シカゴ大学、スタンフォード大学、マサチューセッツ工科大学、インスブルック大学、デルフト工科大学の研究者らは、量子情報ハードウェアの現状を評価するレビュー論文を2025年12月4日号のScienceに発表した。
本論文の評価対象は、超伝導量子ビット、トラップドイオン(イオントラップ)、スピン欠陥、半導体量子ドット、中性原子、フォトニック量子ビットの主要6プラットフォームである。研究チームはこれらに対し、コンピューティング、シミュレーション、ネットワーキング、センシングにおける技術成熟度レベル(TRL)を大規模言語モデルの評価も用いて比較した。
その結果、量子コンピューティングでは超伝導量子ビット、量子シミュレーションでは中性原子、量子ネットワーキングではフォトニック量子ビット、量子センシングではスピン欠陥が最も高いTRLを得たが、大規模量子化学シミュレーションには数百万規模の物理量子ビットと、現在よりはるかに低いエラー率が必要であることが示された。
著者らは、材料科学、量産プロセス、配線と信号伝送、電力供給、低温環境、キャリブレーションなどの課題を指摘し、古典コンピュータ史における「the tyranny of numbers」やトランジスタ黎明期を引き合いに、量子技術も長期的なスケーリングのフェーズに入っていると論じている。
From:
When will quantum technologies become part of everyday life?
【編集部解説】
量子技術の今を一言で表すなら、「もう研究室の外には出てきたが、まだトランジスタ前夜に近い段階」という印象です。量子暗号通信や一部の量子センシングは現実世界で使われ始めていますが、量子コンピュータや量子ネットワークが、クラウドやインフラとして当たり前に組み込まれるまでには時間がかかると考えられます。
今回のレビューが特徴的なのは、6つの量子ハードウェア方式を同じテーブルに載せ、用途別の技術成熟度をできるだけフラットに見比べている点です。超伝導量子ビット、トラップドイオン、スピン欠陥、半導体量子ドット、中性原子、フォトニック量子ビットという多様なアプローチが並ぶことで、「どれか一つの勝ち負け」ではなく、「用途ごとの得意・不得意」が見えてきます。
さらに興味深いのは、そのTRL評価にChatGPTやGeminiといった大規模言語モデルが活用されていることです。量子技術そのものだけでなく、「量子をどう評価するか」というメタなレイヤーにもAIが入り込んでおり、2025年らしい交差点にいる分野だと感じます。
技術的なボトルネックとして大きいのは、単純に量子ビットの数を増やせばよいわけではないところです。多くのプラットフォームで、量子ビットごとに専用の配線や制御チャンネルが必要とされており、これを現在の延長線上でスケールさせると、配線・電力・冷却・制御系が破綻してしまいます。
この状況は、1960年代に古典コンピュータが直面した「the tyranny of numbers」と非常によく似ています。部品と配線の数が爆発的に増えたことで、個別の手作業では到底さばききれなくなり、結果として集積回路や新しい製造プロセスの発明につながっていきました。量子でも同じように、アーキテクチャや製造のレイヤーでの抜本的な発想転換が求められているように見えます。
今回の論文がポジティブなのは、「何ができるか」という夢だけでなく、「どこが具体的に詰まっているか」をかなり細かく言語化している点です。材料の均質性、ファウンドリレベルの量産プロセス、低温環境の維持、電力と熱のマネジメント、自動キャリブレーション、システム制御など、産業として取り組むべき論点が整理されています。
一方で、技術成熟度レベル(TRL)の高さが、そのまま「ゴールの近さ」と誤解されるリスクもあります。著者の一人であるWilliam D. Oliverは、1970年代の半導体チップも当時はTRL9とみなされていたが、今の集積回路と比べればできることは限られていたと指摘し、量子におけるTRLも歴史的な文脈で捉えるべきだと強調しています。
innovaTopiaとして注目したいのは、このレビューが「量子はすぐに魔法のような世界を連れてくる」という幻想を煽るのではなく、「10年スパンでどのレイヤーから関わるか」を考えるための地図を用意している点です。量子コンピューティングのアルゴリズムだけでなく、材料、製造、制御エレクトロニクス、ソフトウェアスタック、さらには人材育成まで、関われる入り口は想像以上に多いと感じます。
