「マルチスピーシーズ」とは、直訳すれば「複数の種」ですが、この言葉が示しているのは、単に多様な生物が存在するという事実ではありません。人間社会は、人間だけで成り立っているのではなく、動物、植物、微生物、菌類、さらには土壌や水系を含む環境との関係の中で成立しています。こうした前提に立ち、社会や技術の設計思想そのものを捉え直そうとするのが、マルチスピーシーズという視点です。
この視点の射程は広く、気候変動や生物多様性の損失といった地球規模の問題から、都市空間、食料、健康、素材循環、そして日常の中で人間とともに暮らす動物との関係にまで及びます。近年は、AI、センシング、バイオテクノロジー、ロボティクスなどの進展によって、人間以外の存在との関係をより精密に観測し、設計し、介入することが可能になりつつあります。だからこそ今、「マルチスピーシーズ」は思想的な概念にとどまらず、テクノロジーの現在地と今後を読み解くための座標軸になりつつあります。
「マルチスピーシーズ」は何を問うか
マルチスピーシーズという言葉は、学術やアート、デザイン、環境人文学など、さまざまな領域で用いられてきました。そこで共通しているのは、人間を唯一の中心に置いて世界を理解する見方に対する問い直しです。近代社会では、自然は資源として、動物は利用や管理の対象として、微生物は制御すべき存在として捉えられることが少なくありませんでした。しかし実際には、人間の暮らしも産業も都市も、他の生物や環境条件との相互作用の上に成り立っています。
この視点に立つと、私たちが「社会」と呼んできたものの輪郭も変わります。社会は人間同士の関係だけで構成されているのではなく、農地を支える微生物、食料供給を支える受粉昆虫、都市環境を形づくる植生や水系、健康に関わる腸内細菌叢など、さまざまな非人間的存在とともに形づくられています。マルチスピーシーズとは、そうした現実をあらためて可視化し、人間以外の存在を背景ではなく関係の一部として捉え直すための概念です。
人間だけを中心にした社会設計はなぜ揺らいでいるのか
マルチスピーシーズという視点が注目される背景には、人間中心の社会設計が限界を露呈しつつあるという現実があります。産業革命以降の技術発展は、多くの場合、人間の利便性、生産性、効率の向上を最優先に進められてきました。都市は人間の移動と経済活動のために整備され、農業は収量を最大化する方向で合理化され、自然環境は開発可能な空間として扱われてきました。
しかしその結果として、気候変動、生物多様性の損失、土壌の劣化、水資源の圧迫、感染症リスクの増大といった問題が深刻化しています。これらは別々の課題のように見えて、いずれも人間だけの都合で環境や他種との関係を再編してきたことの帰結とも言えます。人間にとって短期的に合理的だった設計が、長期的には社会そのものの基盤を弱めているのです。
こうした状況の中で、テクノロジーの目的や評価軸そのものを見直す必要が出てきました。何を効率化するのか、誰の利益を最適化するのか、どこまでを設計対象とするのか。マルチスピーシーズは、こうした問いを通じて、人間中心の前提を揺さぶる視点として浮上しています。

地球、生態系、環境保全を「関係の問題」として捉え直す
環境保全やサステナビリティの議論は、これまでしばしば「守るべき自然」と「利用する人間」という二項対立の枠組みで語られてきました。しかしマルチスピーシーズの視点では、自然は人間社会の外側にあるものではありません。森林、河川、海洋、土壌、生物群集は、人間社会の外部にある保護対象ではなく、社会そのものを成り立たせる関係の網の目の一部です。
環境保全は「人間が自然に配慮すること」ではなく、人間社会がそもそもどのような関係の上に成り立っているのかを理解し、その関係を壊しすぎないように設計し直すことだと分かります。マルチスピーシーズは、サステナビリティを資源管理の問題としてだけでなく、関係の再設計の問題として捉え直すための視点でもあります。
共生の理想は、管理や最適化とも隣り合わせにある
マルチスピーシーズは魅力的な概念ですが、それをそのまま肯定的な言葉として消費してしまうのは危うさもあります。人間以外の存在に目を向けることは重要ですが、その関心が必ずしも対等な共生につながるとは限りません。データ化や可視化が進むことで、他種や生態系がより細かく管理される対象になる可能性もあるからです。
