12月7日は「国際民間航空デー」。空の旅を支えるのは、機体というハードウェアだけではない。80年前に記述された「堅牢なソースコード」が、今も世界を動かしている。
もしあなたが、異なるベンダー(国)、異なる仕様(法律)、異なる言語を持つ数万のノード(航空機)が飛び交うネットワークを設計するとしたら、どうやってパケット衝突(空中衝突)を防ぎ、スループット(運航本数)を最大化するだろうか?
今日、私たちがスマートフォンでチケットを取り、パスポート一つで地球の裏側へ移動できる「当たり前」は、奇跡的な技術的合意の上に成り立っている。
その原点は、インターネットのRFC(Request for Comments)が登場する遥か以前、1944年12月7日に署名された「国際民間航空条約(通称:シカゴ条約)」にある。これは単なる国際条約ではない。人類が初めて実装に成功した、「物理世界を繋ぐためのTCP/IPプロトコル」なのだ。
本稿では、航空システムを一つの巨大な分散システムとしてリバースエンジニアリングし、そのアーキテクチャの堅牢さと、現在進行している「技術的負債」の解消(空のDX)について解説する。

Architecture: ICAOという「ルート認証局」とRFC
1944年、シカゴ。第二次世界大戦の終結が見え始めた頃、連合国52カ国の代表が集まり、ある「仕様策定会議」が行われた。そこで生まれたのがシカゴ条約であり、その管理団体としてICAO(国際民間航空機関)が設立された。
エンジニアリングの視点で見れば、ICAOは国連機関というよりも、W3C(Web標準化団体)やIETFに近い存在だ。
シカゴ条約には「附属書(Annex)」と呼ばれる19の技術文書が存在する。これこそが航空業界におけるRFC(仕様書)である。
- Annex 1: 人事ライセンス(認証プロトコル)
- Annex 2: 空のルール(トラフィック制御アルゴリズム)
- Annex 10: 航空通信(物理層・データリンク層の定義)
これらは「推奨事項(SARPs)」という体裁をとっているが、実質的にはネットワーク参加のための必須要件だ。このプロトコルに準拠しないノード(航空機)は、世界のどのルーター(領空)からもアクセスを拒絶される。
Protocol Stack: アナログ・ハンドシェイクの技術論
なぜ、世界の管制官とパイロットは、母国語に関わらず「英語」で話すのか? それは「英語」を話しているのではなく、「航空英語(Aviation English)」という厳密に型定義されたプロトコルを使用しているからだ。
航空管制の手順を、ネットワークのOSI参照モデルにマッピングしてみよう。
1. 物理層の誤り訂正:フォネティックコード
アナログ無線(VHF/HF)というS/N比の悪い物理レイヤーにおいて、ビットエラー(聞き間違い)は致命的だ。「B」と「D」、「M」と「N」の聞き間違いを防ぐため、「Alpha, Bravo, Charlie…」というフォネティックコードが採用されている。これは通信におけるパリティチェックや誤り訂正符号(ECC)と同じ役割を果たす。
2. TCPハンドシェイクとしての「リードバック」
航空通信の核心は、TCP(Transmission Control Protocol)的な信頼性の担保にある。UDPのような「送りっぱなし」は許されない。
- SYN (命令): 管制官 “JAL123, Climb to Flight Level 300.”
- SYN-ACK (復唱/Read-back): パイロット “Climb to Flight Level 300, JAL123.”
- ACK (確認/Hear-back): 管制官 (内容が一致していることを確認し、訂正がなければ通信成立)
この「Read-back / Hear-back」プロセスは、3ウェイ・ハンドシェイクそのものだ。人間の脳内バッファでデータの整合性を検証し、コネクションを確立する。この冗長性こそが、80年間、空の安全(99.999…%の稼働率)を支えてきた。

Technical Debt: 「音声通信」というボトルネック
シカゴ条約体制は優秀なレガシーシステムだが、限界も迎えている。最大の問題は、基本設計が1940年代の技術に基づいていることだ。
現在の航空管制は、依然として「半二重通信(Half-Duplex)」の音声無線に依存している。誰かが話している間は、同じ周波数帯にいる他の誰も送信できない。これは初期のイーサネットにおけるCSMA/CD(搬送波感知多重アクセス/衝突検出)と同じで、トラフィックが増えれば増えるほど「コリジョン(混信)」のリスクが高まり、レイテンシが悪化する。
また、各国の管制システム(サーバー)はサイロ化しており、隣国の管制区へ航空機を引き継ぐ際も、電話や専用線でのバケツリレーが行われているケースが多い。これは現代のクラウド時代において、あまりに非効率なアーキテクチャだ。
Migration: 空のクラウド化「SWIM」へのリファクタリング
今、航空業界ではSWIM (System Wide Information Management) と呼ばれる、歴史的なシステム移行プロジェクトが進行している。
これは、従来の「Point-to-Point(無線による個別接続)」から、「Pub/Subモデル(Publish/Subscribe)」へのアーキテクチャ変更を意味する。
- Before (Legacy): パイロットが管制官に位置を伝え、管制官が気象情報をパイロットに伝える(1対1通信)。
- After (SWIM):
- 航空機、空港、気象レーダー等の全ノードが、情報をSWIMクラウド(情報共有基盤)にPublish(発行)する。
- 必要なユーザー(他機や航空会社)は、そのデータをリアルタイムにSubscribe(購読)する。
これにより、SOA(サービス指向アーキテクチャ)が空の上で実現する。機体の位置情報は「4D Trajectory(緯度・経度・高度+時間)」として共有され、AIが全機体の最適ルートを計算し、空中待機や燃料ロスを極限まで減らすことが可能になる。

Conclusion: 次のプロトコルは誰が作るのか?
1944年の今日、シカゴで署名された条約は、物理世界における最も成功したグローバル・プラットフォームの一つだ。
しかし、空の主役は変わりつつある。ドローンや「空飛ぶクルマ(eVTOL)」といった無人航空機が飛び交う未来、もはや人間による音声ハンドシェイク(TCP的アプローチ)では処理しきれない。必要なのは、マシン・ツー・マシン(M2M)で自律的に衝突を回避する、より高速で分散的なプロトコルだ。
12月7日。今日は単に飛行機を愛でる日ではない。
80年前に「空のOS」を実装した先人たちのシステム設計能力に敬意を表し、私たちがこれから構築すべき「次の100年のための新しいプロトコル」に思いを馳せる日である。
【Information】
国土交通省 – 将来の航空交通システムに関する長期ビジョン (CARATS) (外部)
日本における空のDXプロジェクト「CARATS(キャラッツ)」の公式サイト。SWIMの実装や、2030年を見据えた航空管制の自動化・高度化ロードマップが公開されています。
International Civil Aviation Organization (ICAO) (外部)
国連の専門機関であり、本記事の主役である「シカゴ条約」の管理主体。航空業界における「W3C」や「IETF」に相当し、世界の空の標準化(SARPs)を担っています。






