【用語解説】
超伝導量子ビット
超伝導回路中のマイクロ波共振やジョセフソン接合を利用して量子ビットを実現する方式で、極低温環境で動作し、大規模量子コンピュータの有力候補とされる。
トラップドイオン
電磁場で捕捉したイオンの内部状態や振動状態を量子ビットとして利用する方式で、高いコヒーレンス時間と高精度な操作が特徴である。
スピン欠陥
ダイヤモンド中の窒素—空孔中心(NVセンター)など、結晶欠陥に局在したスピン状態を量子ビットや高感度センサーとして利用する技術である。
中性原子量子ビット
レーザー冷却した中性原子を光格子やトラップに整列させ、その内部状態やリュードベリ状態を量子ビットとして用いる方式で、大規模アレイ構成が可能とされる。
フォトニック量子ビット
光子の偏光や時間ビンなどを量子ビットとして扱う方式で、量子ネットワークや量子鍵配送などの量子通信分野で中核的な役割を果たす。
シカゴ・クアンタム・エクスチェンジ(Chicago Quantum Exchange, CQE)
米国中西部の大学や国立研究所、企業を束ね、量子情報科学・工学の研究と人材育成、産業連携を推進するハブ組織である。
シカゴ・クアンタム・インスティテュート(Chicago Quantum Institute)
シカゴ大学プラウィツカー分子工学部に設置された量子研究組織で、学内外の研究者を結集し量子コンピューティングや量子通信などの研究を推進している。
「the tyranny of numbers」
1960年代のコンピュータ工学で使われた表現で、膨大な数の部品や配線が必要になり、システムの複雑さが制御不能になるスケーリング問題を指す。
【参考リンク】
Chicago Quantum Exchange(外部)
米国中西部で量子情報科学の研究と産業連携、人材育成を推進するハブ組織の公式サイトである。
Chicago Quantum Institute(外部)
シカゴ大学に設置された量子研究組織で、量子コンピューティングや通信、センシングの研究と教育を統合している。
MIT Center for Quantum Engineering / William D. Oliver(外部)
MITにおける量子工学研究拠点とWilliam D. Oliverの活動概要を紹介するページである。
The Quantum Insider(外部)
量子コンピューティングや量子技術関連のニュースと市場分析、スタートアップ情報を提供する専門メディアである。
Pritzker School of Molecular Engineering(外部)
シカゴ大学の分子工学部で、量子情報科学、材料、エネルギーなどの研究と教育を行う学部組織の公式サイトである。
【参考記事】
Challenges and opportunities for quantum information hardware(外部)
量子コンピューティングや通信、センシングに関わるハードウェアの現状とTRL、材料・配線・冷却などの課題を整理したScience誌のレビュー論文である。
Quantum technology moves from lab to life, but widespread use remains years away(外部)
量子技術が実験室から実世界へ移行しつつある現状と、数百万物理量子ビットや高いエラー耐性など広範な利用までの距離感を一般向けに解説する記事である。
When Will Quantum Technologies Become Part of Everyday Life?(外部)
Science論文の要点を業界視点で整理し、6つの量子プラットフォームのTRL比較や産学官連携の役割、市場インパクトを解説する記事である。
【編集部後記】
量子技術が「いつ生活に入ってくるか」という問いは、同時に「自分はどの立場でこの変化に関わるか」という問いでもあると感じています。研究として追いかける人もいれば、ビジネスや政策、あるいはクリエイティブの視点から関わる人もいるはずです。
もし量子がまだ少し遠く感じられるなら、「どの分野で使われたら、自分の仕事や暮らしがいちばん面白くなりそうか?」を一緒に想像してもらえたらうれしいです。






























