キリンホールディングスの飲料未来研究所は、ビールの香味成分を特定する嗜好AI「FJWLA(Flavor Judgment for Whole Liking Analysis)」を開発した。FJWLAは顧客調査データと成分分析データ、AIを統合し、おいしさの要因を成分レベルで特定する技術である。
2026年3月以降に発売するビール類から順次導入され、醸造家の知見と組み合わせることで理想の香味を高精度かつ効率的に実現する。
適用領域はビール類にとどまらず、RTDやワイン、清涼飲料などへ段階的に拡張される。キリンはFJWLAを含む嗜好解析技術を「嗜好プラットフォーム」と位置づけ、購買・リピート情報も統合し、R&Dから市場投入後の改善まで一気通貫で支援する仕組みを構築する。
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ビールの香味成分を特定する嗜好AI「FJWLA」を独自に開発
【編集部解説】
キリンが発表した嗜好AI「FJWLA」は、飲料業界における商品開発プロセスに根本的な変革をもたらす技術です。この開発の意義を理解するには、従来の商品開発がどのように行われてきたかを知る必要があります。
これまでビールの香味開発は、醸造家の長年の経験と勘、そして限定的な官能評価データに依存してきました。顧客が「おいしい」と感じる理由を科学的に解明することは困難で、試作と評価を繰り返す試行錯誤のプロセスが中心でした。FJWLAはこの状況を一変させます。
このAIの最大の特徴は、官能評価という主観的な評価を、具体的な化学成分と結びつけることができる点です。例えば、顧客が「フルーティーな香りがもう少し欲しい」と感じた場合、FJWLAはその改善に必要な特定のエステル化合物や高級アルコールの量を定量的に示すことができます。醸造家はこれらの成分を制御するための発酵条件や原料配合を、科学的根拠に基づいて調整できるようになります。
報道によれば、キリンは20年以上にわたって顧客調査データと成分分析データを継続的に蓄積してきました。この膨大なデータの蓄積が、FJWLAの基盤となっています。データの蓄積がなければ、AIは正確な予測を行えません。実際に複数回の消費者テストでは、AI活用によって開発された商品の方が高く評価されたという具体的な成果も報告されています。
注目すべきは「嗜好プラットフォーム」という概念です。FJWLAは単独の技術ではなく、より大きなエコシステムの一部として位置づけられています。このプラットフォームは、R&Dから商品開発、市場調査、改善までを一気通貫で支援する仕組みです。今後、購買データやリピート情報も統合されることで、開発段階での予測精度がさらに向上し、市場での成功確率も高まります。
FJWLAの適用範囲が、ビール類からRTD、ワイン、清涼飲料へと段階的に拡張される計画も重要です。飲料カテゴリーごとに香味成分の構造は異なりますが、基本的なアプローチ―顧客の嗜好を成分レベルで解析する―は共通です。この技術の汎用性が、キリングループ全体の商品開発力を底上げする可能性があります。
中長期的には、嗜好データと行動データの連携によるパーソナライズ化が視野に入っています。これは単に「万人受けする商品」を作るだけでなく、個々の顧客セグメントに最適化された商品開発への道を開きます。例えば、地域ごとの嗜好差、年齢層による好みの違いなどを反映した商品展開が、より精密に行えるようになるでしょう。
この取り組みは、キリンが掲げる「KIRIN Digital Vision 2035」における「人と共に価値を生み出す仕事を加速させる」というビジョンの具体的な実現例です。AIは人間の醸造家を置き換えるのではなく、彼らの創造性と専門性をより高い次元で発揮させるためのツールとして機能します。
飲料業界全体を見渡すと、味覚や嗜好のAI解析は注目分野の一つです。しかし多くの企業がまだ研究段階にある中、キリンは2026年3月という明確なタイムラインで実用化を宣言しています。この先行性は、競合他社に対する大きなアドバンテージとなるでしょう。
今後の課題としては、AIの予測精度を継続的に向上させること、そして多様化する消費者ニーズに柔軟に対応できるシステムへと進化させることが挙げられます。また、健康志向や持続可能性といった、香味以外の要素も商品選択に影響を与える時代において、これらの要素をどのように統合していくかも注目されます。
【用語解説】
官能評価
人間の五感(視覚、嗅覚、味覚、触覚、聴覚)を用いて製品の品質を評価する手法である。食品業界では特に重要とされ、訓練を受けた評価者が科学的な方法論に基づいて評価を行う。成分分析では表現できない「コク」「フルーティさ」「爽やかさ」といった主観的な項目を定量化できる点が特徴だが、評価者の体調や環境に左右されやすいという課題もある。
RTD(Ready To Drink)
開栓してそのまま飲める状態で販売されているアルコール飲料のことを指す。缶チューハイやカクテル、ハイボールなどが代表例である。
CSV(Creating Shared Value)
企業が社会課題の解決と経済的価値の創出を同時に実現する経営戦略のこと。キリングループが重視する経営理念であり、社会価値と経済価値の両立を目指す。
嗜好プラットフォーム
キリンが構築する、顧客調査データ、成分分析データ、購買データ、リピート情報などを統合したデータ基盤のこと。R&Dから商品開発、市場投入後の改善までを一気通貫で支援する仕組みである。
【参考リンク】
キリンホールディングス(外部)
キリングループの持株会社。食から医にわたる事業を展開している企業の公式サイト
飲料未来研究所 – キリンの研究開発(外部)
FJWLAを開発した研究所。ビール、ワイン、茶など多様な飲料の専門家が在籍
KIRIN Digital Vision 2035(外部)
キリングループのデジタル変革ビジョン。生産性向上と価値創造を両軸とする戦略
【参考記事】
ビール造りで独自開発のAI活用 キリン、おいしさ成分見つけ提案(外部)
共同通信の報道。FJWLAが20年分の消費者調査データを活用し、実際の消費者テストでAI活用商品が高評価を得たことを報じている
キリンHD、ビール香味特定AI「FJWLA」を開発し商品開発を高度化(外部)
長年蓄積した消費者調査および成分分析データを活用し、官能評価結果を定量化する技術を解説
「KIRIN Digital Vision2035」を公開、従業員のデジタルスキルを強化(外部)
キリンのデジタル戦略全体像。生産性向上と価値創造の二本柱を掲げる2035年ビジョン
【編集部後記】
ビールの「おいしさ」を成分レベルで解き明かすキリンのAI技術は、食品開発の新時代を予感させます。私たちが何気なく感じている「この味、好きだな」という感覚が、実は特定の化学成分の組み合わせで説明できるとしたら、どうでしょうか。これは単なる効率化ではなく、人間の感性とテクノロジーが融合する新しい創造の形かもしれません。あなたが普段飲んでいるビールも、近い将来、AIがあなたの好みを学習して提案してくれる時代が来るかもしれません。そんな未来に、わくわくしませんか?































