1979年、オランダ・アイントホーフェン。ソニーとフィリップスの技術者たちが、ある数字をめぐって対立していました。
新しいデジタル音楽メディア、コンパクトディスク(CD)の規格を決める最終段階でした。フィリップスは直径11.5センチ、収録時間60分を主張します。カー・オーディオ市場を見据え、ヨーロッパのDIN規格に適合するサイズです。一方、ソニーは12センチ、74分を譲りません。
フィリップス側が反論します。「12センチでは上着のポケットに入らない」。ソニー側は調査結果を示しました。「日本、アメリカ、ヨーロッパで、14センチ以下のポケットは存在しません」
議論は平行線をたどりました。そこで、当時ソニー若手社員だった大賀典雄が、ある言葉を口にします。
「オペラの幕が途中で切れてはいけない。ベートーヴェンの第九も入らなくては」
会議室に、静寂が訪れました。155年前の音楽が、デジタル時代の規格を決めようとしていたのです。
1824年5月7日、ウィーン・ケルントナートーア劇場
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン、53歳。彼は完全に聴力を失っていました。
指揮台に立つ彼の耳には、何も聞こえません。オーケストラの音も、合唱の声も。彼が自ら指揮する交響曲第9番の初演、その壮大な音楽を、彼だけが聴くことができなかったのです。演奏が終わり、会場が割れんばかりの拍手に包まれても、ベートーヴェンは気づきませんでした。ソプラノ歌手カロリーネ・ウンガーが彼の肩を叩き、振り向かせて初めて、彼は観客の熱狂を知りました。
約65分。この夜の演奏は、おそらくそれくらいの長さだったと推定されています。
彼は知りませんでした。この音楽が、155年後の技術規格を決めることになるとは。
1951年7月29日、バイロイト音楽祭
第二次世界大戦後、6年間閉鎖されていたバイロイト音楽祭が再開されました。リヒャルト・ワーグナーによって創設されたこの音楽祭は、戦争とナチスの影に覆われていました。戦後初の公演を飾るのは、ワーグナーのオペラではなく、ベートーヴェンの第九でした。
指揮者はヴィルヘルム・フルトヴェングラー。彼もまた、戦時中ナチスとの関係を疑われ、演奏活動を制限されていた過去を持ちます。復興を象徴するこの演奏会は、音楽祭創始者ワーグナーの孫、ヴォルフガング・ワーグナーとヴィーラント・ワーグナー兄弟が、フルトヴェングラーを説得して実現させました。
演奏時間:74分13秒。第1楽章18分3秒、第2楽章11分50秒、第3楽章19分20秒、第4楽章25分00秒。当時、最も長い第九の演奏として記録されました。
この「バイロイトの第九」は、後世「全人類の至宝」とまで讃えられることになります。そして、この74分という数字が、28年後、世界中の音楽の聴き方を決める基準となるのです。
友情が世界規格を決めた
大賀典雄は、東京藝術大学声楽科の出身でした。バリトン歌手としてデビューした後、ドイツに留学します。ベルリン国立芸術大学で学んでいた1954年、彼はある人物と出会いました。
ヘルベルト・フォン・カラヤン。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の新しい首席指揮者として着任したばかりの、後に「帝王」と呼ばれることになる指揮者です。
二人には共通の趣味がありました。飛行機の操縦です。音楽と航空機、そして技術への情熱が、この東洋の若い声楽家と世界的指揮者を結びつけました。大賀は帰国後、東京通信工業(後のソニー)に入社します。音楽家でありながら、技術者でもあるという、稀有な経歴でした。
1979年、CD規格をめぐる交渉が行き詰まった時、大賀はカラヤンに相談しました。「60分では短い。私が指揮するベートーヴェンの第九が1枚に収まるようにしてくれ」。カラヤンの助言は明確でした。
実際、カラヤン自身が指揮する第九は約66分です。しかし、大賀が調べた中で最も長い演奏は、フルトヴェングラーの74分13秒でした。ソニーはさらに調査を重ね、75分あればクラシック音楽の95パーセントが1枚に収まることを突き止めます。そして、技術的に実現可能な最大値として、74分42秒が選ばれました。
フィリップスとの交渉の席で、大賀は切り札を出します。「巨匠カラヤンもそう望んでいます」。ヨーロッパのクラシック音楽界で絶大な影響力を持つカラヤンの名前は、フィリップスを動かしました。1980年6月、CD規格は正式に決定します。直径12センチ、最大収録時間74分42秒。
1989年7月16日、オーストリア・ザルツブルク。大賀はカラヤンの自宅を訪れていました。新しい映像技術について話し合うためです。カラヤンは体調がすぐれませんでしたが、寝室で大賀を迎えます。ベッドの上で、近く指揮する予定のヴェルディ「仮面舞踏会」のスコアを見ながら、二人は談笑していました。
突然、カラヤンが崩れ落ちます。大賀の腕の中で、帝王は静かに息を引き取りました。81歳でした。
2011年4月23日、東京。大賀典雄が多臓器不全で死去します。81歳。大賀は生前、病床で語っていたそうです。「カラヤンが向こうの世界から、おいで、おいでと呼んでいるような気がした」
