コロンビア大学、ニューヨーク・プレスビテリアン病院、スタンフォード大学、ペンシルベニア大学の共同研究チームが、BISC(Biological Interface System to Cortex)と呼ばれる超小型脳インプラントを開発した。
12月8日付のNature Electronics誌に発表された論文によると、単一シリコンチップで構成されるこのデバイスは厚さ50μm、体積約3mm3で、65,536個の電極、1,024個の記録チャネル、16,384個の刺激チャネルを搭載する。
ワイヤレス通信速度は100Mbpsに達し、既存のワイヤレスBCIの100倍以上のスループットを実現する。
TSMCの0.13μm BCD技術で製造され、国防高等研究計画局(DARPA)のプログラムを通じて開発された。てんかん、脊髄損傷、ALS、脳卒中、失明などの治療への応用が期待される。
人間の患者での短期術中研究が進行中であり、商業化に向けてKampto Neurotechというスタートアップが設立された。
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Scientists reveal a tiny brain chip that streams thoughts in real time
【編集部解説】
脳とコンピュータを直接つなぐブレイン・コンピュータ・インターフェース(BCI)の分野で、革命的な進展がありました。コロンビア大学を中心とする研究チームが開発したBISCは、既存技術の限界を大きく超える性能を実現しています。
この技術の最大の特徴は、圧倒的な小型化と高性能の両立です。従来の医療用BCIは、複数の電子部品を収容するために頭蓋骨の一部を取り除いて大きな容器を埋め込むか、胸部などに装置を配置して脳まで配線を通す必要がありました。これに対してBISCは、厚さわずか50μm(髪の毛ほどの薄さ)、体積約3mm3の単一チップに全ての機能を統合しています。従来デバイスの1/1000以下の体積です。
電極数の比較も注目に値します。イーロン・マスク氏のNeuralinkは3,072個の電極を持ち、競合のPrecision Neuroscienceは4,096個の電極で世界記録を樹立しましたが、BISCは65,536個の電極を搭載し、競合を桁違いに上回ります。さらに、ワイヤレス通信速度は100Mbpsに達し、既存のワイヤレスBCIの少なくとも100倍のデータスループットを実現しています。
技術的な革新性は、単一のCMOS集積回路上にすべてを統合した点にあります。TSMCの0.13μm BCD(Bipolar-CMOS-DMOS)技術を用いて製造されたこのチップには、無線トランシーバー、ワイヤレス給電回路、デジタル制御、電源管理、データ変換器、記録と刺激用のアナログ回路がすべて含まれています。半導体業界の大量生産技術を活用できるため、スケーラブルな製造が可能です。
BISCのもう一つの重要な利点は、低侵襲性です。このデバイスは脳と頭蓋骨の間の硬膜下腔に配置され、脳組織を貫通しません。マイクロ皮質電図(µECoG)と呼ばれるこのアプローチは、脳の表面から神経活動を記録するため、組織損傷を最小限に抑え、長期的な信号の安定性を向上させます。これは、Neuralinkのような脳貫通型電極とは対照的で、組織反応や炎症のリスクが低いとされています。
前臨床試験では、豚で最大2週間、非ヒト霊長類で最大2ヶ月の慢性的で安定した記録に成功しました。運動皮質、体性感覚皮質、視覚皮質から高い時空間分解能で脳信号を解読することが実証されています。現在、人間の患者での短期術中研究が進行中です。
この技術の応用範囲は広範です。てんかん、脊髄損傷、ALS、脳卒中、失明などの神経疾患の治療が期待されています。コロンビア大学のBrett Youngerman博士らは、薬剤耐性てんかんの治療にBISCを使用するための米国国立衛生研究所(NIH)の助成金を獲得しました。発作の予測と制御、運動機能の回復、発話能力の復元、視覚の回復など、多岐にわたる臨床応用が検討されています。
高帯域幅の記録能力により、BISCは高度な機械学習やディープラーニングアルゴリズムと組み合わせることで、複雑な意図、知覚体験、脳状態を解読できます。スタンフォード大学のAndreas Tolias博士は、「BISCは皮質表面を効果的なポータルに変え、AIや外部デバイスとの高帯域幅で低侵襲な読み書き通信を提供する」と述べています。
商業化に向けて、コロンビア大学の電気工学卒業生であるNanyu Zeng博士が設立したスタートアップ企業Kampto Neurotechが、研究用チップの商用版を製造し、人間での使用に向けた資金調達に取り組んでいます。この技術は2023年4月4日に発行された米国特許11617890号で保護されており、コロンビア大学からKampto Neurotechに独占的にライセンスされています。
この研究は、国防高等研究計画局(DARPA)のNeural Engineering System Designプログラムを通じて開発され、コロンビア大学のマイクロエレクトロニクスの専門知識、スタンフォード大学とペンシルベニア大学の高度な神経科学プログラム、ニューヨーク・プレスビテリアン/コロンビア大学の外科能力を結集しています。
一方で、長期的な課題も残されています。生体適合性の長期的な維持、慢性埋め込みにおける信号品質の保持、大規模な臨床試験の実施、規制当局の承認プロセスなどです。また、BCIの倫理的な問題、データプライバシー、公平なアクセスに関する議論も必要となるでしょう。
