1890年(明治23年)12月16日。東京と横浜の間で、日本初となる電話交換業務が開始されました。
これは、日本人が「距離」を克服し、リアルタイムで声を届けられるようになった記念すべき日です。しかし同時に、ある深刻な問題が産声を上げた日でもありました。
それは、「プライバシーの欠如」です。
当時の電話は、通話内容が文字通り「筒抜け」でした。それから135年。私たちはスマートフォンを手にし、エンドツーエンドの暗号化技術を享受していますが、果たして「秘密」は本当に守られているのでしょうか?
今日は、電話開通の記念日を入り口に、「人間への信頼」から「物理法則への信頼」へと進化する、通信セキュリティの壮大な歴史と、その最前線で世界をリードする日本の技術について紐解きます。
目次
- セキュリティは「人の良心」頼みだった(1890年)
- 「数学」への信頼とその限界(〜2025年)
- 文系でもわかる「量子暗号」の仕組み(未来)
- 日本が静かに握る「世界最強の盾」の覇権
- Information:関連リソース

セキュリティは「人の良心」頼みだった(1890年)
明治の交換手と「性善説」の限界
1890年の電話システムは、現代のように自動で相手に繋がるものではありませんでした。受話器を取ると、まずは「交換局」に繋がり、そこにいる「交換手(オペレーター)」に相手の番号を伝えて、手動で回線を繋いでもらう仕組みでした。
構造上、交換手は通話の内容を聞こうと思えばいつでも聞くことができました。また、技術が未熟だったため「混線」も日常茶飯事。赤の他人の会話が受話器から流れてくることも珍しくありませんでした。
当時のセキュリティを担保していたもの、それは暗号技術でもファイアウォールでもなく、「交換手の職業倫理(守秘義務)」だけでした。つまり、当時の通信インフラは、「人間は悪いことをしないはずだ」という危うい性善説の上に成り立っていたのです。
【歴史の余談:交換手へのお小言】
当時の新聞には、しばしば交換手に対する苦情が掲載されていました。「呼び出しへの応答が遅い」といったものに加え、「交換手が通話を聞いているのではないか」「おしゃべりをしている」といった、プライバシーに対する不信感も記録に残っています。人が介在する以上、「信頼」は常に揺らいでいたのです。
「数学」への信頼とその限界(〜2025年)
迫りくる「Q-Day」と「Harvest Now, Decrypt Later」
20世紀に入り、自動交換機の普及によって「人に聞かれる」リスクは消滅しました。インターネットの登場とともに、人類は新たな防御策を手に入れます。それが「数学」への信頼(公開鍵暗号)です。
「この数式を解くには、スパコンでも何億年もかかる」。この計算の複雑さを盾に、私たちはデジタルの平和を保ってきました。しかし今、「量子コンピュータ」の実用化によって、その前提が崩れ去ろうとしています(2030年問題/Q-Day)。
さらに恐ろしいのが、ハッカーや敵対的な国家による「Harvest Now, Decrypt Later(今盗み、後で解く)」という攻撃手法です。
- 今は解読できない暗号データでも、今のうちに収集(Harvest)しておく。
- 数年後、高性能な量子コンピュータが完成した瞬間に、過去のデータを一気に解読する。
これは、1890年の交換手が「今は意味がわからない外国語の通話を録音しておき、後で辞書を買って翻訳する」のと同じ構造です。数学(計算量)に依存したセキュリティは、いつか必ず破られる運命にあるのです。
文系でもわかる「量子暗号」の仕組み(未来)
「計算能力が上がれば破られる」というイタチごっこを終わらせるために、人類が辿り着いた究極の答え。それが「量子暗号通信(QKD)」です。これは「数学的な難しさ」ではなく、「宇宙の物理法則」によって安全性を担保します。
その仕組みを、数式なしで解説しましょう。
「光子」は、世界で一番繊細なシャボン玉
量子暗号通信では、「たった1個の光子」に情報を乗せて送ります。この光子は、究極にデリケートな「シャボン玉」だと想像してください。
- ルール:誰かが触れる(盗聴する)と、形が変わってしまう、あるいは割れてしまう。
もし、悪意ある盗聴者(イブ)が、通信途中の光子を覗き見ようとすると、物理法則(不確定性原理)により、その光子の状態は必ず変化してしまいます。
盗聴されたことが「100%」バレる
受信者は、届いた光子をチェックします。「誰も触っていなければ綺麗な球体」のはずなのに、「形が歪んでいる(エラーが多い)」場合、それは「誰かが盗聴した証拠」です。
盗聴されたとわかれば、その鍵は捨ててしまえばいい。結果として、二人の手元には「誰にも触られていない、純粋な暗号鍵」だけが残ります。
セキュリティの信頼基盤は、ついに「計算(解けるかもしれない)」から「物理(原理的に解けない)」へと進化したのです。
日本が静かに握る「世界最強の盾」の覇権
「AIはアメリカに負けた」と嘆くのは早計です。AIの次に必ず必要となるこのインフラにおいて、日本企業は世界トップクラスの実力を保持しています。
実は「世界1位」の東芝、それを追うNEC
量子暗号通信は、光の粒を一つずつ制御する「超絶技巧」のハードウェア技術が必要です。これは日本の製造業のお家芸です。
- 東芝:量子暗号通信の特許数および鍵配送速度で世界トップクラス。すでにロンドンや東京で商用試験運用を開始し、金融機関などと実用化を進めています。
- NEC:1899年創業、以来100年以上にわたり日本の通信網を支え続けてきたノウハウを生かし、長距離通信や衛星通信への適用で存在感を示しています。
世界が注目する「東京QKDネットワーク」
日本の首都・東京には、世界でも稀な最先端の実験場が存在します。NICT(情報通信研究機構)が中心となり構築されたテストベッドでは、実際に東京圏の光ファイバー網を使って、ベンダーを超えた相互接続試験が行われています。
1890年、東京-横浜間で始まった日本の通信史は、今、東京から世界標準のセキュリティを発信するフェーズに入っているのです。
【Information】
情報通信研究機構(NICT) 量子ICT協創センター
記事内で紹介した「東京QKDネットワーク」を運用・管理している国立研究開発法人です。日本の量子通信研究の総本山であり、テストベッドの最新状況や、衛星通信を使った量子実験の成果などを発信しています。
東芝:量子暗号通信システム
量子暗号通信の特許数および鍵配送速度で世界トップクラスの実績を持つ東芝の公式ページです。金融分野への応用事例や、実際に提供されているプラットフォームの詳細な仕様を確認できます。
NEC:量子暗号(サイバーセキュリティ)
地上ネットワークだけでなく、光衛星通信や海底ケーブルへの適用など、広域ネットワーク構築のビジョンが示されています。































