海のどこかでひっそり生きてきた細菌が、がん治療の「プレーヤー」になろうとしています。
遺伝子改変すら必要としないPhotobacterium angustumという海洋細菌は、これからのがん免疫療法の常識を少しずつ揺さぶる存在になるかもしれません。
北陸先端科学技術大学院大学の研究グループが、海洋細菌Photobacterium angustumが大腸がんマウスモデルにおいて強い抗腫瘍効果と高い腫瘍選択性を示すことを11月21日に公式プレスリリースで発表した。
この天然株は遺伝子改変を行わずに静脈内投与で腫瘍組織に集積し、炎症誘発性大腸がんや薬剤耐性トリプルネガティブ乳がんモデルでも生存期間の延長と一部個体の完全寛解をもたらしたとされる。
外毒素による腫瘍溶解とTNF-αやIFN-γなどのサイトカイン増加を介した免疫活性化という二重のメカニズムが確認され、肝臓以外の主要臓器で顕著な毒性は認められなかった。
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遺伝子改変不要の天然細菌が大腸がんを選択的に攻撃
【編集部解説】
海の細菌が、がん治療の主役候補として名乗りを上げてきました。 Photobacterium angustumは、遺伝子をいじらなくても大腸がんやトリプルネガティブ乳がんの腫瘍に選択的に入り込み、がん細胞の破壊と免疫の長期活性化を同時に引き起こすという点で、従来の細菌療法とは一線を画している存在です。
これまで細菌を使ったがん治療は、サルモネラや大腸菌を遺伝子改変して薬やサイトカインを作らせる発想が中心で、そのぶんGMO規制や製造プロセス、安全性評価のハードルが高くなりがちでした。 一方でP. angustumは天然株のまま腫瘍選択性と抗腫瘍活性を示すため、「何かを足して強くする」のではなく、「もともと備わっていた性質を医療に翻訳する」という方向性に近いアプローチと言えます。
技術的な肝は、外毒素による直接的な腫瘍溶解と、TNF-αやIFN-γの増加を伴う免疫活性化が組み合わさっている点です。 腫瘍そのものを壊しながら、「一度がんを経験した免疫系」が再発に備えるような状態をつくれている可能性があり、チェックポイント阻害薬やCAR-Tといった既存の免疫療法との併用も視野に入ります。
もちろん、マウスモデルでの成功がそのまま人間に当てはまるわけではありません。 他の海洋細菌株では投与後2日以内に死亡するほどの毒性が出ている例もあり、「どの株なら安全か」という線引きは慎重な検証が欠かせません。 ヒトの免疫や腸内細菌叢はマウスより複雑で、敗血症リスクや長期的な影響も含めて、臨床に進むまでには多くのハードルが残っています。
それでも、この研究が示しているのは「生きた微生物を、がんのためにデザインする」という大きな流れの一端です。 AIやmRNA、細胞治療に続いて、天然の海洋細菌という一見遠い存在が、がん治療のエコシステムにどう組み込まれていくのか。日本発の研究がその問いに挑んでいること自体が、未来の医療の選択肢を少しだけ増やしてくれているように感じます。
【用語解説】
Photobacterium angustum(フォトバクテリウム・アングスタム)
海洋に生息するグラム陰性細菌で、本研究では遺伝子改変を行わない天然株として大腸がんやトリプルネガティブ乳がんモデルで抗腫瘍効果を示したと報告されている。
大腸がん(colorectal cancer)
大腸に発生する悪性腫瘍の総称で、世界的に主要な死因の一つとされるがんであり、本研究のマウスモデルで標的となっている。
トリプルネガティブ乳がん(triple-negative breast cancer, TNBC)
エストロゲン受容体、プロゲステロン受容体、HER2がいずれも陰性の乳がんサブタイプで、薬剤耐性や再発リスクの高さが課題とされるが、本研究ではこのモデルにもP. angustumの効果が示された。
腫瘍溶解作用(tumor lysis)
細菌やウイルス、薬剤などによって腫瘍細胞が破壊される現象の総称で、P. angustumが産生する外毒素を介してがん細胞を直接壊すメカニズムが含まれる。
腫瘍微小環境(tumor microenvironment)
腫瘍周囲に存在する免疫細胞、血管、線維芽細胞、サイトカインなどを含む局所環境で、多くの場合低酸素かつ免疫抑制的であり、P. angustumが選択的に定着する場として重要になる。