さらに、種と種の利害は必ずしも一致しません。ある生態系を守ることが他の生物の移動を制限する場合もありますし、人間の安全や公衆衛生と他種の保全が緊張関係に立つ場面もあります。マルチスピーシーズは、単純な調和を前提にする概念ではなく、そうした摩擦や対立を含んだ現実を直視するための枠組みでもあります。
だからこそ重要なのは、「共生」という言葉を理想として掲げることだけではなく、どのような関係を望ましいものとして設計し、どのような価値の衝突をどう扱うのかを具体的に考えることです。
都市、食、素材、健康、そして身近な動物との関係へ
マルチスピーシーズの対象は、遠くの自然や特別な保護区に限られません。むしろ重要なのは、都市や家庭を含む日常空間もまた、複数種の関係の中で成り立っているという点です。
健康の領域でも同様です。人間の身体を閉じた個体として見るのではなく、腸内細菌叢や環境要因との相互作用の中で捉える視点はすでに広がりつつあります。
そして、こうした視点は日常の中にも及びます。都市に暮らす鳥や昆虫、土壌中の微生物、さらには家庭でともに暮らす伴侶動物もまた、人間社会の外側にある存在ではありません。私たちは最も身近な他種との関係ですら、愛着やケアの対象としては見てきた一方で、ともに環境や生活世界を形づくる存在として十分に捉えてこなかった面があります。

ワンヘルスは、マルチスピーシーズの実践的な接点でもある
この視点を考えるうえで、近年よく参照されるのが「ワンヘルス」です。ワンヘルスは、人、動物、それを取り巻く環境の健康を包括的に捉え、分野横断的な課題に連携して取り組む考え方として整理されています。厚生労働省は人獣共通感染症や薬剤耐性の問題を背景にこの考え方を紹介しており、WHOもまた、人、動物、生態系の密接で相互依存的なつながりを前提に、予防、探知、備え、対応までをつなぐ統合的なアプローチとして位置づけています。
ワンヘルスは健康や、公衆衛生、感染症対策、薬剤耐性、政策連携といった実務的な文脈で発展してきた側面が強く、マルチスピーシーズはそれより広く、社会や技術、倫理、設計思想を問い直す視点です。ただし両者は、人間の健康や安全を人間だけで完結するものとして捉えないという点で重なります。
この接点はとても重要です。マルチスピーシーズを理念にとどめず、社会実装の方向まで考えるとき、ワンヘルスはすでに制度や公的議論の中で何が起きているかを示す具体例になるからです。人、動物、環境の関係を一体として見る必要性は、思想の世界だけでなく、感染症、食、農業、気候、地域医療といった現実の課題の中で、すでに共有され始めています。
マルチスピーシーズは未来の技術を読み解く座標軸になる
マルチスピーシーズは、AI、バイオテクノロジー、ロボティクス、素材開発、都市設計といった幅広い技術領域に対して、「誰のために技術を設計するのか」という問いを投げかけるものです。人間だけの利便性を最適化する時代から、人間以外の存在との関係を含めて社会を組み立て直す時代へ。その転換を理解するための視点として、マルチスピーシーズは重要性を増しています。
人間だけの進歩ではなく、複数種が関わる世界の持続可能性へ。マルチスピーシーズとは、そうした未来を考えるための思想であり、同時に、技術の現在を読み解くための現実的なレンズでもあります。
【参考リンク】
マルチスピーシーズとは・意味|IDEAS FOR GOOD(外部)
マルチスピーシーズという語の意味や背景を整理した解説ページ。
特集 マルチスピーシーズ民族誌の眺望ーー多種の絡まり合いから見る世界|文化人類学(日本文化人類学会)
マルチスピーシーズ民族誌という研究の背景と論点を、日本語で整理した特集の序文。DOI:https://doi.org/10.14890/jjcanth.86.1_044
「持続可能性」の定義を「マルチスピーシーズ」の概念から問い直す
-人類以外の生物種との共存共栄が鍵-|総合地球環境学研究所(外部)
従来のサステナビリティ概念を、人間以外の生物種まで視野を広げて見直す研究内容を紹介したページ。
ワンヘルス・アプローチに基づく人獣共通感染症対策|厚生労働省(外部)
人、動物、環境の健康を包括的に捉えるワンヘルスの考え方を説明したページ。
ネイチャーポジティブポータル|環境省(外部)
生物多様性の損失を止めて回復させるという考え方を整理した環境省のポータル。
伴侶動物部門|日本獣医生命科学大学(外部)
伴侶動物を、人とともに健康で幸福に暮らす社会の一部として捉える考え方に触れられるページ。







