1982年10月1日、そして2025年
1982年10月1日。日本で世界初のCDプレーヤーが発売されました。ソニーCDP-101、価格は168,000円。同時に、CBS・ソニーから50タイトルのCDソフトが発売されます。
生産第1号は、ビリー・ジョエル「ニューヨーク52番街」でした。洋楽では品番35DP-1、邦楽では大滝詠一「A LONG VACATION」が35DH-1。50タイトルには、クラシック、ポップス、ジャズが含まれていました。
しかし、皮肉なことに、CD規格を決める根拠となったベートーヴェンの第九は、この初回リリースには含まれていませんでした。それでも、全てのCDは74分という「見えない枠」の中にありました。1824年のウィーン、1951年のバイロイト、そして1979年の会議室で決まった数字です。
CDは、音楽の聴き方を変えました。LPレコードでは2枚組になっていた第九が、1枚に収まります。曲間でディスクを裏返す必要もありません。デジタル録音は、何度再生しても音質が劣化しません。1982年から2010年代まで、約30年間、CDは私たちの音楽体験を支配しました。
2025年12月、今。Spotify、Apple Music、YouTube Music。ストリーミングサービスで音楽を聴く時代に、74分という制約はもはや存在しません。アルバムという概念も変わりつつあります。プレイリストは何時間でも続きます。
しかし、一度、私たちは74分という「枠」の中で音楽を聴いていました。その74分は、1824年に生まれ、1951年に記録され、1979年に技術規格となり、世界中の音楽を運んだのです。
音楽は時間を超える
今日、あなたがイヤフォンで聴く音楽に、74分という制約はありません。
けれども、技術は常に何かを「選ぶ」のです。かつて、私たちの音楽体験は74分という枠の中にありました。ボイジャー2号が宇宙に運んだゴールデンレコードが90分だったように、媒体は常に時間を決めます。
そして、その時間は時に、155年前の音楽が決めることがあるのです。
ベートーヴェンは自分の音楽を聴くことができませんでした。しかし、彼の第九は、音楽を聴くための技術を決めました。技術が音楽を選ぶのではなく、音楽が技術を選んだ瞬間がありました。
2025年、制約は消えました。しかし、いつか私たちは、新しい制約の中で音楽を聴くことになるかもしれません。その時、どの音楽が、どの瞬間が、未来の基準を決めるのでしょうか。
Information
参考リンク
- ベートーヴェン:交響曲第9番「合唱」 – 各種ストリーミングサービスで視聴可能
- フルトヴェングラー バイロイトの第九(1951年) – CD、配信で入手可能
- ソニー社史 第8章「レコードに代わるものはこれだ」 – CD開発の詳細な経緯
用語解説
コンパクトディスク(CD) 1982年にソニーとフィリップスが共同開発したデジタル音楽媒体。直径12センチ、最大収録時間74分42秒。サンプリング周波数44.1kHz、量子化16bitのPCM(パルス符号変調)方式でデジタル録音されます。レーザー光を使ってディスク表面の微細な凹凸(ピット)を読み取り、音声データを再生します。アナログレコードと異なり、再生による音質劣化がないことが最大の特徴でした。
バイロイト音楽祭 1876年、作曲家リヒャルト・ワーグナーによってドイツ・バイロイトに創設された音楽祭。当初はワーグナーのオペラ作品のみを上演する祭典として始まりました。第二次世界大戦中はナチスとの関係が深く、戦後1945年から1951年まで開催が中止されます。1951年の戦後再開時、ワーグナー家の孫たちはフルトヴェングラーを招き、ベートーヴェンの第九で幕を開けました。
大賀典雄(1930-2011) ソニー元社長・会長。東京藝術大学声楽科卒業後、ベルリン国立芸術大学で学び、バリトン歌手として活動。1959年ソニー入社。CD開発を主導し、CBS・ソニーレコード社長、ソニー社長・会長を歴任しました。指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンと深い親交があり、CD規格決定にカラヤンの助言が大きく影響しました。音楽家と経営者という二つの顔を持つ稀有な人物でした。
ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908-1989) 20世紀を代表する指揮者。1955年から1989年までベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の芸術監督・終身指揮者を務め、「帝王」と呼ばれました。録音技術の革新に積極的で、CD開発の初期段階から強い関心を示し、デジタル録音の普及に貢献します。飛行機とスポーツカーを愛し、自ら操縦していました。1989年7月16日、ソニーの大賀典雄が訪問中に急逝。81歳でした。































