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Mastercardが独自AIモデル「LTM」を開発—決済データで不正検知とコマースを革新

Mastercardは、決済とコマース向けの新しい基盤AIモデル「大規模テーブルモデル(LTM)」を開発中であることを2026年3月17日に発表した。LTMは、LLMとは異なり構造化データを学習対象とするディープラーニングニューラルネットワークである。

現在、数十億件の匿名化された決済トランザクションで学習を進めており、今後は数千億件規模に拡大する計画だ。加盟店位置情報・不正取引・承認・チャージバック・ロイヤリティプログラムのデータも追加予定である。開発にはNvidiaおよびDatabricksの技術を活用しており、Nvidia GTC 2026カンファレンスで成果を発表する。同モデルはサイバーセキュリティ、ロイヤリティ・リワードプログラム、パーソナライゼーション、ポートフォリオ最適化、データ分析への応用を想定している。執筆者はMastercardのDistinguished Engineerであるスティーブ・フリンターで、APIおよびツールキットの開発も進めていると述べている。

From: 文献リンクMeet Mastercard’s new generative AI model

【編集部解説】

今回の発表で最も注目すべきは、Mastercardが選んだAIモデルの「種類」です。

ChatGPTやClaudeのような大規模言語モデル(LLM)は、テキストや画像、動画といった「非構造化データ」を学習の糧にします。一方、Mastercardが開発したLTM(大規模テーブルモデル)は、決済トランザクションのような整然と行・列に並んだ「構造化データ」を専門とするモデルです。一部の専門家からは「これは生成AIというよりも、従来の機械学習に近い」という指摘もあります。Mastercardが「生成AI」という言葉を冠しているのは、技術的な厳密さよりも戦略的なメッセージの側面が強い、と見ることもできるでしょう。

注目したいのは、プライバシーへのアプローチです。LTMは個人を特定するデータを一切除去したうえで、あくまでも「行動パターン」を読み解くよう設計されています。個人データを保持しながら学習するモデルとは根本的に異なるアーキテクチャであり、金融機関特有の厳しい規制環境において、これは大きなアドバンテージになりえます。

このモデルが最初に狙うのはサイバーセキュリティ、なかでも不正検知の精度向上です。現行モデルの弱点として知られる「誤検知(フォルスポジティブ)」、たとえば結婚指輪のような高額かつ稀な正当な購入がフラグを立てられてしまう問題を、LTMは弱いシグナルからでも学習することで克服できるとしています。ただし現時点での性能評価はMastercard自身の報告にとどまっており、第三者による独立した検証はまだ行われていません。この点は冷静に受け止める必要があります。

ビジネス文脈でも重要な視点があります。Mastercardの付加価値サービス(VAS)部門の純収益は、2024年の108億3,200万ドルから2025年には133億1,500万ドルへと拡大しており、今回のLTMはこの成長ドライバーをさらに加速させる位置づけと見られます。また、今回の発表はAgent Suite(2026年1月)やAgent Pay(2025年4月)といった、Mastercardが推進するエージェント型コマース戦略とも連動しており、同社のAIロードマップにおける基盤インフラとしての役割が期待されています。

競合の動向も見逃せません。Visaは2025年4月にAIコマースプラットフォームのVisa Intelligent Commerceを発表し、Anthropic、OpenAI、Microsoftなど錚々たる企業と連携を進めています。PayPalも2025年10月にエージェント型コマースサービスを開始し、2026年1月にはMicrosoftのCopilot Checkoutへの統合を発表しました。Mastercardにとって今回のLTM開発は、競合他社との差別化を明確にする上でも重要な一手です。

潜在的なリスクとして、一つの基盤モデルを広範囲に展開することの危うさも指摘されています。個別タスク向けに最適化された数千のモデルを一本化することでコストと保守コストの削減は期待できる一方、万が一この基盤モデルに問題が生じた場合、影響がネットワーク全体に及ぶ可能性があります。Mastercardが既存モデルとのハイブリッド運用を前提としているのは、このリスクを意識してのことでしょう。規制当局がLTMのような新しいアーキテクチャをどのように評価するかも、今後の採用ペースを左右する重要な変数です。

長期的には、LTMが成熟するにつれ、何千ものモデルを個別に管理する現在の運用から、一つの基盤モデルを中心としたアーキテクチャへのシフトが現実のものとなるかもしれません。その実現は、決済業界全体のAI開発コストと開発スピードを根本から塗り替える可能性を秘めています。

【用語解説】

LTM(大規模テーブルモデル/Large Tabular Model)
行・列の形式で整理された「構造化データ」を学習するディープラーニングモデルである。テキストや画像を扱うLLMとは異なり、データベースや表形式のデータセットを直接処理することに特化している。決済や金融など、膨大な取引記録を持つ分野との親和性が高い。