炎症性サイトカイン(TNF-α, IFN-γなど)
免疫応答や炎症反応を促進するシグナルタンパク質で、本研究ではTNF-αとIFN-γの上昇が抗腫瘍免疫の活性化と関連づけられている。
ヘモリシン(hemolysin)
赤血球の溶血作用を持つ毒素タンパク質の総称で、P. angustumが産生する外毒素群の一部として、がん細胞の直接的な破壊に関与すると考えられている。
チェックポイント阻害薬(immune checkpoint inhibitors)
PD-1やCTLA-4などの免疫チェックポイント分子を阻害してT細胞の抗腫瘍活性を回復させる薬で、固形がん治療で広く用いられているが、本研究の細菌療法との併用も検討対象となりうる。
CAR-T細胞療法(CAR-T cell therapy)
患者由来のT細胞にキメラ抗原受容体(CAR)を組み込み、特定抗原を認識させてがん細胞を攻撃させる個別化免疫療法で、主に血液がんで実用化されている。
【参考リンク】
JAIST Press Release(EN)(外部)
Photobacterium angustumによるがん免疫療法研究の英語プレスリリースで、研究概要と論文情報が整理されている。
Journal for ImmunoTherapy of Cancer 論文ページ(外部)
本研究「Systemic administration of Photobacterium angustum…」の正式掲載ページで実験データや図表にアクセスできる。
PubMed 論文レコード(外部)
同論文の抄録、キーワード、出版情報を収録した医学・生命科学向け文献データベースのエントリである。
【参考記事】
Breakthrough in cancer immunotherapy using marine bacteria(外部)
JAISTのPhotobacterium angustum研究を一般向けに紹介し、海洋細菌スクリーニングや生存期間延長、TNF-α・IFN-γ増加と免疫記憶形成について平易にまとめている。
Marine bacterium shows powerful therapeutic effects against colorectal cancer(外部)
腫瘍への選択的集積、肝臓以外の臓器での低い定着性、血液学的・組織学的毒性が認められない点など、安全性プロファイルとメカニズムを中心に報じている。
Marine Bacterium Shows Strong Potential Against Colorectal Cancer(外部)
複数の海洋細菌株を比較し、P. angustumのみが強い抗腫瘍効果と生存期間延長を示し、他株は投与後2日以内に高い毒性を示した点を強調している。
Colorectal Cancer Immunotherapy Sees Bacterial Breakthrough(外部)
P. angustumが低酸素の腫瘍微小環境をコロナイズし、免疫細胞浸潤とサイトカイン増加を引き起こす仕組みを解説し、チェックポイント阻害薬やCAR-Tとの位置づけも論じている。
Systemic administration of Photobacterium angustum promotes antitumor immunity and direct tumor lysis in murine models of colorectal cancer(外部)
大腸がんマウスモデルでの菌株スクリーニング、腫瘍コロナイゼーション解析、サイトカイン測定などを通じて、P. angustumの二重メカニズムと長期免疫応答を示した原著論文である。
【編集部後記】
海のどこかで静かに暮らしていた細菌が、がん治療の新しい選択肢として語られはじめている──そんな物語性に、少しワクワクしてしまいます。 同時に、「生きた微生物を体内に入れる」という発想には、不安や戸惑いがある方もきっと多いと思います。
もし自分や大切な人が治療を選ぶ場面に立ったとき、こうした新しいアプローチをどう受け止めるか。正解は一つではありませんが、その判断材料になる情報を、これからも一緒に追いかけていけたらうれしいです。






