それでも、BISCが示す技術的飛躍は、脳とAIの融合という未来を現実に近づけています。半導体技術の進歩が部屋サイズのコンピュータをポケットに収めたように、医療用インプラントも同様の変革を遂げようとしています。この技術は、神経疾患の治療方法を変えるだけでなく、人間がAIや機械と関わる方法そのものを再定義する可能性を秘めています。
【用語解説】
BCI(ブレイン・コンピュータ・インターフェース)
脳とコンピュータを直接接続する技術。脳が発する電気信号を読み取り、外部デバイスを制御したり、逆に脳に信号を送ったりすることを可能にする。医療分野では麻痺患者の運動機能回復や、てんかん治療などへの応用が期待されている。
µECoG(マイクロ皮質電図/Micro-Electrocorticography)
脳の表面に電極アレイを配置して神経活動を記録する技術。従来のECoGよりも電極密度が高く、空間解像度が向上している。脳組織を貫通しないため、侵襲性が低く、長期的な安定性に優れるとされる。
CMOS(相補型金属酸化膜半導体/Complementary Metal-Oxide-Semiconductor)
現代の集積回路で最も広く使用される半導体技術。低消費電力と高集積度を両立できるため、スマートフォンやコンピュータのプロセッサに広く採用されている。BISCもこの技術を応用している。
BCD技術(Bipolar-CMOS-DMOS)
バイポーラトランジスタ、CMOS、DMOSトランジスタの3つの半導体技術を1つのチップに統合する製造プロセス。デジタルロジック、アナログ機能、電力デバイスを効率的に組み合わせることができ、複雑な混合信号集積回路の製造に適している。
硬膜下腔
脳を覆う硬膜と、その内側にある脳の表面(軟膜)の間の空間。BISCはこの空間に配置されるため、脳組織を直接傷つけることなく神経活動を記録できる。
【参考リンク】
Silicon Chips on the Brain – Columbia Engineering(外部)
コロンビア大学工学部による公式プレスリリース。BISC開発の詳細と研究チームの解説を掲載
Nature Electronics論文 – BISC研究(外部)
2025年12月8日掲載の原著論文。65,536電極を持つワイヤレス硬膜下BCIの技術詳細を記述
DARPA(国防高等研究計画局)(外部)
米国防総省の研究開発機関。BISC開発を支援したNeural Engineering System Designプログラムを運営
NewYork-Presbyterian/Columbia University Irving Medical Center(外部)
BISCの臨床研究を実施する医療機関。神経外科医Brett Youngerman博士が所属
TSMC(Taiwan Semiconductor Manufacturing Company)(外部)
世界最大の半導体受託製造企業。BISCチップの製造に0.13μm BCD技術を提供
【参考動画】
【参考記事】
Silicon Chips on the Brain: Researchers Announce a New Generation of Brain-Computer Interface(外部)
コロンビア大学工学部の公式発表。BISCの技術仕様と開発背景を詳述
New US-made brain–computer interface runs on one tiny silicon chip(外部)
BISCの技術的特徴と競合他社との比較。3mm3の体積で65,536電極を実現した設計を解説
Next-Gen Brain-Computer Interface Packs 65,000 Electrodes on One Chip(外部)
Nature Electronics誌掲載論文の詳細解説。前臨床試験の結果と将来的な臨床応用について報告
Neuralink implant limitations | The race to build state of the art implantable brain tech(外部)
Neuralinkの1,024電極と比較し、BCI業界の技術動向を分析。データレートとスケーラビリティの重要性を指摘
A brain implant that could rival Neuralink’s enters clinical trials(外部)
Paradromicsなど競合BCI企業の臨床試験状況。BCI技術の比較と市場動向を報告
BCIs in 2025: Trials, Progress, and Challenges(外部)
2025年時点のBCI業界全体の動向。Neuralink、Synchron、Paradromicsなど主要企業の進捗状況を整理
A wireless subdural-contained brain–computer interface with 65,536 electrodes and 1,024 channels(外部)
Nature Electronics誌に掲載された原著論文。BISCの技術的詳細と実験結果の完全版
【編集部後記】
脳とAIが直接つながる時代が、想像よりも早く訪れようとしています。BISCが示すのは、単なる医療技術の進歩だけでなく、人間と機械の関係性そのものが変わる可能性です。失われた機能を取り戻すための技術として始まったBCIは、やがて私たちの能力を拡張する選択肢になるかもしれません。その時、私たちは何を得て、何を失うのでしょうか。髪の毛ほどの薄さのチップが脳に埋め込まれ、思考が瞬時にデジタル化される未来は、SF的な興奮と同時に、倫理的な問いも投げかけます。みなさんは、この技術が医療の枠を超えて一般化した世界を、どのように想像されますか。






























