ業界全体で共同メンテナンスされている成功事例である。

OpenSSL(外部)
コンピューターネットワーク上での暗号化と安全な通信を実現するオープンソースソフトウェアライブラリである。

【参考記事】

H1 2025 Malware and Vulnerability Trends – Recorded Future(外部)
Recorded Futureによる2025年上半期のマルウェアと脆弱性のトレンド分析レポート。ランサムウェア攻撃者が採用した新しいTTPsについて詳細に記載。

Ransomware Mitigation Solutions – Recorded Future(外部)
Recorded Futureのランサムウェア軽減ソリューションに関する情報。攻撃ライフサイクルの各段階で脅威を防ぐための包括的アプローチを提供。

マルウェアワクチンはランサムウェアの猛威を止められるか?(外部)
日本語で同テーマを扱う記事。マルウェアワクチンの技術的詳細と実用化への課題について解説している。

【編集部後記】

サイバーセキュリティというと、どこか専門家だけの世界のように感じられるかもしれません。しかし、ランサムウェアによる被害はもはや産業規模の問題です。2025年には英国のCo-opやM&S、Harrods、Jaguar Land Roverなどが相次いで攻撃を受け、日本国内でも被害が連鎖しています

アサヒグループホールディングスでは2025年9月29日に大規模なサイバー攻撃が発生し、酒類や清涼飲料、食品事業すべての受注と出荷業務が一時停止しました。その後、個人情報流出の可能性も公表され、現在も調査が継続中です。一方、オフィス用品通販大手のアスクルは10月19日にランサムウェア感染を発表し、法人向けの「ASKUL」から個人向け「LOHACO」まで全サービスが停止。物流を担っていたことで、無印良品やロフト、医療機関などにも影響が波及しています。同社は現在、システム全体の復旧と情報漏洩の有無について調査中で、被害範囲は明らかになっていません。

これらの事例が示すのは、サプライチェーン全体にリスクが広がる「複合型サイバーショック」です。攻撃者は単一企業を狙うのではなく、その取引網を通じて連鎖的な混乱を引き起こします。防衛のためには、企業単体ではなく業界全体の協力が不可欠です。

マルウェアワクチンという「予防型」の発想は、こうした連鎖を断ち切る一つの手段になるかもしれません。たとえ攻撃者の侵入を完全に防げなくても、感染を偽装してペイロードの実行を阻止する「環境レベルの防御」が普及すれば、被害の波及を最小化できる可能性があります。

一方で、アラバマ大学のGary Warner氏が率いたフォレンジックラボの閉鎖に象徴されるように、基礎研究への資金は減少傾向にあります。セキュリティが「富裕層の特権」となる未来を防ぐためにも、社会全体で技術と倫理、そして協力のバランスを考えることが求められています。

このテーマは、単なるITの問題ではありません。生活インフラ、流通、そして信頼の根幹に関わる社会的課題です。今私たちが議論すべきは、「次の攻撃をどう止めるか」だけでなく、「誰もが守られる仕組みをどう作るか」なのです。

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TaTsu
『デジタルの窓口』代表。名前の通り、テクノロジーに関するあらゆる相談の”最初の窓口”になることが私の役割です。未来技術がもたらす「期待」と、情報セキュリティという「不安」の両方に寄り添い、誰もが安心して新しい一歩を踏み出せるような道しるべを発信します。 ブロックチェーンやスペーステクノロジーといったワクワクする未来の話から、サイバー攻撃から身を守る実践的な知識まで、幅広くカバー。ハイブリッド異業種交流会『クロストーク』のファウンダーとしての顔も持つ。未来を語り合う場を創っていきたいです。

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