鉄道会社が、なぜ心臓に人工ポンプを埋め込んだ重症患者の在宅ケアに挑むのか。2040年に94兆円へと膨らむ医療費、3年以上待つ心臓移植――限界を迎えた日本の医療システムを、PHRアプリと地域ネットワークで再構築する産学連携プロジェクトが動き出した。
阪急阪神ホールディングス株式会社、株式会社日立製作所、国立大学法人大阪大学大学院医学系研究科 心臓血管外科学講座は2026年1月26日、デジタル活用による在宅心不全自己管理支援サービスの構築と社会実装に向けた共同検討を開始したと発表した。
日本の医療・介護費は2018年度に約50兆円、2040年度には約94兆円に達する見込みである。本検討では心不全患者を対象に、PHRアプリとリアルな生活サービスを組み合わせ、重症化・再入院の予防を支援する。2025年11月から2026年1月の3カ月間、大阪大学医学部附属病院に通う心不全ステージDの患者を対象として実証を行う。
PHRアプリ「いきいき羅針盤」内で心不全患者向け自己管理アプリ「LVAD自己管理記録ノート」を提供し、バイタルデータの入力や管理栄養士監修の食事レシピなどを提供する。2026年度以降は参画医療機関と対象患者数を拡大する予定である。
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阪急阪神ホールディングス、日立製作所、大阪大学大学院医学系研究科 心臓血管外科学講座がデジタル活用による心不全患者の在宅ケアを支援する新サービスの構築とその社会実装に向けた共同検討を開始
【編集部解説】
このニュースは、日本が直面する医療費増大という喫緊の社会課題に対し、テクノロジーを活用した新しい医療モデルの構築を目指す重要な取り組みです。特に注目すべきは、鉄道会社である阪急阪神ホールディングスが、日立製作所、大阪大学という異業種・異分野のパートナーと組んで、心不全という命に関わる疾患領域に踏み込んだ点にあります。
心疾患は日本人の主要な死亡原因の一つであり、その中でも心不全は高齢化の進展とともに患者数の急増が懸念されています。特に、本実証で対象とする「心不全ステージD」は末期心不全と呼ばれる最も重症な段階で、通常の薬物療法では症状が改善せず、入退院を繰り返すことも多い状態です。このステージの患者には左室補助人工心臓の装着や心臓移植が必要となりますが、日本では心臓移植のドナーが圧倒的に不足しており、数年以上の待機期間となることもあります。
左室補助人工心臓は、心臓のポンプ機能を補助する医療機器です。2011年に植込型が保険承認されてから、重症心不全患者の生命を救う重要な治療選択肢となってきました。植込型であれば体内にポンプを植え込み、バッテリーをキャリーバッグで携行することで在宅生活が可能になるケースも存在します。しかし、患者や介護者には大きな負担がかかります。日々のバイタルデータの管理、ワルファリンによる抗凝固療法、感染症や血栓症などの合併症リスクへの対応など、細心の注意が求められるのです。
今回のサービスが革新的なのは、デジタルとリアルの融合によって、この負担を軽減しようとしている点です。PHRアプリ「いきいき羅針盤」を通じて、患者は日々のバイタルデータを入力し、管理栄養士監修の食事レシピやセルフケア動画を活用できます。そして何より重要なのは、このデータが多職種に共有され、医師、看護師、薬剤師、管理栄養士といった専門家が連携して患者をサポートできる仕組みです。従来のように患者が各医療機関を回って情報を伝える必要がなくなり、専門家同士もリアルタイムで情報を共有して適切な介入ができるようになります。
PHR、つまりパーソナルヘルスレコードは、個人の健康・医療・介護に関する情報を本人が管理・活用する仕組みで、政府・関係省庁が推進している国策です。これまで病院や薬局ごとにバラバラに存在していたデータを一元管理することで、より効果的な予防医療や個別化医療の実現を目指しています。本取り組みは、このPHRの理念を最も医療ニーズが高い重症心不全領域で実証しようとするものです。
本実証の社会的意義は、単なる医療の効率化にとどまりません。2018年度に約50兆円だった医療・介護費は、2040年度には約94兆円に達する見込みです。これは推計上日本のGDPの約12%に相当します。心不全患者の重症化を防ぎ、再入院を減らすことができれば、医療費の削減につながるだけでなく、患者と介護者の生活の質が向上し、就労継続も可能になります。つまり、経済的効果と人道的価値の両立を目指す取り組みなのです。