LLM(大規模言語モデル/Large Language Model)
テキスト・画像・動画などの「非構造化データ」を大量に学習したニューラルネットワークである。ChatGPTやClaudeなどの一般的なチャットボットに使われている技術で、次に来るトークン(単語など)を予測することで文章を生成する。

基盤モデル(Foundation Model)
特定の用途向けではなく、幅広いアプリケーションの「土台」として利用できる大規模AIモデルの総称である。一度学習させた基盤モデルをさまざまなタスクに転用(ファインチューニング)できるため、個別にモデルを構築する手間やコストを大幅に削減できる可能性がある。

構造化データ/非構造化データ
構造化データとは、スプレッドシートやデータベースのように行と列に整理されたデータを指す。非構造化データは、文章・画像・動画など、あらかじめ決まった形式を持たないデータを指す。決済トランザクション記録は前者の代表例である。

フォルスポジティブ(誤検知)
不正検知システムが、実際には正当な取引を誤って「不正」と判定してしまうことである。結婚指輪のような高額かつ稀な購入がその典型例であり、過度な誤検知は顧客体験の悪化やビジネス機会の損失につながる。

VAS(付加価値サービス/Value-Added Services)
カードネットワークの手数料収入とは別に、セキュリティ・分析・パーソナライゼーションといったサービスから得られる収益区分である。Mastercardの成長ドライバーとして近年その比重が増している。

チャージバック
カード決済において、消費者が不正利用や商品未着などを理由に異議を申し立てた際、カード会社が加盟店から代金を取り戻す手続きを指す。不正取引との相関が高いデータとして、AIモデルの学習に活用される。

【参考リンク】

Mastercard 公式サイト(外部)
世界最大規模の決済ネットワークを運営する企業。カード決済インフラのほか、サイバーセキュリティやAI分析サービスも手がける。

Nvidia 公式サイト(外部)
GPUを中心とするアクセラレーテッドコンピューティングのリーダー企業。今回のLTM開発においてコンピューティング基盤を提供している。

Databricks 公式サイト(外部)
データエンジニアリングとAI開発を統合したプラットフォーム企業。LTM開発においてデータ基盤エンジニアリングを担当する。

Nvidia GTC 2026 公式ブログ(外部)
Mastercardを含む企業がNvidiaのAI技術を活用してグローバルコマースの最適化に取り組む事例を紹介するブログ。

【参考記事】

Mastercard builds a payments AI model|TechInformed(外部)
VAS純収益の推移(2024年:$10.832B→2025年:$13.315B)など財務データも交え、Decision Intelligence Proの実績やVisa・PayPalとの競合比較を詳報。

Mastercard Expands Gen AI Push With Model Built for Payments|PYMNTS(外部)
チーフAI・データオフィサーのグレッグ・ウルリッヒ氏への独自取材を掲載。同社AIロードマップの方向性を詳しく伝えている。

Mastercard keeps tabs on fraud with new foundation model|AI News(外部)
LTMの技術的特性を分析。性能評価はベンダー報告のみで第三者検証が未実施であることや、規制リスクを冷静に指摘している。

Mastercard unveils new AI model built for the realities of payments|Peachwire(外部)
なぜLTMが決済に適しているかを構造化データの観点から解説。誤検知削減の意義や基盤モデル化によるコスト削減の可能性を論じる。

Mastercard Builds Generative AI Model for Payment Insights, Fraud Detection|Fintech News Singapore(外部)
LTMがチャットボットではなくコマースのインサイトエンジンとして位置づけられている点を整理し、各応用領域をまとめている。

【関連記事】

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2024年に発表されたDecision Intelligence Proを解説。今回のLTM開発の前史にあたる記事。

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Mastercard・Visa・Amexのカード業界全体のAI活用動向を概説した背景記事。

【編集部後記】

私たちが毎日何気なく使っているカードの裏側で、AIが静かに進化を続けています。「決済データ」という、ある意味で私たち自身の行動の記録が、次世代のセキュリティや体験を形づくっていく——そう考えると、少し不思議な感覚がありませんか。

この技術が私たちの生活にどんな変化をもたらすのか、ぜひ一緒に注目していただけたら嬉しいです。

投稿者アバター
Ami
テクノロジーは、もっと私たちの感性に寄り添えるはず。デザイナーとしての経験を活かし、テクノロジーが「美」と「暮らし」をどう豊かにデザインしていくのか、未来のシナリオを描きます。 2児の母として、家族の時間を豊かにするスマートホーム技術に注目する傍ら、実家の美容室のDXを考えるのが密かな楽しみ。読者の皆さんの毎日が、お気に入りのガジェットやサービスで、もっと心ときめくものになるような情報を届けたいです。もちろんMac派!

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