実証は2025年11月から2026年1月までの3カ月間、大阪大学医学部附属病院で実施されます。その後、2026年度以降は参画医療機関と対象患者数を拡大し、さらなるエビデンスの蓄積を進める計画です。最終的には、最も重症度の高いステージDから、より患者数の多いステージC、ステージBへと適用範囲を広げることで、社会的インパクトを最大化することを目指しています。
阪急阪神ホールディングスという鉄道事業者がヘルスケア領域に参入している背景には、沿線住民の高齢化という切実な課題があります。同社は沿線の人々の健康寿命を延ばすことが、持続可能な鉄道事業の基盤になると考えているのです。この視点は、単なる新規事業開拓を超えて、地域社会との共生を志向する企業の新しい形を示しています。
テクノロジーは、医療現場の人手不足を補うだけでなく、患者の自己管理能力を高め、医療の質を向上させる可能性を秘めています。本取り組みが成功すれば、超高齢社会における持続可能な医療モデルの一つの解答となるでしょう。プレスリリースでも触れられている通り、将来的には蓄積データをAI診療支援に活用することで、さらなる医療の進化も期待できます。
【用語解説】
PHR(パーソナルヘルスレコード)
Personal Health Recordの略。個人の健康・医療・介護に関する情報を本人が生涯にわたって時系列的に管理・活用する仕組み。情報を一元管理することで、より効果的な予防医療や個別化医療の実現を目指す。経済産業省、厚生労働省、総務省が連携して推進している国策の一つである。
LVAD(左室補助人工心臓)
Left Ventricular Assist Deviceの略。機能が低下した心臓のポンプ機能を補助し、全身に血液を送り出す医療機器。2011年に植込型が保険承認され、体内にポンプを植え込み、バッテリーをキャリーバッグで携行することで在宅生活が可能になった。心臓移植までの待機期間中に患者の生命を維持する役割を担う。
心不全ステージD
心不全の進行度を示す4段階分類(ステージA〜D)の最終段階。末期心不全とも呼ばれ、ガイドラインに準拠した薬物療法を行っても安静時に重度の症状が続く状態。心臓移植、補助人工心臓、緩和ケアなどの高度な医療介入が必要となる。ステージ分類は不可逆的で、一度進行すると元に戻ることはない。
【参考リンク】
阪急阪神ホールディングス株式会社(外部)
鉄道事業を中核に多角的事業を展開。健康寿命延伸を目指しヘルスケア分野に注力。
株式会社日立製作所(外部)
IT・OTを活用した社会イノベーション事業を展開。医療・ヘルスケアソリューション提供。
大阪大学医学部附属病院(外部)
高度先進医療を提供する国立大学病院。重症心不全治療において国内有数の実績。
経済産業省 PHR(Personal Health Record)(外部)
PHRサービス推進の取組紹介。ガイドラインや実証事業報告書を掲載。
厚生労働省 2040年を見据えた社会保障の将来見通し(外部)
2040年度までの医療・介護給付費推計。社会保障制度の持続可能性を解説。
【参考記事】
2040年度の医療・介護給付費は最大94兆円に―内閣府など試算|Web医事新報(外部)
2040年度の医療・介護給付費が92.5〜94.3兆円に達する政府推計を詳報。
病院のあり方に関する報告書|全日本病院協会(外部)
2040年推計の詳細解説。医療福祉分野就業者数の試算など。
PHR(パーソナルヘルスレコード)について | 健康長寿ネット(外部)
PHRの概要と国の推進政策を解説。ライフステージ別アプリ活用を紹介。
重症心不全に対するLVAD(エルバド)とは|長崎大学病院 循環器内科(外部)
LVADの詳細と治療の流れを解説。心臓移植待機期間は3年以上と説明。
心不全の重症度はどのように分類されるか | 心不全のいろは(外部)
心不全ステージ分類を解説。ステージDは末期心不全で進行は不可逆的。
【編集部後記】
重症心不全患者の在宅生活を支えるこの取り組みは、テクノロジーが医療の枠を超えて人々の暮らしに寄り添う可能性を示しています。鉄道会社が沿線住民の健康を守るために医療領域に踏み込む姿勢は、企業と地域社会の関係性を再定義しているようにも感じられます。
あなたの暮らす地域では、どのような企業や組織が医療・介護の課題解決に関わっているでしょうか。また、自分や家族の健康データを一元管理することに、どのような可能性や不安を感じますか。2040年には医療・介護費が約94兆円に達するという現実を前に、私たち一人ひとりがどう向き合うべきか、一緒に考えていきたいと思います。






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